あまおつをとめ

浪岡茗子

あまおつをとめ

 むかしむかし。

 天と地は、それはそれは長いきざはしで繋がれておりました。

 ところがあるとき、天地をひっくり返さんばかりの大きな地揺れが起こります。光り輝く階はもろくも崩れ去り、天界と地上は、永久とわに分かたれてしまったのです。

 それだけではありません。

 天上の高殿で舞の稽古をしていた天帝の娘が、足を滑らせ地上へと堕ちてしまいました。

 天へ帰る術はなく途方に暮れる娘を、ひとりの青年がみつけました。

 そのうるわしい姿にひと目で虜となった青年は、天女を無理やり妻にしていまいます。

 天界に帰ることも叶わず、身を汚された娘は、一日中泣いて暮らしました。

 青年が、いくら金糸銀糸に彩られた錦で着飾らせても、紅玉、碧玉、白玉、色とりどりの宝玉を贈っても、涙は尽きることがありません。

 崩壊した地を均し、人心を集め地位を築こうとも、心はおろか、口さえも開かない娘を、青年はついに、暗い土蔵へと閉じこめてしまいました。

 いつまでも止まない泣き声が、やがて天帝のおわす天上まで届き、愛しい妻を連れ戻しに来るのではないかと恐れたからです。


 窓ひとつなく、一筋の陽の光も月明かりも射さない土蔵の壁は厚く、どれほどの声をあげても外には漏れません。唯一の木戸から運ばれる、山海の幸が盛られた食事だけで、時の流れを知る月日が過ぎてゆきました。

 それさえも数える気力を奪われ、涙も声も枯れ果てたある日。娘のやつれた身体に、新たな命が宿ります。

 民をまとめ国の主となっていた青年はたいそう喜びましたが、娘には信じ難い悪夢を見続けているようでした。

 それでも彼女の腹は、日に日に大きくなっていきます。

 やがて月は満ち、健やかでうつくしい男子おのこが産まれました。

 百に及ぶ日夜の宴が催され、世継ぎの誕生を国中が言祝ことほぎます。ただひとり、その子の母を除いては……。


 祝宴の最終日。娘は、賑わいの楽も唄も届かない土蔵の、常は堅く閉ざされている扉の閂が外れていることに気づきました。

 連日連夜ふるまわれる祝い酒が、皆の気を緩ませたのでしょうか。

 そうっと木の扉を押し開けた娘は、久方ぶりに浴びる陽射しの眩しさに目が眩みます。堪らず袖で顔を覆う彼女を咎める声は聞こえません。

 かわりに耳と心の奥底をくすぐったのは、軽やかな楽の音でした。

 心地好い旋律は娘に力を注ぎます。染みついた動きは、己を失いかけていた身体でも覚えていました。

 音を捉えた細い手足をしならせながら躍り出た先は、まさに宴の中心。

 唐突に現われた天女に、その場に居合わせた人々は目を奪われました。

 楽師たちは、妙なる舞いが途絶えることのないよう奏で続けます。

 舞手が蔵にいなければならない妻だと気づいた帝でさえ、言葉を失ったまま彼女を止めようとはしません。

 皆が皆、天上の舞いに酔いしれました。

 興に乗った曲調は次第に激しさを増していきます。けれども、長きにわたって閉じ込められていたことなど感じさせない滑らか動きは決して遅れることなく、むしろ国中から集められた名奏者たちの音を引っ張るほど。

 晴天の下で舞い続ける彼女から、陽光を受けて輝きを放つ欠片がほとばしります。それは両の眸から止めどなく流れる、とうに枯れたはずの涙でした。

 溢れる雫はまるで霧雨のように辺り一帯を覆います。そこへ燦々と降り注ぐ陽の光が重なりました。

 すると驚いたことに、光の結晶が集まり造られた七色の橋が現れ、天に向かって伸び始めたのです。


 楽がやみ、舞を終了した天女は、橋のたもとに立ちました。

 一歩足を踏み出した妻を、帝は引き留めようとします。ですが、彼の手をすり抜けた天女は、ためらうことなく虹の橋を昇って行きました。

 天女が通ったあとの橋は、みるみるうちに光の粒となって消えていってしまい、追いかけることもできません。

 殿舎の屋根の遥か上まで歩を進めた彼女が、ただの一度だけ、地上を見下ろしました。

 乳母の腕の中でむずかる我が子の声が届いたのかもしれません。

 ですが、再び天空を目指し歩みはじめた天女は、二度と振り返ることなく、橋の向こう岸――日輪の中へと消えてしまったのでした。


【環栄国 民間伝承】




「――ゆえに、この国では舞を禁じられていたはずだが?」


 男は、目の前で裳裾を翻す娘に問う。

 愛娘への仕打ちを知った天帝が率いる天軍に攻め入られることを恐れてか、帝の唯一の子となった皇子みこを取り戻されると懸念したのか。二度と天地が結ばれないよう、朝廷は舞うことを禁じた。 


 はたり、と袖から生まれていた風がやんだ。

 振り向いた白い額には、うっすらと浮かぶ汗が星屑のごとくきらめいてた。


「ならばあなたも、古の帝に倣ってわたしを閉じ込めてみる?」


 月のない夜空に似た瞳の色が、挑むように深まった。

 男は「まさか」と口の端をあげる。


「俺なら左様に愚かなまねはせぬ」


 どれほど戒めようと、民が豊かな実りを歓ぶため、魂を鎮めるための舞を忘れなかったように、何者もこの舞姫を止めることなどできはしない。

 男には、それが身にしみてよくわかっていた。 


「 橋が架かるほど存分に舞うがいい。ともに翔け昇り、天をも手にいれてみせよう」


 言葉とはうらはらに、娘の身体をかいなに掻き抱いた。



     ― 了 ―

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あまおつをとめ 浪岡茗子 @daifuku-mochi

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