後篇   愛さえも孤独


   1


グリモワールって言葉を聞いたことがある?

フランス語で魔術の書物って意味なんだけど、あたしがそんな事を思いだしたのには理由がある。

いつの時代にもお騒がせな奴らがやってる火のないところに煙をたたせるって運動を律義にやってる世界の終末論争の一端に、そんな遊戯が蔓延していたのかもしれない。


「その娘が言う事には、携帯電話でプレイメイトって遊び仲間を探すアプリケーションをダウンロードして、六月六日午前六時六分六秒に『夢』って単語を検索すると本当は何もないはずの場所に『✖』マークが出現するんだと」


それを人はヘブンズゲートって呼んでいるらしい。


 でっ、その場所に行った人間は誰も帰ってこないという噂がある。


 そして、その娘の大切な人が、その場所に行って行方をくらました。


 それは三週間前の話。


「六月六日が近づくと、幽霊や妖怪の活動が活発になるって思わない?」

「んにゃ、考えたこともない」

「666は新約聖書、ヨハネの黙示録で獣の数字って言われているの。

 神の数字を7としているから、それに一つ足らない6は神のなりそこない。

もっとも不吉な数字と言われている。

 それがみっつ重なるのは悪魔の証明。

 そう言われているの」

「それが?」

「お願い。

 彼をさがして・・・」

「行方不明になった恋人でもいんの?」

「彼だけが私の心の支えだったの」

「いいわよ。

 べつに語らなくても」

 と、あたしは大きく欠伸をした。

「見てれば解ることもあるんだからさぁ」


  ○


良いことも悪いことも全部。

あなたにとってかけがえのない未来になればいい。


それが彼女が他人と接するときに抱く感情だった。


国際警察機構という巨大な組織に在籍し、一流のエージェントの名を欲しいままにしてきた彼女が、長年の経験によって蓄積された心痛によって得た心の傷。

その象徴でもある言葉は、それ自体が彼女の口癖にもなっていたものだった。

濃紺にオフホワイトのストライプがあるジャケットにストレッチパンツのオフィスライクなスーツ姿。

彼女はいつも身なりを整えているものの、その性根は正装されたものではない。 


高槻美里は野良である。

愛くるしいほどの美貌はないが、年相応の色気はある。

しかし、それを武器にしないことが彼女の高貴さ。

高尚たるは彼女のプライド。

それは女だとしても、男以上の仕事ができるのだという自負でもある。

「いまさら」

と吹き出すように呟くと、得意の笑顔で「まっ、しゃーなしか」と欠伸をした。

携帯電話に送られてくる迷惑メール。

まるでスパムだ。

どこで嗅ぎつけたのか悪口雑言を並び立てられている。

そういう姿を隠して勝手をする無責任な連中。

その中での集団心理がどんなものか、べつにあたしは興味がないけど。

なんの関心も抱けない。

ただ面倒なだけだった。

「忌々しいなぁ」

 誹謗中傷なんて今更はじまったことでもないし、いちいち気にしてはいられない。

風に柳の例えもあるが、彼女は飄々と笑っていられる。

芯のつよい女だったのだ。


 ○

 

 『再会』という名の喫茶店に入るとカラカラと涼しげな鐘の音が響いてくる。

佐曾地紗環には、遠目でも彼女がそれなのだと解かる。

店内には他の客がいなかったからだった。


初対面の、その女性の方に歩みを進める。


   ○


 日頃の心労がたたっている。

 やけに欠伸が性根づいて気だるいのだ。

 だから、この田舎町にやってきた。

休暇のようなものだから、退屈しのぎに気を紛らすこともある。

 バカげた話にも耳を貸すことができたのも、それが根拠。


 あたしは注文したモーニングセットを待ちながら、座っているテーブルの席に彼女が近づくのを待った。

 予想通りの若づくりをしている。

 長身・長髪にくわえ手足も細長い女。

 胸元は少し残念だけど、他は赤点のない女だなと高槻美里は思っていた。

 目前に来たので、起立して礼。

 軽い挨拶。

 斐月要には聞かなかったけど、二人の関係は極めて最悪だと知っていたので、彼の名前を出すのに迷いのないわけではないのだが。

「高槻美里っす。

 斐月要の知り合いで、片桐脩の代理です」

 と、それから、彼女の事情を知っていること。

 そして、それを他言しないことを説明。

 それからは斐月の捜査内容の説明。

 説明が多すぎて欠伸を我慢しながらの説明。


 彼女は死んだ恋人の幽霊をみると言っていた。

 それを調査していた片桐脩ってのが行方をくらましたので、かわりに斐月が調べたところ、幽霊はいないという結論に至ったという経緯。

 その説明。


「ではありますが、佐曾地さんが幽霊と誤認した存在。

 それは確かに存在しています」

「じゃぁ、なんだったの。

 私には解釈の仕様もないんだけれど」

「でしょうね」

 

 冷静な判断力を欠いた人間は、もっとも現実らしくない結論さえも容易に受け入れてしまう。

 それを説明。


「もっと簡単で現実的な解答ですよ。

 真実っていうものはね」

「もったいぶるの。

 やめてくれます」

「んなつもりはないけど、あまりに現実を見るのが苦手なようだから」

「バカにしてる?」

「んにゃ。

あんたのプライドが高いだけ」

「やっぱりバカにしてるんだ」

「まぁ、あたしも短絡的だから。

 話、やめてもいいんだけど、どうする?

 きく?」


 彼女の昔の恋人が彼女のために死んだというのも、実は彼女の思い込みにすぎない。

 その男には他にも肉体関係をもった不倫相手が数人いた。

 男が彼女のことを、その中で一番に愛していたということも、他の恋人たちと比べれば考えられる容貌ではなかった。

 男の奥さんが彼女の存在を知った理由は解らないけれど、問い詰めるためというわけではないのかもしれない。

 もしかしたら、彼女が不倫相手だという結論にも辿りついていなかったのかもしれない。

 

 あたしがそれを説明すると、彼女は落胆したのか一度は眼をふせたが、すぐに「そうなんだ」と持ちなおした。


 亡くなった男の身内には二つ違いの弟がいた。

 幼い頃から正反対の性格で、兄とは違い、引っこみ思案で女性にモテるような人間ではない。

とはいえ、容貌だけなら瓜二つ。

 彼女は彼を見たのだった。

「たまたま眼があって、見ていたんだよ。

 だから、其処から距離を縮めたいとは特別思ったりはしなかった。

 ただ、それだけの話だよ。

 でも、あんたに罪悪感があったから、良心の呵責に苛まされた。

 それが悪夢だって言うのなら、たぶんそんなものじゃない。

 単なる思いすごしと思い込みだってね」

「そっか。

 ・・・そうなんだ」

「残念?」

「残念って、なにが?」

「退屈な人生に飽きがきて、スリルを求めているんじゃないかと思ったから」

「私がそんな人間に見えるの?」

「じゃない?」

「それはあなたの感性ではって事でしょう」

「かも。

 でも老婆心ながら忠告させて頂くとさ。

 度胸があって自信過剰な女の方が嫌われるものじゃない。

 ほらっ、人って弱みで愛されるようなとこあるからさ」

「そぉ?

 やめてくれる。

 慰めるみたいな言葉」

「んなつもりはサラサラないよ。

あんたには本当に大切なものが何も見えていないって説明しようとしていただけなんだからさぁ」 

「大切なものって何よ?」

「まっ、他人を見てくれや権威でしか測れないのなら、いつまで経ってもみつからないんでない」

「検討もつかないんだけど」


 あたしは漸くウェイトレスが運んできたモーニングセットのサラダに手をつける。

 食事はサラダからって決めている。

 ダイエットの習慣が身に染みているから、そうなんだ。

 心身ともに根づいている。

「まぁ、動揺しているだけじゃない。

 でも、それって生きている証拠だものね」

「人は必ず死ぬけれど、肉体が死んで、それでもタマシイが残るとして、死後の恋って可能かしら」

「センチだね。

 どした?」

「生きることの不安と死ぬことへの憧れが共存するから、こんなこと口走っちゃうことがあるのよ」

「んなこと考えるようなものじゃないよ。

 そいつは彼らの課題であって、あたしらの知るところではないんじゃないかなぁ」

「彼らって誰よ?」

「そいつは・・・

 彼らよ」

 そう漠然と答えて、彼女には名前を伝えなかった。

 だから紗環は霊的なものを彼女が指していると勘違いして聞いたのだが。

 美里の関心とは違っていた。

 その彼女。

不満をぶつけたい相手はいる。

とくに知人というだけで彼女に、こんなパシリをやらせている斐月要には苛立ってはいたが。

美里は利口な女なので、紗環の表情から、彼女が何を考えているのかを何気なく悟って、

「もちろん死を教授してきた者たちのことさ」


   2


 あらゆる事象が、ここから始まり、ここに消える。

 そういっても過言ではない場所が人には誰にも存在するというのなら、


自分にも必ず、


ここから始まり、ここに消えると彼には決めている場所があった。

 

 それは彼にとって、『世界』と呼んでも構わない。


 彼だけが望み、生きる世界。


「みんな捜しているぜ」

「みんなって誰だ?」

「だから、みんなさ。

 特定の個人ではなく、お前を知っているその他大勢。

 それには俺も含まれているけどな」

「どうせ空に頼まれたんだろ?

 おまえはアイツに惚れていたからな」

「まぁ、心配はしている事だろうな。

 なんせ、自分を自分だと認識しない兄が、自分は自分だと認識しはじめたんだからな」

「ややこしい話だ」

「そうかな。

 至極単純に思えるが。

 とくに俺にはな」

「・・・」

「自分を待ってくれている人がいる。

 かえればいいんじゃないのか」

「はたして、そういえるのかな。

 俺は、もう昔の俺じゃない」

「罪深いから、そう思うのか」

「一度、泥に足を踏み入れた者が、簡単には拭いきれぬ程の罪は、確かにあるということさ」

「それを誰が責めるんだよ」

「無論、己で裁くのさ。

 もしくは空が。

 空は俺の死を望んでいる。

 俺を殺そうとしていたんだ」

「思い過ごしさ。

 証拠もないのに妄想に取りつかれる。

 そんな疑心暗鬼が己を苦しめるんじゃないのかい」

「百聞は一見に如かず。

 俺は見たのさ。

 空が俺を殺すために多くの人間を殺めたその瞬間をな」

「お前のために、その手段を選んだだけとは考えられないということか」

「まぁ、簡単に言えば、そういうことだ」

「それでも、アイツは持ってるぜ」

「お前が幸せにしてやればいいさ。

 好きなんだろ?

 空のこと」

「・・・でもないさ」

「そうか。

 でも俺には他に頼める奴がいない」

「自分の事くらいは自分でどうにかするだろうよ。

 お前も、自分のことを考えろよ」

「おまえは・・・

 ヘブンズゲートのことを知っているか」

「唐突だな。

 そいつが関係あるのかよ」

「此処にそれがあったんだ」

「だろうな。

 だから、俺たちは此処にいる」

「知っているのか?」

「噂くらいにはな。

 大層な話だよ。

 なんせ国際警察機構所属のエージェントが出張ってきたってんだからな。

 まぁ、事後で用済みだったとは、笑える話だぜ」

「捜査一課の#明日__あけび__##紗耶香__さやか__#刑事が解決したそうだ」

「アケ・ビ・・・?

 なんだっけ?

 きかない名前だな」

「だろうよ。

 俺らより、ひとまわりくらい若い女らしいぜ」

「そいつがどうした?」

「天国へつづく道があるとしたら魅力的だとは思わないか」


 天国へつづく道。

 そんな得体の知れない者を求めて失踪した人間がいた。


 最初は、インターネットの小さな掲示板に書かれた書き込みで、殆どの人間が見逃し、また気をとめたものも冗談だと笑い相手にはしなかった。

 しかし、それでも数名は、その掲示板に書かれた時刻、書かれた場所にやってきて、この目で確認しないと気がすまないという人間がいた。

「バカバカしいと鼻で笑っていたものさ。

 しかし、そんなことは関係ない。

 不幸は確実に俺の身に、現実に降りかかってきていたんだ」


 そこには、『セイラ』という名の女神がいるらしい。


 すくなくとも俺の人生では、他にお目にかかれないほどの美人だと聞いていた。


「天国の門は、そこにある。

 その噂は現実だった。

 いや、用意されてあったんだよ」


 その門の先には、天国へと通じる扉がある。


 それは何処に続いているのか解らない。

 何処にも続いてはいない個室かもしれないし、もしかしたら扉の向こうでは見知らぬ誰かが待っているのかもしれない。

 あるいは、かつて亡くなってしまった知人の誰かなのかも・・・


 暗闇と静寂が畏れを招く。

 そんな思考へと誘うのだ。


「記憶を失っていた俺が、自分をお前だと誤解したのは、俺がヘブンズゲートに行ったからだった」


 俺は、そこで女神の使徒に会う。

 彼女は冬月楓と名乗っていた。

 俺は彼女に連れられて三つの選択肢を与えられ、決断を迫られた事を覚えている。


「どんな決断だったんだ?」

「正直、それはよく覚えてない」

「自分を失ってしまうほどの惨劇があったのか。

 それとも悪夢か」

「記憶が抜けおちているんだ。

 自分にも解らないことは何も言えない」

「断片的な記憶もないのか?」

「ないんだ」

「そら重大事だな」

「此処に来れば何かが思い出せるような気がしたんだが」

「冬月って女は捕まっているらしいぜ。

 お前が此処に来ていたのは過去の足跡を追っただけだ。

 お前に何が会ったのか、それは知らない。

 しかし、使徒の女が生きているんだ。

 聞きだせるんじゃないのかい」

「いや、もういいよ」

 そういうと、銃を取り出し、俺はそいつに銃口を向けていた。

「ベレッタM1926か。

 どこで手にいれたんだ?」

「そこで拾ったんだよ」

「笑えるジョークだ。

俺を殺してどうする?

 俺にでも成りすますのか?」

「それもいいなと考えていたところだよ」

「よせよ。

 クソみたいな人生だ。

 誰も相手にしてくれなくなるだけだぜ」

 そう、斐月要は自嘲した。


   ○


 銃声が鳴り響くと、耳の奥にツーンっと音が共鳴する。

しばらく鳴りやみはしなかった。

「余計な事を。

 脩が俺を殺すわけがないだろう」

 と、斐月要。

 彼には親友なんていない。 

 それをあたしはよく知っていた。

 だから利用されて殺される。

 そう思った。

「そっ、ごめんね。

 気が効かなくてさぁ」

 よこたわる男の頸動脈に指を添えてみる。

 片桐脩の絶命を確認。

 直後、要には見えない位置で弾丸を素早く抜きとった。

「ほんとだ。

 タマが入ってないや」

「だろ?」

 と要。

「もう少しで説得できたんだ」

 と彼。

 とてもそうは思えなかった。

 でも、要は縋りついていたいんだ。

 自分にも信じられる人間がいるんだという幻想に。

 でも。

 あたしが殺らなければ要が死に、その直後にあたしが片桐を撃ち殺す。

 要が無駄死にするだけだったことをあたしは知っている。

 でも。

 あたしがそれを要に打ち明ける事はない。

 彼には信じていて欲しいから。

 ひとりじゃないって。

 友達なんかいなくても、仲間くらいはいるって事を。

 

 すくなくとも此処に。

 ひとりくらいは。


 それが誰にも愛された試しがないから、誰かを愛することもできないと信じている彼にたいして、あたしが唯一あたえられるものだった。


 希望を・・・




   3


 彼女の成分を言うのならば、九割がコンプレックスで形成されている。

 だから手柄を立てたいという想いは強く、誰よりも他者に認められたいという想いが強かった。

 そんな明日紗耶香だからこそ、自分の脆さを自覚している。

 そして誰にもそれを悟られたくはなかったからこそ、彼女は誰にたいしても傲慢な態度をとった。

 それは今も変わらない。

 その彼女が片桐空に会っている。

 高槻美里に兄を殺害された女にだ。


   ○


 人は抱えきれない心の痛みに直面したとき、

 自らの破滅をも願うものだと、私はそれを知っている。




 兄が死んだ。

 遺体を確認。

 霊安室は無機質な白いだけの箱。

 そこに寝そべる兄の亡骸。

 その骸をさえも、私は美しいと思って見惚れてしまった。

「兄を殺した女は居ますか?」

 その女は国際警察機構の捜査官・高槻美里。

 私は彼女の事を聞いていた。

「できることならば会わない方がいいよ。

 ボクの知るかぎり、世界中の誰よりも低脳で悪質な女だからさ」

「会えますか?」

「会うなって言ってんだよ」

「会いたいと言っているんですけど、アナタ、日本語ワカリマスヨネ」

「それバカにしてんの?

 それとも天然? 

髪染めてるだけで日本人なんだけど・・・

 まっ、いいけどさ」

 そう言って仕方なさそうに、透けるような金髪にポニーテールの女は、着ていた軍服の袖を捲りあげてから伸びをした。

「あーあ、めんどくせぇなぁ」

 と、私に背を向けてからの言葉。

「失礼ですけど、きこえてますよ」

「だろうね。

 承知の上だからさぁ」

 と、ふてぶてしい。

 明日刑事と名乗っている。

 コスプレチックだが、唯のミリタリーマニアらしい。

「あんた、ちっとも解っていないのさ。

 なんたらかんたらのエージェントっつうたら、言わば一流の殺し屋だよ。

 そんな奴に会うなんて、顔を覚えただけでも命の保証ができなくなる」

「それでも、会いたい。

 会えませんか?」

「それはあんたが彼女を殺そうと決意しているから?

 だとしたら、よした方がいい。

 あんたが敵う相手じゃない。

 たった一人で三つの国と二十の軍隊を壊滅したって噂があるくらいなんだから」

「それでも・・・」

「あきらめろつってんだよ。

 これはあんたが踏み入っていいような安直な話じゃないんだよ」

 と、最後には怒鳴るように叱られるだけだった。




   4

 

 閉鎖空間に身を置くことが快感になりつつある。

 平生が情緒不安定なあたしには何の感慨もない。

 ドラム缶の中に閉じ込められて海底に沈められた経験もあるあたしには、当然と言えば当然なのかもしれないが・・・

 

 あたしは周囲を見渡していた。

 古書の匂いが充満して味わい深い郷愁がある。

 あたしは安楽椅子に腰をかけていた。


その書斎にある書棚には幾つかの洋書が置いてある。

 アリス・マリエル・ウィリアムソンの『A woman in Grey』

ウィリアム・アイリッシュの『Phantom Lady』

 ちっとも英字なんて読めないくせにと思いながら、その二冊を手にとってみた。

 どうせ推理小説なのだだろうと思いながら、そのあらすじに眼を通した。

 あたしは彼を待つことにしたのだ。

 彼の住んでいるその部屋で。


   ○


 夜はふけかけていた。

 小窓から吹き抜ける風が次第に冷気をおびてくる。

 気がつくと十七時をまわっていた。

 携帯電話をだしてメールを送信。

『なぁ、いつになったら戻ってくんのさ』と女。

 すぐ戻ってくるという返信は送りざま。

 まるで彼女がメールを送ったのを見計らったようなタイミングでやってきた。

 それを確認して女は欠伸。

 彼女はストレッチがわりに全身で伸びをする。

 と、そのとき男がやってきた。

 彼女は「ちっす」と軽い挨拶。

「あぁ」と男。

 彼女に缶コーヒーを放っていた。

 なかばカフェイン中毒と思える程のコーヒー好き。

 その彼女の性分を知っているのだ。

 この斐月要と名乗る男は。


   ○


 孤独を生業と考えている斐月要。

 彼は両親から受け継いだ一戸建ての家に一人で暮らしている。

 

 その斐月要を、高槻美里は待っていた。


 何度目かのガタゴトという物音のあと、幾ばくかの時をおいて、その男はやってきた。

 軽い挨拶。

 缶コーヒーを飲み干したあと、見覚えのないその男に、彼女はこう尋ねるのだった。

「あんた、誰だよ?」

 すると男は斐月要だと主張。

 美里はうんざりした顔で、

「あんたはそう思っているかもしんないけれど、あんたは要じゃないんだよ」

 と応える。

「あたしは、他にもそういう人間を見てきたから解るのさ」

 と続けて、

「あんたも、そう思い込まされているんだってね」

 と。

 それを彼女は冬月楓に会って聞いていた。


   ○


 閉鎖空間に二人。

 面会室には透明なガラスの境界がある。

 そこで二人は向かい合って座っていた。

 一人は囚人。

 一人は捜査官。

 無機質な壁が圧迫して寄ってくるような威圧を持って二人を囲みこんでいる。

 そこで二人は話を続けていた。


 冬月楓は優秀な占い師と話題になったことがある女だが、彼女が言うに、占っているのではなく、お客に催眠術をかけて、よく当たると思い込ませているだけだということだった。

「本人の意思を消すことはありません。

 あくまで尊重した形をとっての暗示ですから、本人が拒絶しているのならば、催眠がかかることはありません」

 と楓は言う。

「そのためのヘブンズゲートってこと?」

「現実に絶望し、怖れすら覚えることになった者たちを人知れずに選別する。

 そうすれば安易に他人に成りきることができる者を集めることができる」

「それで自称・斐月要が存在するってことか」

「もちろん暗示は解ける者も、解けない者もいるわけですが」

「そいつは一体、何人いるの?」

「さぁ。

 数え切れない」

「でも、何故そんなものを増殖させようって考えたの?」

「それはたぶん・・・

 彼が自分を消さないために」

「自分が生きていた証し?」

「そんなものです。

 私はお金で雇われただけですから、それ以上は解りませんけど」

「あいつ、死ぬ気なの?」

「おそらく・・・」

「つまりは最初から彼は、大がかりな自殺を計っていたってことなのね」


   ○


 幻惑の扉。

 部屋に充満するフレグランスミントの香の匂い。

 そして書棚に陳列する書物の並び。


 思えば、此処にあるすべてが作為的で暗示めいている。

「あんたもそう思い込まされているんだってね」

 そう言って懐からとりだすシグザウアー。

 それは長年連れ添ってきた唯一の相棒で、その感触はまるで、手にするだけでスッと毛穴の奥にまで吸いついて一体化するような錯覚さえもある。

 それほど扱いなれたシロモノだった。

「催眠を受けたものは、さらに次の者に暗示を与える催眠が施されていると聞いてんだわ。

 わりぃね。

 あんた、あたしと会ったことが不運だったよ」


 殺られる前に殺る。

 あたしは、そう言ってんのだ。


 コンマ五秒のクィック&ドロウがあたしの得意技。


 そいつと長々話す必要なんて、あたしにはないから。


 あたしはそいつに弾丸を撃ち込んでいた。




   5


 会えないことが辛かった。


 神棚をつくって祭ってある。

 毎日、それに祈りを捧げる。


『どうか今日一日、姫さまが幸せでありますように』

 

『どうか今日一日、姫さまが元気でいられますように』


『・・・健康でありますように』


 日に数度、必ず朝夕の二回は最低でも。

 彼は祈りを捧げていた。


 ただ会えない彼女のために。


   ○


 巷では斐月要のことを名探偵だなんて呼んでいる人間は少なくはない。

 彼は世間一般の会社員なのだが、それでも何度か事件に遭遇し、ふらっと不思議な魔法のように、いともたやすく難事件を解決した。

 それが報道されたことがあるのだ。


 それは彼が誰よりも物事に対して深く長く取り組もうとする姿勢に由来する能力で、決して超能力ではない事を本人が自覚しているために他人の風評にはいつも不満を感じていた。

 そのため、彼は探偵業で一度も報酬をもらったこともない。

 単に彼は知的好奇心を満足させるために遊んでいただけだったのだ。

「そもそも依頼人がいない」

 それは彼が関わる事件全てに共通していることだった。


「しかし、それも、すべては過去の事象と忘れ去られる。

 ただそれだけのことなんだ」


 自分には残された時間がない。

 それを知ったのは、さして珍しくもないような病気にかかっていると診断されたからだった。


「べつに死ぬことは怖くない。

 しかし、最後に心残りを残したくはないだけだ」

 と、それからだった。


彼が「セイラ」という名の風俗嬢に入れあげだしたのは。

 



  ○


 ただ最初に静かな闇があった。

 静かな闇に心は包まれていた。


 誰にも愛されたことがない彼は、誰かを愛したこともない。


 クリスマスもバレンタインデーも誕生日も、

彼には何の慰めにもなれない。

誰にも祝ってもらうことができないし、誰かを祝うこともできなかったから。


初恋は四十を間近に控えた頃である。

 

福岡から東京に行った風俗嬢。

彼女の見てきた景色を見て、何かを感じられればと思い、何度も日傘町と行き交い、その交通費は二タ月で百万を超えていた。

それから彼女は店を移動。

翌年の三月。

彼は漸く仕事を落ち着けて、予約をとり、彼女に会うことにした。

今度は成田空港。

スカイラインで、浅草によりお守りを買い、彼女の店で待つことにしたが・・・

やはり彼は会えなかった。

直前で彼女が体調不良だと聞かされたのだ。


その後、彼がどうやって帰ったのかは自分でもよく覚えていないらしい。

しかし帰宅後。

彼は会社の寮であるマンションの四階から飛び降りたのだ。

なんの前触れもなく命を無碍に捨てたのだった。


それが、斐月要の呆気ない最後。


 彼の本心を知る者は、

けっきょく誰もいなくなる。


 彼自身の物語を一番うまく語れるのは、彼以外に他ならないからだった。


   ○


 ただ最初に静かな闇があった。

 静かな闇に心は包まれていた。


 誰にも愛されたことがない彼は、誰かを愛したこともない。


 クリスマスもバレンタインデーも誕生日も、

彼には何の慰めにもなれない。

誰にも祝ってもらうことができないし、誰かを祝うこともできなかったから。


涙の痕が見窄らしい。

骸の半壊した頭を覗き込んで悲しくなった。


モノの哀れ。


 可哀そうだけど合掌はしないよ。

 あんた自分で納得して逝ったんだろと独り言。


彼は自らの肉体を闇に埋め尽くしたかったのだ。


あるいは生きる道も会ったろうに・・・


憎しみに彩られて世間に復讐する道も。


限りなく不可能に近い愛のために時を費やし生きる道も。


それでも彼は死を選んだのだ。


「けっきょく誰も、あんたの理解者はいなかったんだね」


 そして亡くなった斐月要のために、あらゆる考えを張り巡らしていた高槻美里も、やがて考えることをやめてしまう。


 その考えさえも深く、静かな闇は呑み込んでいく。

 

 そして、その闇も静寂にとりこまれ、時が立ち、誰も彼らの事を思い出すこともなくなるのだ。


 静寂が世界を埋め尽くしてしまったのだから。




   ○




 人には、誰にも言えない『ひめごと』なんてものがある。

 彼の真意は、その『ひめごと』として墓の中へと葬られてしまったのだった。

 もう誰も、彼の気持ちは解らない。

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ひめごと なかoよしo @nakaoyoshio

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