いつか来る結末
藤咲メア
いつか来る結末
真っ白な部屋。真っ白なカーテン。真っ白なベッドに、真っ白なシーツ。そして、淡い水色の入院着を着た私は、真っ白なベッドの上に仰向けになって、真っ白な天井と蛍光灯を見上げていた。
蛍光灯の明かりが眩しくてたまらなくて、私は皺に埋もれた目を閉じようとする。けれど、目を閉じてしまえば、わずかに残った私の意識は遠のいて、今日こそ黄泉路へ旅立ってしまうかもしれない。まあ、別にそれでもいいのだけれど。もう、十分すぎるほど生きたから。子供達も立派に成長したし、孫の結婚式だって見られた。もう思い残すことは何もない。向こうへ行けば、先に逝った妻とも会えるだろう。ここはもう大人しく、目を閉じてしまおうかと思う。そうすれば、きっと眠るようにして、私は黄泉路へ旅立つだろう。
「玄二」
誰かが、私の名を呼んだ。今、病室には誰もいないはずだった。いつの間にか誰か入ってきたのだろうか。息子の進か、孫の亮太か。けれど、二人は私のことを「玄二」とは呼ばない。妻が迎えに来たのかとも思ったけれど、あいつも私を「玄二」とは呼ばない。そもそも、「玄二」と下の名前で呼ぶ人なんて、もういない。
「玄二。耄碌したか」
不意に、眩しい蛍光灯の明かりが、人影によって遮られた。何者かが私の顔を覗き込んだからだ。私は閉じかけていた目をどうにか開けて、その人物を見た。
「ああ、お前か」
「そう、俺だ」
懐かしい顔だった。そうだ、まだいたんだ。私の名を呼ぶ人は。
思わず手を伸ばしかけ、力なく崩折れようとする私の手を、そいつはしっかりと両手で受け止めた。皺ひとつないすべすべの肌の感触に、私は小さく笑う。
「お前は、変わらないな」
「変わったさ」
そいつも、私のように小さな笑みをこぼした。
「もう三百五十八歳になる」
「人間でいうと、どれくらいだ」
「さあな。……五十までは行っていないんじゃないか」
「若いな」
心なしか、そいつの私の手を握る力が、少し強くなった。
今さっき、そいつは自分のことを変わったと言ったが、私からは会った日から何も変わっていないように見える。もう何十年も前。私が子供の頃に初めてそいつと会った時、そいつは二十歳前後の青年の姿をしていた。実際、人ではなかったのだけれど、そいつは人間離れした綺麗な顔をしていた。今だってそうだ。あの日、会った日と何も変わらない。
「なあ、覚えているか」
おもむろに、そいつは私の手を握りしめたまま尋ねてきた。私は、すぐにそいつが何を言いたいのかがわかった。
「ああ、覚えているさ。……賭けのことだろう」
「そうだ」
そいつは笑った。
「ちゃんと数えていたぞ。今日でお前は百歳だ。俺の勝ちだ」
「ああ、わかっているさ。私の負けだ」
いつだったか、私の背丈がそいつの背丈に近づいた頃だったかもしれない。私はそいつとふざけた賭けをした。それは、「私が百歳まで生きるか否か」という賭けだった。私は、否に賭けた。そいつは、生きるに賭けた。そして、勝敗は今着いた。
まあ、賭けと言っても、そんな大層なもんじゃない。気心の知れた友人同士でやる、遊びみたいなものだ。第一、私が勝ったとして、そいつが掛けていた賭け金が私の元に転がりこんでも、勝った私は百歳まで生きずに死んでいるのだから、勝負も何もあったものではない。それでも私は、そいつとずっとこの賭けをしていた。大人になって、所帯を持つと、私とそいつの接点は少なくなったが、それでも、そいつは私の様子をよく伺いに来ていた。もちろん、私が死んでいないか確認するためである。
「お前との付き合いも、ずいぶんと長かったな」
私がしみじみ言うと、そいつは「そうか?」と首をかしげる。
「短かったように思うが」
「お前は、そう感じるのかもしれないな」
私の脳裏に、そいつとの思い出が次々と蘇る。渓流で魚を釣ったり、海で泳いだり、山に登って満開の桜を見たり。大人になってからは居酒屋へもよく行っていた。酒に不慣れな頃は、よくそいつにからかわれたっけ。
長かったと言ったが、こうして思い返すと、まるで昨日のことのように思い出される。そいつと初めて会った日のことも。あの日、私は初めて人に似た、人ならざるものの存在を知ったのだ。そして、その存在は、私の生涯の友となった。
「楽しかったよ」
私は、そいつにお礼を言った。少し気恥ずかしかったが、これだけは伝えておきたかった。それから、もう一つ大事なことを告げておく。
「万が一負けた時ように、進に持ってきてもらっていたんだ。そこの、花瓶の下に置いてある。私が賭けていた金額のお金だ」
「そうか」
一言返事をしただけで、そいつはその場を動かなかった。ずっと、私の手を握りしめている。
「賭けに勝ったんだ。喜べ」
「ああ、喜んでるさ」
言葉とは裏腹に、そいつの顔はちっとも嬉しそうではなかった。
「なあ、賭けの続きをやろう。もう一度だ」
私はそいつの言葉に少し驚き、「もう無理さ」と力なく笑った。
「一体お前は、私にいくつまで生きていてほしいんだね」
「……」
そいつは、答えなかった。
不意に、私の視界が霞み出した。さすがにそろそろ限界らしい。
「玄二」
そいつは呟くように言った。小さな声だったけれど、遠のく私の意識にも、しっかりそれは聞こえてくる。
「俺は賭けに勝ったんだから。嬉しいんだ。百年にもわたる賭けに勝った。こんなに嬉しいことはない」
そいつの目から、ハラハラと零れる涙が私の頬を打つ。
「嬉しい、嬉しいんだ。そう、俺は嬉しいのさ。賭けに勝つのは最高の気分だからな」
涙は、そいつの頬を濡らし続けている。私の顔にも降りかかる。ひどく温かかった。
「そうか、嬉しいか。……よかった」
ならばなぜ泣く。嬉しいのなら笑ってほしい。あの日、賭け事をした時のように笑っておくれよ。「玄二が百歳の爺さんになるまで生きてたら俺の勝ちだ」そう言って、愉快そうに笑っていたじゃないか。けれどその言葉は、ついに私の口から発せられることはなかった。親愛なる友人に見送られ、私の魂は、ついに黄泉路へ旅立った。
いつか来る結末 藤咲メア @kiki33
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