エピローグ
「――メ?」
「…………」
「……アメ?」
「んん……むにゃむにゃ」
「アメってばぁ」
「……スヤァ」
「アメ!!」
「ひゅう!?」
意識が覚醒すると、わたしよりもひと回り小柄な女の子が腰に手を当てて立っていた。
「あぁ、……おはよ、チャロ」
「まったく、アメはお寝坊さんだなぁ」
「えへへ、日本にいた時は割と朝強かったんだけどな~」
「それだけ、この生活にも慣れてきたってことでしょ?」
「うん、そうかも」
わたしは今、夏季休暇を利用してフィンランドの大学に短期留学している。
ここは大学指定の寮で、わたしは彼女――東南アジアから留学しているチャロとルームシェア中だ。
チャロは小麦色の肌が素敵な明るい女の子で、わたしと同い年。語学力もわたしと大差なく、最初の頃は拙い会話をしていたけど、今では随分と滑らかにコミュニケーションがとれるようになった。
「アメは今日一限から?」
「うん、その前に寄るところがあるんだけどね」
「おっ! 例のガールフレンドのところかな?」
「そんなとこ」
わたしが素直に答えたので、茶化したつもりのチャロの方が面食らっている様子だった。
「いいな~いいな~。アタシもボーイフレンド欲しいな~」
「チャロは素敵な子だから、すぐいい人見つかるよ」
「すでに恋人がいる子はみんなそう言うんだよ。心に余裕があるっていうかさぁ」
「そんなことないと思うけど……」
「じゃあ、アタシがボーイフレンド見つけられなかったら、アメがアタシのこともらってくれる?」
「それはちょっと……」
「アメはガールフレンド一筋だからなぁ」
そんな……すでに朝の日常になった彼女との会話をしながら、わたしは少しだけ伸びた寝ぐせのある髪をブラシで
***
身支度を終えて、午後から講義のあるチャロを残して寮を出る。
まだ午前七時。いつもより早い出発だ。
大学は徒歩で通える範囲だけど、今日は真っ直ぐには向かわず、バスに乗る。行き先は町の郊外だ。
季節は夏。
バスの車窓から入ってくるなま温かい風が頬を撫でる。
石とレンガの建物。その景観と調和するように植えられた木々や花。町の中心部には一本の大きな川が流れていて、とても澄んだ色をしている。
故郷である
バスのからそんな風景を眺めながら、彼女が待つ場所へ向かった。
***
どうやら、彼女の方が先に到着していたらしい。
まるで温度を計るかのように樹の幹に手をついて上を見上げる少女。
今の季節にぴったりな爽やかな白いブラウスに、ブラウンのチノのロングスカート。
あの頃よりも少し伸びた髪をなびかせ、あの頃と変わらない碧い瞳をこちらに向けた。
その透き通った水たまりのような瞳がわたしを映すと、彼女の表情がふわっと柔らかくなった。
「お待たせ、
雲璃は柔和に微笑んで、こちらに歩み寄ってくる。
「ごめんね。
「気にしないで。それに、大事なことだから。わたしにとって、……ううん、わたし達にとって」
訪れたのは町の郊外にある湖畔。底まで見えそうな綺麗な色をした湖を、深緑の葉を宿した木々が囲んでいる。
雲璃は湖から少し離れた場所で屈んで、ポーチから小さな袋を取り出した。
手の平をくぼませて袋を軽く揺すると小さな黒い粒のようなものが出てきた。それは向日葵の種だった。
わたしは雲璃から種を分けてもらうと一緒にそれを土に植えた。
「きれいに咲くといいね」
「咲くよ、必ず」
***
湖をあとにして、雲璃と肩を並べて並木道を歩く。
わたし達以外に人はいなくて、まだ午前中なのに気温がぐんぐん上がる。
日本みたいに密閉した暑さではなく、たまに涼しい風が吹き抜けるのが北欧らしい夏だと思った。
「雨愛、その帽子って……」
「うん、雲璃が買ってくれたものだよ。今日は暑くなると思ってかぶってきたんだ」
「けっこう昔のやつだよね。新しいの買えればいいのに」
「買い替えても、これは捨てられないかな」
「どうして?」
「これ、雲璃と初めてデートしたときに買ってもらった帽子だから」
そう言うと、雲璃は頬を桜色に染めてきゅっと唇を結んだ。
その反応を見て、わたしも照れてしまい、目線を逸らすと彼女の指に太陽の光を反射するアクセサリーがあることに気付いた。
「その指輪、まだ付けててくれたんだ」
「当たり前だよ、雨愛からもらった大切な贈り物だからね」
「新しい指輪買ってもいいのに」と、わたしが冗談交じりに言うと、
「そういうの本当に怒るからね」と、雲璃もまた冗談交じりに返した。
笑いあって、無言になって……。話題が見つかったら、また話して……。時間を惜しむように歩く速度を落として、夏の道を歩く。
「雨愛、こっち」
「ぁ……ちょっと、雲璃」
雲璃がわたしの手を引いて石畳の道の外側へ導いた。木陰に入ると夏の日差しが和らいだ。
「雨愛……」
「雲璃…………、ん……ちゅ」
一秒にも満たない視線を交わし、そのまま唇を重ねる。
「好きだよ、雨愛」
「わたしも」
人の人生っていつから始まるんだろう……。
色々失って、いろいろ乗り越えて、その延長線上に雲璃との「今」がある。
"今"を確かめて、"未来"を約束するように唇を重ねる。体と脳の酸素が尽きて一度体を離すと、目の前の女の子も顔をほんのり紅潮させて色っぽい息遣いをしていた。
わたしもきっと同じ表情をしているだろう。お互いの様子を見て、どこかおかしくなって、つい笑みが零れた。
「これかも、ずっと一緒だよ」
二人で、とは言わなかった。でも、わたしの気持ちを汲み取ってくれた雲璃は夏の午睡のような優しい表情をしていた。
***
――数年後。
凪ヶ丘のターミナル駅は都市整備が行われ、量販店、コンビニ、雑貨屋などが増えた。
新しくなった駅前の一画にある書店。その文学コーナーに一人の女子生徒の姿があった。
「あっ! こんな所にいた! ちょっと、
「…………」
「虹乃ってば!!」
「…………」
「虹乃っ!!!」
「ぅわ、びっくりした……、なんだ
「駅前で待ち合わせって言ったでしょ?」
「? この本屋さんも駅前だよ?」
「駅前つったら、ふつう広場の噴水前でしょうが」
霧子は虹乃の頬を両手でつまんでぐいぐい引っ張る。
「何か面白い本でもあったの?」
「どうしてそう思ったの?」
「あんたがあたしの声も聞こえないくらい集中するなんて、好きな本を読んでるときか、宿題忘れた言い訳を必死に考えてるときくらいでしょ」
「さすが霧子は私のことよく分かってる。このまま結婚しちゃう?」
そう言うと霧子が頬を赤くしながら虹乃に軽くチョップを入れた。
「で、なに読んでたの?」
「うん、これなんだけど」
虹乃がさっきまで立ち読みしていた一冊の本を霧子に差し出す。白いハードカバーの本で、表紙には森と湖が水彩画のような淡いタッチで描かれている。
白の背景に緑と蒼の絵タッチだから、端に描かれた一本の鮮やかな向日葵が目を引く。
「作者は、あめ。原画は、くもり……さん。あぁ、なんか名前は聞いたことある」
霧子は本の背表紙を見ながら呟く。霧子自身、普段は小説は読まないが、シンプルな名前ゆえに、頭の片隅に覚えていたのだ。
「確か、けっこう有名な作家さんと絵師だよね? 名前くらい聞いたことある」
「うん。数年前から二人で作品をつくっててね。これは彼女達の処女作なの」
「へ~……、どんな話なの?」
「主人公のお友達が死んじゃうお話なんだけどね……」
「うわ、暗い感じ? あたしそういうの苦手かな」
「私も最初そう思ったの。でも、なんか違った。『この物語は、全然怖くないし、悲しいお話でもないんだよ』って、まるで本が語りかけてくるみたい」
虹乃は赤子をあやすような手つきで本を撫でると、優しく目を細めた。
「ちなみに、その二人も
「えっ!? そうなんだ! じゃあ、あたしらの大先輩ってわけだ」
今まで興味なさそうに聞いていた霧子の表情が一気に明るくなった。
「二人は今も日本にいるの?」
「それが分からないんだよね。一緒に暮らしてるらしいんだけど……。定期的に海外のコンテストに作品を発表してるから、もしかしたら海の向こうかも」
「ふ~ん。でも、なんだか嬉しいね。地元の先輩が活躍してるのって」
「そうだね」
そこでようやく霧子は本日の要件を思い出すのだった。
「また虹乃に流されるところだった! ほら、買うなら買って、さっさと行くよ」
「そうだった、今日は霧子とデートの約束だったもんね」
「べ、べつにデートじゃないし! ただの買い物だし……っ」
「ただの買い物にしては、今日の霧子、オシャレさんだよね? 可愛いよ」
「も、もうっ! そうやってあんたは……っ! あたし以外の女の子に気安く可愛いなんて言ったらダメなんだからね! いい!? 」
「う、うん……?」
耳まで赤くなった霧子の手を虹乃が掴んだ。
屈託のない笑みを浮かべると、霧子も優しく微笑み返した。
「その本さ、読んだら借りてもいい?」
「いいけど、……霧子が小説に興味持つなんてめずらしいね」
「虹乃の話聞いてたら読みたくなっちゃって」
「わかった。楽しみだなぁ、霧子と本の感想を話せるなんて……あっ!」
「ど、どうしたの、大きな声出して」
「今月いっぱい本買っちゃって……。今日コレ買ったらお財布ゼロになっちゃう……。ねぇ、お昼奢って~霧子」
甘えるように上目遣いで見つめる虹乃。彼女は無意識というか、天然でやっているのだが、こういう表情に霧子は弱いのだ。だから、つい甘やかしてしまう。
「まったく、この子は……。まぁ、誘ったのはあたしの方だしね」
「やったー! 大好きだよ、霧子」
二人は一緒に店を出ていく。
手を繋ぎ、指を絡め。
一冊の物語を携えて――。
***おしまい***
夢イストの夜明けに 礫奈ゆき @rekina_yuki
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