氷刃
明日葉叶
第1話 冷たい死人
いじめられっ子があることをきっかけに突如として世界を破滅から救うヒーローになるなんて話は世の中腐るほどあるけれど、僕の日常ではそんな奇怪な出来事はいまだに起きる気配はない。
牧村夏生は今、そんなことを想いながら据えた臭いがする旧校舎のトイレからくたびれた顔つきで出てきた。
今日はまだいい方だ。
先日は秘かに好意を寄せている弓道部の宗形朱美の体操着が自分のカバンに仕込まれており、体育の授業で晒し者にされたあげく朱美にビンタを食らった。
「変態」
その言葉を放った朱美の羞恥と怒りに満ちた涙目を夏生に一生忘れられないトラウマを作った。
犯人はわかっている。顔も名前も思い出したくはないが、朝から酷いときは放課後まで夏生に突っかかってくるバスケ部の中居春斗とその取り巻きの柳原和也だ。
今日は前にYouTubeで配信された朱美の体操着の盗難の動画が思った以上に視聴されない事を逆恨みされて、今治誰も寄り付かない旧校舎のトイレに呼び出され、この様だ。
頭から水をぶちまけられ、何度も殴られ、えぐる痛みに床に伏した所を脇腹を蹴られた。
「許して欲しいのか?許してほしければそう言えよ」
ひとしきり夏生を蹴り飛ばした春斗は、眼下に夏生をとらえてヤンキー座りをした。
その隣ではガムを咀嚼しながら今から起こるちょっとした遊戯に悦びを隠せない和也がスマホで動画を撮影していた。
「ゆるして…ください」
「じゃ、お前が思う再生回数が上がる方法を見せてみろ」
春斗は話終えると、掴んでいた夏生の頭をあっけなく床に落とした。
アオタンと鼻血にまみれた顔で、夏生は床の汚水を啜った。
外は夏らしい日暮の鳴き声が響いていた。
例えば、強靭な肉体を持っていても、最早夏生には戦う勇気がない。
犬を使った実験で条件を満たせば電気ショックが止まる部屋に閉じ込めた個体と、何をしても電気ショックが止まらない部屋に閉じ込めた個体を観察したデータがある。
電気ショックが止まる部屋に閉じ込めた個体は、それを学び、回避した。
ところが電気ショックが止まらない部屋に閉じ込めた個体は、ただ無気力にそれが過ぎていくのを耐えた。
一過性ね苦痛に心を腐らせた。耐えてさえいればいずれ終わる。と。
夏生も漏れることなく、一過性の苦痛に心を腐らせた。
どうせ。それが夏生の口癖。
高校の校門を出た夏生は、動画に流された自身の姿に頭を抱えていた。今後、あれが世界を巡り、下手すると朱美の目にも止まり…。
死にたくなった。
いや、正しくは存在をなかったことにしたい。
夏生は自分を作った神を酷く呪う。
「俺なんか作りやがって」
すれ違う小学生がぶつかった。手にはスマホを持っており、例の動画が流れていた。
「あっ、」
何かばつの悪いものを見た小学生は、連れ添った友人とそそくさとその場を離れた。
死のう。道具を探しにホームセンターに行こう。
夏生の足は、自宅から程近いホームセンターへ向かった。
朱美の父は朱美がまだ中学生の時に他界した。死因は飲酒による肝硬変。救急車は呼べなかった。家庭内暴力が表沙汰になるのを恐れた父親が電話線をその日引き抜いたせいだ。
朱美はほっとした。自信の父と言えどもう見なくても良いことを。
でも…。
朱美の体操着をしきりに嗅いでいた父を、夏生のせいで思い出していた。
一抹の不安が過る曇り空を、朱美は実家である羽黒神社の境内からぼんやり眺めた。
ロープは買った。あとは木だ。出来るだけ高く、太い頑丈な大木が良い。
端から見ると完全に怪しい状態の夏生は、羽黒神社を目指していた。何かあると必ずあそこに参拝をする。それが夏生の精神を今まで安定させてきていた。しかし、もう神様ではどうにも出来ない事実に夏生は遭遇していた。
羽黒神社へ通じる急な階段を、猛烈な勢いでかけ上がる四足の獣がいた。
息は上がり、譫言を繰り返す。
「…アケミ、オレノ…アケミ…イマ」
氷刃 明日葉叶 @o-cean
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。氷刃の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます