中篇   幻の男


  ○


 斐月要は繊細な男だった。

 その彼がブログをつけている。

 それは鮮明な記録だった。

 彼は自信過剰な人間ではないが、そのブログを公開することを悪しとは思っていなかった。

 誰かが見ているということを認識していたからだ。


 そして、それを見ている女はディスクに向かってパソコンを開いている。

 それを日常にしていたのだ。

 

 彼女の名前は片桐空。

 斐月にとっては親友の妹。

 彼女には、斐月の行動を把握していなければいけない理由があった。

 それは・・・


   ○


 斐月のブログには、こう書かれてある。


 六月最後の二日は週末だった。

 その土日をつかって俺は東京にでかけていたが、目的はない。

 なくなった。

 三月に福岡県から愛媛県に転勤になった時期。

 その人は就職して福岡県から東京都へと移住。

 それっきり会えなくなっていた彼女に会いたかった。

 それが目的になる筈だったが、彼女は店の人気者で予約がとれず、それで目的はなくなった。

 彼女は風俗嬢だったのだ。

 飛行機のチケットとホテルを予約していたためキャンセルがきかず、出発したのは早朝三時四十五分。

 愛媛県日傘町にある自宅から愛車で出発し、宇和海市から伊予川市までは高速をとおる。

 そこからは十数年前はたらいていた職場がある見なれたルート。

 そこに小雨がふりそそぐ。

 郷愁。

 そんなものに誘われた。

 松江山空港。

 駐車場に車をとめるが一時間は余裕がある。

 仮眠をとってから搭乗手続きを取る。

 携帯電話にある航空券確認番号を機会に入力。

 チケットをとりだし、貴金属センサーをとおり搭乗口へ。

 そこから飛行機に乗った。

 思ったより狭くて不自由な席。

 席から丁度、ツバサが見えた。

 ほんの七十分で羽田空港に到着。

 モノレールで浜松駅へ。

 そこから山手線で新宿へ。

 専門書をさがしていたので書店で手に入れる。

 そのあと映画館で、その日、初公開の映画を見る。

 感動して泣いた。

 そのあと、JR総武線で秋葉原へ。

 何だかよくわからないイベントの最中。

 内容は確認しない。

 駅周辺をまわって地下鉄日比谷線に乗り入谷で下車。

 そこから清川のホテルまで歩く。

 十九時はゆうにまわっていた。

 ホテルにいるのは外国人旅行者ばかりだったが、皆流暢な日本語を喋っていた。

 シャワーを浴びて、すぐに寝た。


 翌日、六時起床。

 シャワーを浴び食事した。

 テレビで時間を潰した後は十時になってチェックアウト。

 浅草雷門を徘徊する。

 十二時、スカイツリーへ。

 展望台に登る整理券の時間は十四時。

 ふたたび買い物で時間を潰していた。

 十五時には目的はなくなって、地下鉄浅草線の押上駅から京急に乗り十六時前には空港に。

 時間つぶし。

 民族風のレストランで食事。

 タイトだった。

 窓から飛行機が見えた。

 窓側と対面の席に着席。

 飛行機観察。

 大きさや色が違うんだなと子供のような感想をもつ。

 食後は早めに移動した。

 一時間前に搭乗手続きを済ませて待つ。

 十七時半に出発予定だったが十分おくれ。

 梅雨前線の影響もあり、松山空港に戻ったのが十九時だった。

 それから自宅へ。

 二十一時に帰宅する。

 平凡な休日は、平凡なままに幕をとじた。


 ただ、君に会えなかったから。

                                       』


 

 片桐空は代行業を最近はじめていたのだが、あまりに田舎の町なので仕事の内容は男女間のモツレに偏りがちで、自分でも意図したことではないのだが、いまでは浮気調査がメイン。

 単に厄介事を代行しますという内容の代行業が、今では探偵事務所と認知され、自然、地元民は、彼女のオフィスを『名前のない探偵事務所』と噂しているほどだった。

 その職業は彼女の望むものではない不本意なカタチだった。

だから仕事に乗り気ではないというワケではない。

 そもそも彼女が代行業をはじめた理由は別にあったのだから。


 依頼人の名前は佐曾地紗環。

大仰な姓名だ。

 年齢は三十七歳。

 その年から考えて、また浮気調査だろうと思いながら彼女は男に電話した。

 彼女の兄・片桐脩に。


   ○


 片桐脩は正義感の男だった。

 そして、曲がったことは大嫌い。

 そんな彼がしたかったのは改革だった。

 事業を起こして過疎化の町を復興させようと、そんなありふれた。

 そして他愛のないものだった。


 この町で産まれた自分は、この町を捨てずに生きていこうと。


 そんな彼が詐欺罪で捕まったのは数年前。

 わるい仲間に唆されたのだと妹の片桐空は嘆いていた。

 彼女にとって、いつも優しく、どんな難題もソツなくこなす兄は神聖な存在だったのだ。


 あるいは誰かに騙されたのよ。


 と、そう言った片桐空の前で、兄は発狂した。

 人体の専門家だという偉い先生は、今ある現実と理想の自分を見比べた時に、あまりに開きがありすぎて兄は自分の存在を保てなくなったのだと、そんな事を言っていたけど、彼女にとって、そんな原因なんかは関係なかった。

 ただ兄は発狂したのだと、それを知った。


 その数日後、火災で火傷まで負った彼。

 現在、彼の存在を知る者は数少ない。


   ○


 これで三人目だと彼は思った。

 自分は、そんなに片桐脩に似ているのだろうかと。

「わざわざ自分の名前を名のるほど他人に知られているわけではないのだが」

 と、彼は煙草を吸う前に呟いていた。

 ショーウインドウの前で立ちどまる。

 陳列台にはアンテイークな小物が並んでいる。


 錆びついているのだろうか?

 それとも凍てついているのだろうか?


 彼の心には色も音もない。

 感受性という受け皿がないのだ。


 興味があるのは自分の姿。

 面白味のない無表情な自分は退屈そうでツマラナイ。

 それが反射するガラスの中の自分だった。

 それが自分を見つめている。

 まるで自分ではない赤の他人。

 べつに整形のような顔の修正を加えてはいないが、なんとも自分に馴染めないと、そう思った。

 いつからだろう?

 自分自身の存在に違和感を感じるようになったのは・・・


 おそらく、それは自分の目の前から片桐脩が消えたあの日からなのだろうが・・・


「あんた、自分が嫌いなのかい?」


 ハッと目が覚めるような勢いで背後を振り向く。

 声をかけられた事に驚いたのだ。

 そもそも人づきあいの苦手な彼に声をかけられるような覚えもない。

 みると見覚えのない老人だった。

「まるで親の仇のように自分を見ていたよ」

「そうかい。

 余計な世話だよ」

「それは随分な言い草だな。

 片桐くん」

 枯れ木のような老人の声。

 灰色のジーンズに白いランニングシャツを着たメガネの爺さんが話しかけてきた。

 俺は「またか」と自嘲した。


 また俺を誰かと勘違いした見ず知らずの他人につきまとわれる。


 あまりに退屈な。

 退屈すぎる当たり前の日常。

 その日常の積み重ねが人生の道標となる。

 と、そんな気がしないでもない。


「わりぃな。

 そいつはアンタの勘違いだよ」

「カ・ン・チ・ガ・イ?」

「あんたが言ってんのは別人っていうことだ」

「そうかい?

 とても、そうは思えないが。

 火事で死んだともきいていたよ。

 いつ、この町にまいもどってきたんだい」

「こたえる義理はないよ」

「じゃ、名前は?」

「・・・」

「しかし、こたえてくれなければゴンベエとしか言いようがない」

「なぜそうなる。

 二度と顔を合わせなければいいだけだろ」

「ならいいが・・・

 儂はつきまとうからなぁ」

「だから、なぜ?」

「そいつは勝手だろ。

 あんたの勝手がとおるというなら儂の勝手もとおる筈だが」

「不愉快だよ」

「そいつも、あんたの勝手だな」

「疫病神かよ」

「いや、まったく知らない仲ではないんだが・・・

 思い出せんのなら構わんよ。

 でっ、名前は?」

 彼は漸く観念して名を言った。

「斐月?」

「斐月要だ」

「うん。

 きかない名前だな」

「だから人違いだと言っているだろ」

「これから何処へ行くんだい?」

「墓参りに呼ばれているんだ」

「墓参り?」

「ああ、友人の妹の両親が十数年前に交通事故死しててね。

 今日は命日だとよ。

 まぁ、俺はもともと約束をしていたんだが。

 だから結構歩くことになる」

「その妹ってのは、今は墓場かい」

「いや、なんだかってアイドルのコンサートだとよ。

 二十代後半にもなってミットモナイがね」

「そうかい。

 楽しんでいるなら何よりじゃないかい」

「楽しむ?

 楽しいことなんてあるのかな。

 世の中に」

「に比べて斐月くんは荒んでいるな」

「性分なんだろうよ。

 それよりも、その前に仕事がある。

 話をきいてくるだけなんだが、ついてこられると困るんだよ」

「そこの角のホルンという喫茶店だろ。

 あんたが時計を見てたから想像してたよ。

 どうせキリのいい時間に待ち合わせているだろうし、ここらで都合のいい待ち合わせといえばホルンぐらいなものだからな」

「なるほど、カンのいいジイさんだな。

 それと、中までは連れて行けないぜ。

 なんせ依頼人に会うんでな」

「構わないよ。

 それぐらいは気が利くほうでね」

 話している間に喫茶店の前までやって来ていた。

「ちなみに儂の名前は知りたくはないか」

 とジイさん。

 彼が喫茶店のドアノブに手をかけたときに聞いていた。

「いや、いいよ。

 俺の人生に関わってくるような人間じゃぁないからな」

 と、彼は店内へと入って行った。

 彼がいなくなった店頭で一人佇む老人の小さな呟きが、一陣の風に吹かれて消えていった。

「そんな淋しいことを平然と言えるんだな。

 君は・・・」


   ○


 老人は待っていた。

 先に依頼人と思しき女性が出て行った。

 その女性を見送ってから、彼は戻って支払いをしているようだった。

 それから電話。

 おそらく、これから落ち合う墓参りの女性との打ち合わせでもしているのだろうことは予想できた。

 彼が店を出てきたとき、老人は道路端に座っていた。

「帰っていると思っていたんだが」

「わるかったね。

 どうも言葉がたりなかったようで」

「待たなくてもよかったんだぜ」

「まぁいいじゃないか」

「今から墓へ行くんだ。

 そのまま眠りにつくつもりかよ」

「それも構わんが、とにかく行こうか。

 どうやら時間が惜しいようだからな」


   ○


「なぜ俺につきまとってんだ」

「暇つぶしだよ。

 あんたと一緒で時間に限りはあるんだがね」

「誰かと約束でもしてんのかい?」

「まぁ、んなもんだよ」

「もう着くぜ。

 あんたの暇つぶしの相手は此処までだよ」

「ああ、わるかったな。

 暇な年寄りの相手なんかさせちまってな」

「構わねえよ」

「じゃ、またな」

「いや、もう二度と会う気はないんだが」

「そいつは冷たいなぁ」

「まぁ、当然の反応をしているつもりなんだが」

「もしかしたら勘違いしているんじゃないのかい」

「勘違い?」

「いや、だから、あんたがさ」

「何の話だ?」

「自分が、そうと信じている自分が、本当の自分ではないのかもしれないということだ」

「いや、全然わからんが」

「まぁあ、いいよ。

 それがいつかは解かる日もやってくるだろうからな」

 と老人。

 やはり、

「じゃぁ、またな」

 と言って彼の視界から消えていった。




   ○


 彼は虫が嫌いだった。

 墓石の苔も枯れた草花も。

 その手入れも全部キライだった。

 それを片桐空は知っていた。

「おそかったんだね。

 もう終わってるのよ」

 花をそなえながら女は言った。

 わざわざ準備が終わる時間を指定したのだった。

 しかし、それに気がつける程、男は冴えていなかった。

「ああ、そうかい」

 そう呟き煙草をやるだけだった。

「どう昔なじみの同級生に会ってきた感想は?」

「さぁな。

 なんてことないよ」

「てか記憶にもなかった?」

「向こうも、そうみたいだぜ。

 俺の名前を間違っていた」

「間違う?」

「片桐脩だとよ」

「そっか。

 お兄ちゃんにか。

 まぁ似てるからね」

「そっか。

 自覚はないがね」

「似てるよ。

 性別も同じで、人類でしょ?」

「んだよ。

 それバカにしてんのか」

「それはお互い様じゃない。

 でっ、どうだった?」

「どうって、自分が信じている自分が自分とは限らないって」

「って、なにさ?」

「あぁ、これはジィさんの言葉だったかな」

「ジィさんって?」

「よく知らねぇジィさんだよ。

 やけに、つきまとわれたんだよ」

「へぇぇ。

 他人に好かれるような性格ではないのにね」

「お前が言うなよ。

 まぁ言えてるがな」

「でっ、どんなジィさん?」

「質問が多いいな。

 いま一番ききたいことだけを聞いてくれよ」

「でっ、どんなジッさん?」

「知るかよ。

 見たこともないジィさんだよ」

「特徴をきいたつもりだったんだけど」

「もう忘れたよ。

 別に思い出したくもないんだが」




  ○


 手をさしのばせば、すぐに手が届くほどの僅かな距離。

 それはいつも目の前にあるのだけれど、それは本当のそれではない。

 それは解ってはいるのだけれど、私の意思では、どうすることもできないの。


 なぜなら彼は・・・


 もう昔の彼では失くなっていたから。


 立派な政治家を目指していた兄が詐欺で捕まった。

 それが私には信じられなかった。

 私にとっての兄は、歴史上の偉人だとか、昔語に登場してくる王子様のように神聖な存在だったのだ。

 だから、信じられなかった。

 世間の噂で、悪い奴に唆されたと聞けば、私もそれを信じただろう。

 それが私にとっては楽な選択だったからだ。

 でも、それは真実とは違っていた。


 兄のクチから、あんなセリフを聞くことになるなんて。


「ちがうよ」


 と、兄は私に語って聞かせる。


「ちがうよ。

 他人なんて関係ない。

 あれは自分の意思でしたことだ」

「うそ・・・

 どうせ、誰かをかばっているんでしょ」

「ちがうよ。

 何度も言わせないでくれ。

 あれは自分の意志なんだ。

 言うなれば出来心。

 最初は興味本位で、ホンの少しならバレないだろうと思ったんだが、軽い口車にのって簡単に見ず知らずの人間の言葉を信じ込んでは金をさしだすバカな奴らを見るとオカシクなって、癖になって、それがズルズルと・・・

 気がつけば深みにハマっていた。

 そして、足を踏みはずしてからは早かった。

 足元の地盤が崩れ落ちるのが・・・

 気がつくと、アッという間に、この様だ」

 と、

 そんな科白。


 信じられなかった。

 私はショックで言葉も発せられなくなった。


 そして数日後。

 刑務所での火災。

 身元不明の死傷者の中に兄と思しき遺体が発見された。


 私は、その遺体の確認をし、兄と認めた。


 兄ではないと解っていたのに。




 火災の原因は放火だった。


 そして、その犯人は私だった。


 私は、思い出の中にいる兄を殺したかったのだ。


 兄と思しき遺体の前に立つ私は、あまりに申し訳なく思い合掌した。


 その時には既に、兄は私の手の内にあり、それを私が自覚していたからだった。




 火災のショックか、それとも、それ以前の自分に対する後悔か・・・


 兄は記憶を失くしていた。


 本能・・・


 おそらく、それだけで兄は私たちの家に帰ってきたのだと思う。


 火傷を負い、記憶を失くしていた兄は、自分の事さえも覚えていなかった。

 幼い頃に、交通事故で亡くした両親の事は勿論、私の事さえも全部。


 だから私は、新たにインプリンティングすることにした。


 兄ではなく、別の人間としての兄を。


  ○


 でも本当は、本物の兄に帰ってきてもらいたい思いも少なからずある。


 道をあやまった私には願うことに恐れのないわけではなかったのだけれど。


 兄に両親の写真を見せようと決めたのは、そもそも罪悪感からだった。

 両親の墓前に兄を呼びよせたのも、それが理由。


「脩と一緒の方がよかったんじゃないか?」

 墓石に向かい合掌する私の背後から声かけられる。

 私はゆっくりと目を見開き、そのまま微動できずに思っていた。


 だから呼んだんじゃないの。


 とも反発したい心地ではあったが我慢した。

 それしきの忍耐は備えている。

 兄を失ってからずっと。

 私は耐え忍んでいる。


「そうね。

 でも都合がつかなかったから」

 と笑ってみせた。

 振り向きはしない。

 まだ、風のせせらぎに耳を澄ましながら、すこし余韻に浸って見たかったのだ。

 それからしばらくして、思い出したように自分に対して頷いた。

 決心がついたからだった。

「ウチよってくんでしょ?

 コーヒーくらいなら、だすわ。

 私は苦手で飲まないんだけどね」

 と誘う。


   ○


 ペーパードリップの濾過を彼は好む。

 1908年、ドイツのメリタ・ベンツが考案したメリタ式が特にお気に入りで、私には最適なメッシュの才能があるらしいが、私はカフェイン自体が苦手で、その味の良さを理解することはできずオレンジジュースを唇にあてる。

 温州みかんを天然水で割った自家製のもので、食事の時も、私はそれと決めていた。

 外食なんてしないから、それで不都合はないのだけれど。

 リビングに通すと彼はソファーに持たれるように座ってテレビを見て、くつろいでいた。

 私たちは、よもやま話を大人しくする。

 そして話も尽きた頃、私は彼の目前でアルバムを見開いていた。

 もうすぐ同窓会があって、昔は仲良しだったけど疎遠になった友達がいるから予習しておこうと思ったからとかワザとらしくない程度に言って彼にも写真を懐かしいよねと見せてみる。

 そこには兄と、私と、両親と。

 それから斐月要の写真もある。

 兄に見て、思い出してもらいたかった。

 それは、おそらく・・・


 罪悪感から。

 私の思惑にハマリ、彼はある人物を発見した。

 それが誰とは断定していなかったが、誰かに心当たりを見つけてくれることを私は望んでいたのだから。

「こいつは?」

 それは私たちの父親の写真だった。

「その人が、どうしたの?」

 きいてみると、

「さっき会ってたオッサンだよ」

 と彼が応える。。

「はっ?」

 聞いた私は短い疑問符を吐き出した。

「どういうこと?」

 ありえない現実をつきつけられると脳の処理速度に遅れがやってくる。

 私は彼に、父はモチロン母だって幼い頃に亡くなっているのだと、それを告げる。

「夢でも見ていたんじゃないの?」

 と。

 しかし、それは夢じゃない。

 白昼夢というならば、それを信頼してしまいそうなのだが、それでもない。

 なぜなら彼の言葉には説得力があったからだった。

 彼の話す面影が、生前の父親を連想させるものだったから・・・

 私は呟く。

「父は融和な人だった」

 思い出はいつも眩しくて、だから手放したくなくて擦りよってしまう。

「母は温和な人だった」

 家族だけが心の支え。

 私には他に何もない。

 執着するものも、執着したいものも。

「だから、どうした?」

 兄は問う。

 だから答えた。

「よりかかりたいのよ。

 よりかかれるものが欲しいのよ。

 いけない?」

「でも、あのオッサンなら、そこらへんに転がっているんじゃないのか」

「いないわよ。

 そんな人は、この世界の何処にもね」

 と私。

 私には何処か。

 心なんかよりも奥の、ずっと深い所で気づいていたんだ。


 きっと父は、兄のことが心配で、死んでも死にきれなくて私たちの事を見に来たんだ。


 って、たぶんそれは実感していた。


 だから思わず涙がこぼれた。

 

 幽霊だかお化けだか知らないけれど心霊じみた事には信心深くないはずの私なのに、それを受け入れてしまったのだろうか。


『ありがとう。

 おとうさん』


 心の中で礼をいう。


 都合のいい解釈かもしれないけれど、父が兄の心を取り戻そうと、あの世から救いの手をさしだしてくれたような気がしたから、もう一度。


『ありがとう。


 兄を助けようとしてくれて・・・


 私の心を救おうとしてくれたのね』


 と私は父に感謝した。

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