最終話 二人で防波堤を歩いた理由

 翌日の午後。


 いつものように俺は時の浜に来た。そこには砂浜のレジャーシートの上で、小さな手足を目一杯振って準備体操をしている陽子の姿があった。陽子は俺の近づく気配にこちらを向く。そして、いつもの夏の太陽のような元気な笑顔でなく、にやにやと邪気に満ちた顔で俺を見据えた。


「な、なんだよ、陽子。そのイヤな笑顔、気味悪いぜ」

「えへへへへ。 陽子ねー、聞いちゃったんだー。 えへへへへ」


 俺は嫌な予感がした。

「聞いた、って何をだよ ……」


 陽子は立ち上がって浜辺にだだだだと駆けて行き、波打ち際で立ち止まって、とんでもない大声で叫び始めた。


「『メグーーー!! 好きだああああーーー!!』 だってー。きゃあああ、陽子、聞いてられないー! きゃあああー」

「おい待て、こら、陽子、てめえ、待ちやがれ!」


 俺は恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら陽子を追いかける。陽子は浜辺をじゃぶじゃぶ走って腰の深さまで進むと、どぼんと胸から海に飛び込んだ。あっ、ちくしょー、海に逃げやがった。もうこうなったら陽子には追い付けない。俺も海に入って陽子を追った。陽子はところどころでクロールをやめて立ち泳ぎで叫びながら逃げていく。ー


「『告るから待ってろよーーーーー!!』 だってー。 きゃああああ、陽子、恥ずかしくなっちゃうー。 きゃあああ。 陽子、悶絶ーーーーー、きゃあああ」


 しばらく陽子は、器用にも平泳ぎできゃあきゃあ騒いだと思ったら、クロールですいすい泳いで逃げるのを繰り返した。それでもガチで追いかける俺がまったく追い付けない。いつもの小舟のへりを掴んでするっと舟に乗り込んだ陽子は、やっとのことで小舟に手をかけ海面で荒い呼吸をする俺を見下ろす。そして今度はどこかで見たような表情になって、にっこりと爽やかに微笑んだ。


「お兄ちゃん、やっと決心ついたんだねー。ママもきっと喜ぶよー。陽子も嬉しいよ。あははは」

「なんで陽子のママが喜ぶんだよ」

「そーれーはー、ナイショー!! ねえ、お兄ちゃん、明日帰っちゃうんでしょ?」

「ああ、うん。民宿の手伝いは今晩で終わりだ」

「陽子ね、陽子ね! あそこ行きたいー! 連れてってー!!」


 陽子が指さした先には、防波堤の先端の小さな白い灯台があった。


 ◇


 俺は陽子のリクエストに応えて防波堤の上を歩いている。背中に陽子をおんぶして。

 時の浜を出て道路を迂回すると、意外と防波堤まで距離がある。防波堤の付け根にたどり着いたところで 「陽子、疲れたー。おんぶー」 と陽子は俺にせがんできた。

 しょうがねー、まったく世話が焼けるよなあ。何キロも平気で泳げるヤツの言うセリフじゃないぜ。まだ500mぐらいしか歩いていないのに。

 とは言え無理やり歩かせるわけにも行かない。俺が 「ほれ」 と背中を向けると、「わーい」 と言って陽子は背中にしがみついてきた。


 しばらく二人とも無言でとぼとぼと防波堤の先端を目指す。照り付ける陽射しは容赦がなく、頬を撫でる風も海の青さに染まっている。陽子は俺の背中で寝てしまったらしい。背中の陽子の暖かい重みは、どこか懐かしい感じがした。


 しかし、幼女をおんぶして防波堤を歩く水着姿の男子高校生、客観的にヤバくないか? これは下手したら通報案件だよな。そんな思いも脳裏をかすめたが、それよりもごく自然に、当たり前に陽子をおんぶして歩く自分に驚いてしまう。



「ほら、起きろ、陽子。着いたぜ」

「むにゅー、陽子、寝ちゃってたー」


 海に突き出た防波堤の先端は、丸い水平線の海原の真ん中に放り出されたようだった。足元の海は透明で、ゆらゆらと魚が泳ぐのが透けて見える。灯台の下で陽子を負ぶったまま、肩越しに話しかける。


「陽子、泳ぎ教えてくれてありがとな」

「へへへー。陽子も楽しかったよー。お兄ちゃん、もうだいぶ泳げるようになったよねー。陽子ほどじゃないけど」

「なんだかんだで、泳ぎ上手くなったよな、俺も。それでさ、俺、明日帰るから」

「うん。知ってるー。そして、告るんでしょ? きゃははは」

「うぐっ。うるせー。俺の個人情報垂れ流すな!」

「大丈夫! 絶対上手く行くって。陽子が約束してあげる!」


 んなこと陽子に約束してもらってもなあ、と言おうとしたが、陽子の確信に満ちた笑顔に、俺は言葉を飲み込む。まったくガキは能天気でいいよな。肩越しに陽子のにこにこ顔を見る目が恨めしげになってしまう。そんな俺の葛藤には無頓着に、陽子は笑顔のままぽんぽんと俺の肩を叩いて言った。


「ねーねー、お兄ちゃん! このままざぶーんと飛び込みたい! 飛び込んで飛び込んで!」

「え?まじかよ」


 しょーがねーな、と俺は自分のビーサンを脱ぎ飛ばし、背負った陽子のビーサンを脱がして小さな灯台の付け根に蹴り入れた。

 そして、陽子を背負ったまま防波堤の先端めがけて思い切りダッシュ。

 へっ、防波堤の上を走るんなら、俺の方が早いんだぜ? 見てろよ、陽子!


「きゃーきゃーきゃー! はやいー!」

「陽子、しっかりつかまってろよ! 行くぜ! それっー!」


 防波堤の先端からテトラポッドのない方の海面に向かって、思いっきりジャンプ!


 一瞬の浮遊感。

 じゃばーんという音の後に、冷たい海水の抵抗。

 飛び散る水しぶきと水中の気泡を、俺は海中から見上げていた。

 太陽の光を受けてきらめく気泡の混沌カオス

 それは、大自然の海が織りなす天然のカレイドスコープだった。


 ああメグと二人でこれを見たい!

 絶対メグに見せてやろう!


 水中の気泡の向こうで、いつの間にか俺の背中を離れた陽子は、海面に向かって水中をすいすいと浮上していた。


「ぷはーっ!」


 遅れて海面に顔を出して立ち泳ぎする俺に、陽子が満面の笑みで飛びついてきた。


「あはははは、お兄ちゃん、サイコー! 水の中のキラキラ、見たー? ちょーキレいだったねー!」


 俺は陽子の頭を撫でてサムズアップで応える。陽子は俺の首にその小さな腕を絡めて、ほっぺにちゅっとキスをしてきた。


「お兄ちゃん、きっとね、また会えるから! だから、また陽子と遊んでねー! 約束だよー!」


 そう言うと陽子はいつものよどみないクロールで、瞬く間に防波堤のはしごに取りついた。そして、はしごを軽々と登り切って防波堤の上に立ち、こちらを向く。陽子は手を大きく振りながら叫んだ。


「じゃあねー、お兄ちゃーん! 陽子、このまま行くねー! 陽子のことー、忘れないでねー!」


 俺はまた必死で泳いで、陽子の後を追ってはしごを上った。


 しかし、防波堤の上にはもう誰もいなかった。

 ただ照り付ける太陽が、波音の響く中、俺のビーサンを焦がしていた。


 ◇


 10年後。

 俺は防波堤の上をメグと並んでゆっくり歩いている。今日もいい天気。空と海はどこまでも青い。


「ここに来るの、高3の時以来だねー」

「ああ。付き合って1年目の夏に、二人で来て以来だよな」

「海斗がえらい熱心に誘ってくれたんだよね。なんか私と同じぐらい泳ぎの上手い女の子がいたんでしょ?」

「ああ、メグに是非会わせたかったんだ。メグよりも泳ぎ上手かったかもしれない」

「でも会えなかったよねー。私も会いたかったなー」

「うん。残念だった。俺たちが付き合いだしたのも、元はと言えばあの子のおかげだし。礼が言いたかったのと、あわよくばメグと泳ぎ比べしてもらおうかなーってね」

「高3の夏って私のキャリアハイだよ? さすがに負けないよ。小学校3年生だったんでしょ?」

「いやあ、きっといい勝負だったよ。それだけあの子の泳ぎはすごかった。元気にしてるかなあ」


 俺の脳裏に真夏の太陽にも負けない陽子の笑顔がよみがえる。しかし、いくら探しても陽子の姿は時の浜のどこにも見当たらなかった。


「しかし高2の時は、びっくりしちゃったよ。夏休み終わりかけに急に会ってくれって、メッセージ来てさ。顔見たらすっごい日焼けしてるし。いきなり 『俺と一緒に人生を泳いでくれ!』 とか言い出すし。あんな告白、普通ないよ? あれじゃあ、そのままプロポーズじゃない。ま、嬉しかったけどね」


 メグはくすくすと笑った。


「いや、あれはちょっと緊張してセリフ間違っちゃっただけだろ。メグだって 『いいけど、私の泳ぎに一生付いて来れると思ってるの?』 なんて返事、普通ないぜ」

「ふふふ、いいのいいの。ちゃんと言った通り一生ついて来てくれるんでしょ?」


 メグはスキップするように俺の腕を取る。防波堤を渡る風がメグの長くなった髪とワンピースの裾を揺らす。


「メグはあんまりこういうとこ来ない方がいいだろう。俺、メグが泳ぎたいと言い出さねーかと思ってドキドキしてるよ」

「あは、分かっちゃった? 私、今ものすごーく泳ぎたくなってるんだ。泳いでいいかな?」


 ゆったりとしたワンピースの裾をなびかせながらメグは微笑んだ。俺は震えながら反論する。


「やめてくれ。恐ろしい」

「なんでー。今流行ってるんだよ? マタニティスイミング」

「ありゃプールの中を歩いたりするもんだ。メグみたいにガチで泳いだら赤ちゃんどうなるかわかんねーじゃん」

「ダメなのー? ちぇー。泳ぎたいなあ。海斗のケチー。んでさ、海斗には黙ってたんだけどね。女の子なんだって。赤ちゃん」

「まじか!」

「私たちの娘、だからね。きっと泳ぐの大好きな明るい子になるんじゃないかな。えへへへ」


 俺たちの娘?

 泳ぐの大好きな明るい子?

 ああああ、そういうことだったのか!!

 天啓に打たれた、とはこのことだ。

 ちくしょー、やられたぜ。


「ああ、そうかー! ひょおー、そりゃ嬉しいぜ!」

「あ、ちょっと、海斗! どこ行くのよ!」


 頬を撫でる風も海の青さに染まっている。俺は背後で引き留めるメグの声を振り切って、思い切り防波堤の先端から海に飛び込んだ。


 一瞬の浮遊感。

 じゃばーんという音の後に、冷たい海水の抵抗。


 飛び散る水しぶきと水中の気泡を、俺は海中から見上げていた。

 太陽の光を受けてきらめく気泡の混沌カオス

 それは、大自然の海が織りなす天然のカレイドスコープだった。


「陽子ーーー!! また、会えるよなーー!! 待ってるぜーーー!!」



(了)






 注:防波堤の先端から海に飛び込むのは、極めて危険な行為です。普通は防波堤にはしごなんて付いてません。上れなくなります。しかも幼女を背負いながら飛び込むとか、自殺行為以外の何物でもありません。絶対にマネしないでください。


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海が太陽のきらり ゆうすけ @Hasahina214

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