スシババア

新巻へもん

江戸怪奇ばなし

 水戸藩士坂田牧之進は菅笠を被り直す。国元から歩き詰めで来たので疲労が溜まっていた。本来なら千住宿で一泊するところを、気が急く故に客引きの小女の手を振り払うようにして道を急いだ牧之進だった。すっかり日は落ちてしまい、借用した提灯の明かりを頼りに先を急ぐ。藤田先生はご健勝であろうか?


 暮れ五つの鐘の音を聞き、大川沿いの道を下って宵闇の中に浅草寺の五重塔を仰ぎ見るこるにはすっかり腹が減ってしまっていた。もう五つ半近い時刻で、通り沿いの商家もすべて板戸を閉めてしまっている。武士は食わねど高楊枝とはいうものの、現実には空腹には勝てぬ。牧之進は千住宿で何か口にするだけでもすれば良かったかと悔やんだ。


 疲労と空腹で目がくらみそうになる牧之進の目に稲荷の提灯を下げた付け台が目に入る。提灯の明かりに吸い寄せられるように側に寄った。付け台の上には俵型の稲荷寿司が載った皿が置いてある。その前に牧之進が立つが付け台の後ろには誰もいなかった。


「御免」

 牧之進が声をかけると奥の暗がりから声がする。

「あいよ。少々お待ちを」

 よっこいしょ、の声と共に老いさらばえた皺だらけの婆が姿を現す。


「一皿いくらだ?」

「へえ。18文でございますよう。召し上がられますか?」

 まるで幽鬼のような姿の老婆に驚いたが、背に腹は代えられぬ。

「一皿もらおう」


 牧之進が言うと、竹箸を老婆が差し出した。皿を持ち上げ、稲荷寿司を口に運ぶと、プンと甘い醤油の香りが鼻を打つ。口の中に唾が湧き出る浅ましさに内心赤面しながら、牧之進は無我夢中でかぶりついた。口いっぱいに広がる芳醇な揚げの甘辛い味に思わずうなった。


 このような辻売りの品であるから味に期待はしていなかったが、案に相違して中々の美味である。気が付けば3つの稲荷寿司が腹の中に消えていた。

「もう一皿もらおうか」

「……お代を先に」

「うむ。そうであったな」


 懐の巾着を探るがあいにくと一朱しか入っていない。ままよ、と差し出すと老婆は頭を振った。

「こげな所で、そんな大枚出されても釣銭がございません」

「釣りはいい。その代わりあるだけ出してもらおうか」


 老婆はニタリと笑う。

「あまり食いすぎては腹を壊しますぞえ」

 大事そうに一朱を仕舞うと付け台の上に皿を並べた。牧之進は続けざまに5皿分の稲荷を口に入れ、盛大に咀嚼して飲み込む。


 普段なら、それだけの稲荷寿司を口にしようなら飽きがくるものだが、よほど腹が減っていたのか、それとも老婆の腕がいいのか、それだけ食べても最後まで美味しく頂くことができた。


「婆よ。いつもここで商いをしておるのか」

「へえ。晴れの日はたいてい出しております」

「実に美味であった。また寄るといたそう」

「はあ、ありがとうございます。ご贔屓に」

 頭を下げる老婆だったが、一瞬目が怪しい光を湛えたように見えた。


 腹ごしらえもできたし、小石川の屋敷まで半刻もかからず着くことができるだろうと歩き出した牧之進だったが、いくつかの木戸を越えたあたりから急に腹に差し込みがしだす。これはどうしたことかと訝りながらも我慢して歩みを進めていたが段々と痛みが増すに従い、どんどんと足取りは重くなった。


 何事もなければ今頃はお屋敷に着いた頃だと脂汗を垂らしながら、一歩一歩と脚を動かす。一朱も出した挙句に腸がよじれんばかりの激痛に歯噛みしながら、先ほどの老婆を呪った。どうもただの腹痛とは思えない。何か一服盛られたのではなかろうか? 牧之進は遂には一歩も進めなくなってしまう。


 耐えきれなくなり近くの松の大木に手をついた時だった。ごうという地鳴りと共に地面が激しく揺れだした。牧之進はしっかりと松の幹に抱きついて体を支える。嵐の海に漕ぎ出でた小舟のように揺れていたが、やがて揺れが収まった。気が付くとあれほどの腹の痛みが消えていた。


 余裕ができて周囲を見回すと、近くの築地が壊れ、家屋が傾いでいる。牧之進は慌てて、お屋敷に向かって駆けだした。ところどころ崩れた壁を横目に屋敷にたどり着いた牧之進が見たものは、倒壊した上屋が巻き上げている土ぼこりと騒ぐだけで為すところの無い人々の姿だった。


 屋敷にいた誰それが亡くなったとの声を聞きながら、牧之進もぼんやりと立ち尽くす。もし、予定通りに屋敷に着いていたならば牧之進も倒壊に巻き込まれて命を落としたはずだ。呆然としながら口に手を当てると揚げの油が手につき、甘い香りが一瞬だけ漂う。


 後日、牧之進は浅草をくまなく歩いて、稲荷寿司の辻売りの婆を訪ねた。しかし、誰もそのような店は聞いたことが無いとの返事。記憶を頼りに牧之進がどうやらこの辺りだと見当をつけた場所には小さな御社が立っていた。その話を聞きつけた人々は寿司屋の婆は実は神様のお使いだったのではないかと噂し、御社は参拝者で賑わったという。


 数年後、脱藩した牧之進が桜田門に向かう途上、老婆の姿を見かけたような気がして探し回った挙句、約定の時刻に間に合わなかったのはまた別のお話である。

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