なんてったってありえないほど近い

野々ちえ

説得の理由

 近い。近いのだ。

 ほんとうに。

 ありえないくらいに。

 近い。近すぎる。

 なにがって。


 ――ガラッ!


 勢いよく窓があいた。


 おれはあけていない。しかし、この部屋にいるのはおれだけだ。安アパートの二階で、むなしいひとり暮らしである。今のところ幽霊が出たこともない。つまり――


「ミカンたべる? 実家から届いたんだけど」


 気だるい日曜日の朝。あけられた窓の向こうにはまた窓があって。ひょろっとしたやさ男がそこから顔を出している。隣のアパートの住人、向井むかいである。


「……もらう」


 近い。

 ほんとうに。

 びっくりするくらいに。

 近いのだ。隣家の窓が。


 あちらの部屋から、こちらの窓があけられるくらいに。




 □□□□□□




 窓をあけたら壁。というアパートはたまにあるけれど。ここは窓をあけたらお隣さんの窓である。サイズも高さもぴったりおなじ。それは、特別手を伸ばさなくてもふつうにあけられるくらいの距離で。双子のようにならんでいる。


 内見したときに気づかなかったのかよ! と、自分でもツッコミたい。しかし気づかなかったのだ、これが。ほんとうに。

 たしか内見のときは、向井の部屋の窓はシャッターが閉まっていて。『窓』だと認識しなかったのだ。たぶん。


 隣と近いなーとは思ったはずだけれど。それこそ、窓をあけたら壁。という感覚だったのではないかと思われる。もう五年もまえのことなので、正直よくおぼえていない。


 ただ、引っ越してきた当日。窓をあけたらちょうど向こうの窓もあいて『あ、どうも』『こんにちは』『隣なんですね』『そうみたいです』とかなんとか。少々まぬけなやりとりをしたことはおぼえている。


 これが女の子だったら。ロマンスのひとつやふたつ生まれたのかもしれないが。二十代も後半に入ろうかという、むさい男同士である。ロマンもへったくれもない。……いや、もし仮に女の子だったら、ロマンスどころか、チカンだのぞきだと騒がれる可能性のほうがはるかに高いような気がする。男でよかったのかもしれない。


 部屋にある窓はこれひとつっきりだが、よりによって――とは、特に思わなかった。なぜなら、奥まった場所にあるこのアパートは四方を住宅に囲まれている。つまり、どこが窓であろうと、あけたら壁。あるいは、あけたら窓。というわけだ。


 向井は気のいい男だったし、この近さも便利といえば便利なのだが。さすがに近すぎる。なにが一番困るかといえば、女を連れこむことができない――ということだろうか。こちらにはシャッターがついていないし。仮についていたとしても、女がきているときに閉めるのは、それはそれであからさますぎるというかなんというか。どちらにしても、筒抜けになるのはまちがいなかった。


 ちなみに、互いの部屋に玄関から入ったこともない。そもそも、物の貸し借りも酒盛りも、たいていのやりとりは窓越しですんでしまうので、部屋に行く必要がほとんどないのだ。しかし、冬場などは窓越しの酒盛りはさすがに寒いので、どちらかの部屋で飲むことが多くなる。そんなときも、いちいち玄関からではなく、窓から出入りできてしまうのだ。


 もしかしたら今のおれたちは、家族や昔からの友人などよりも、ずっとお互いのことを知っているのかもしれない――と、思うことがある。


 なにしろ、掃除や洗濯などの生活音も、かけているテレビや音楽も、部屋での『生活』ほとんどが互いに筒抜けなのだ。もはやプライバシーもなにもあったものじゃない。




 ふわーっと、甘酸っぱいにおいが部屋の空気を占領した。


 窓から窓へ。平然とこちらに移動してきた向井が、茶色く変色した畳にあぐらをかいてミカンの皮をむいている。かたわらには、どっさりミカンを詰めこんだコンビニ袋。


 ミカンだ。なんというか、部屋がミカンだ。橙色に染まっているような気がするくらいに空気がミカンである。


「帰らないの?」

「関係ねえだろ」

「そうだけど」


 なにもかもが筒抜けだ。


「お父さん、入院してるんだろ?」


 ほんとうに、筒抜けなのである。




 □□□□□□




 親父が入院したと母親から電話があったのは十日ほどまえだったか。どうやらもう長くないらしいが、そんなこと知ったこっちゃない。


 仕事仕事で家族のことなんてほったらかしで。そのくせ家族が自分の思いどおりにならないとすぐに怒鳴るし、こちらの話など聞こうともしない。おれは、昔から親父が大嫌いだった。こっちの人生に干渉しないでくれるなら、親父が生きようが死のうが本気でどうでもいいと思っている。


 なのに。


 帰ってきてくれと。顔を見せるだけでいいからと。わざわざアパートまでやってきたうるさい妹を追い返したのは、つい昨日のことだ。


「お父さんが嫌いなのはしょうがないけどさ。それでお母さんや妹さんが泣いてもいいの?」


 よくはない。けど、仕方ないじゃないか。死んだら葬式には出る。それじゃだめなのか。


「死んだら二度と会えないんだよ? それに、お母さんや妹さんの中には、たぶんずっと後悔が残ることになる。べつに、和解しろっていってるわけじゃないんだ。生きてるあいだに、一度顔を見せてやるだけでいい。それくらいしたってバチはあたらないだろう」

「……なんでおまえがそんな必死になってんだよ」

「べ、べつに、必死になんかなってないよ。ただ……」

「ただ、なんだよ」

「……後悔、してほしくないんだよ。奥田おくだには」


 その口調には悔恨がにじんでいるようで。向井自身似たような経験があるのかもしれない――と思わせた。


 それからもこんこんと。切々と。言葉を変え、いい方を変えては『帰れ』という向井に、説得されたというよりは、根負けした。なんてったってありえないほど近くで暮らしているのだ。毎日こんな調子でやられてはかなわない。


 明日からまた会社だし、これから日帰りするには無理がある程度には遠いので。つぎの週末に帰ると約束した。

 うれしそうに笑う向井のまえにはミカンの皮が散乱していて。おれに持ってきたはずのそれは、すべて奴の腹の中に消えていた。




 □□□□□□




 週末。約束どおりに帰郷した。親父は相変わらずいやな奴だったけれど。記憶にあるよりも、その姿はずっとちいさくなっていて。なにより、母さんと妹がうれしそうだったから、まぁいいか――と思えた。向井にも、ほんのすこし感謝した。




 ちなみに。


 なぜ、向井があれほど一生懸命になったのか――といえば。


 本人が語らないので『二度と会えない後悔』があったのかどうかはわからない。が、どうやら妹にひと目惚れをしたらしく。おれに追い返されて泣いていた妹に『お兄さんはおれが必ず帰らせるから!』と、なんとも無責任極まりない約束をしていたから――なのだとか。しかしながら、おれがそれを知ることになるのは、もうすこしあとの話である。



     (おしまい)


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