第2話 陽子が海で泳ぐ理由
じいちゃんの民宿の手伝いに来てみると、季節はちょうどトップシーズンど真ん中だった。民宿は毎日予約で満室。商売繁盛でありがたい限りだが、てんてこ舞いの忙しさには参ってしまう。
朝は4時に起きて魚の仕入れ、朝食の準備、チェックアウト、部屋や風呂の掃除、寝具の洗濯。午後になると、夕食材の仕入れ、夕食の調理の手伝い、チェックイン、部屋の割付、配膳、片付け、布団出し、風呂の準備。一日中休む暇なんてない。
仕事が全部終わるのはいつも夜の10時すぎ。こりゃ年寄りだけじゃ大変だ。去年までは母さんの妹、つまり叔母さんが手伝いにきていたが、最近子供が生まれてそれもできなくなったそうだ。
働きづめのある日、ばあちゃんが言った。
「海斗、お盆も終わったし今晩で一段落だよ。手伝ってくれて助かったよ。もう予約も少ないから、明日から昼間は海で遊んできな」
「うん、でも、海水浴場混んでるじゃん? ちょっとめんどくせー気がする」
「裏の時の浜に行くといいさ。あそこは観光客は来んからの」
「へえ、そんなところがあるのか」
「時の浜はときどき時間の流れが変わるって、昔から言われてての。ばあちゃんも昔、時の浜で泳いでてな。ばあちゃんの死んだお祖父ちゃんに会ってなあ ……」
「へえ」
ばあちゃんは人がよくて優しいのだが、昔話が始まると終わらないのが欠点だ。俺はばあちゃんの話をまともに聞かず適当に相槌を打ちながら、まあ、せっかくだし行ってるみるか、と言う気になっていた。
次の日の昼過ぎ、俺は海パンにパーカーで時の浜の浜辺にやってきた。かなり奥まった入り江になっている時の浜は、ばあちゃんの言う通り地元の人だけが知るプライベートビーチだった。
空はどこまでも青い。
太陽が全力で照り付ける砂浜には、波の音だけが耳に届く。
今頃、あいつらどうしてるかな。
すでにラブラブカップルになってるかな。
いや、メグがシーズン中だからそれほど会う暇ないはずだよな。
余計なことを思い出してしまった俺は、準備運動もそこそこにバシャバシャと波打ち際を海に向かって走って行った。膝ぐらいの水深で足を取られて、海水に頭から突っ込んでしまう。
ちくしょー、だせーな、俺。
くそっ、塩水が目に染みるぜ。
立ち上がった俺は、足元を確かめながらゆっくり沖に向って歩みを進めた。
すると、腰深ぐらいまで来たところで、背後の砂浜から甲高い呼び声が聞こえた。
「ねえー! ねえったらー!!」
振り向くと、そこには紺の水着の小学校低学年くらいの女の子が口に手を当てて叫んでいた。
だれだ、あの子は? さっきは誰もいなかったのに。
「ねえー! 泳げない人ってお兄ちゃんのことー!?」
俺は回れ右して波打ち際の女の子のところへ戻り、腰をかがめて聞く。
「俺は別に泳げなくないけど、どうしたんだ?」
「んとねー、パパにねー、この砂浜に泳げない人がいるから、泳ぎ教えてやれって言われたの! お兄ちゃん、泳げないんでしょ?」
「いや、だから泳げなくはないって」
「えー、でも泳ぎ教えてあげないと、パパに怒られちゃうー」
「そんなの知るかよ。小学生に教わらなくても、俺普通ぐらいには泳げるし」
「陽子だよ、よ・う・こ! 小学校3年生なんだよー!」
「分かった分かった。でも、俺人並みには泳げるからな。陽子はこのへんの深くないところで水遊びでもしてな」
「えー、陽子ちゃんと泳げるよー! 陽子のママはねー、すっごい泳ぐの上手いんだよ! 陽子、ママに習ったから、泳ぐの学校で一番早いんだー! 教えてあげるね!」
知らねー、頼んでねーよ、と少女に言おうとして、その容姿を俺は改めて見つめた。身長140㎝もない小柄な身体。少女らしいつぶらな瞳と日に焼けた笑顔。
んー、なーんかどこかで見たことあるようなないような。
「見ててねー」
そう言うと少女はだだだだと浜辺を突進し、腰深まで進むと 「それっー!」 とひと声上げて、どぶんと胸から思い切り海にダイブした。そして見事な、見惚れるほど見事なクロールで泳ぎだした。俺は思わず息をのむ。
そのしなやかな腕の振りのストローク。無駄のないキック。流れるようなスムースな息継ぎ。身体の小ささからくるパワー不足を、異常なまでに完成されたボディコントロールで補った陽子のクロールは、見る間に沖合に離れていく。
ーーー なんだコイツ。めちゃめちゃ上手いじゃないか!
あっと言う間に背の届かないであろう所まで泳いだ陽子は、クロールをやめて立ち泳ぎでこちらを向いて叫んだ。
「お兄ちゃーん、ここまで来れるー?」
「バカにすんなー。そこで待ってろ! 一人で泳ぐのはあぶねーぞ!」
俺は怒鳴り返して海に浸かった。
しかし、俺の幾分虚勢のまじった声は、ほとんど負け犬の遠吠えだった。見ただけで分かる。この子の泳ぎは掛け値なしに本物だ。抜群にうまい。この子の泳ぎに勝てるとしたら、それこそメグぐらいだろう。
◇
その日から俺は、午前の民宿の手伝いが終わると、すぐに水着に着替えて時の浜に通うようになった。
そこにはいつも陽子が先に来ていて、海中からきゃあきゃあとでかい声で俺を煽り、俺は拙い泳ぎでそれを追いかけるというのを繰り返した。陽子は、砂浜の上では普通の元気な女の子だったが、一歩水に入ると、俺の追跡を一切寄せ付けない海の妖精と化した。あと少しと手を伸ばせばするりと逃げられ、それを追いかけると圧倒的なスピードでますます離される。いつも先に体力が尽きるのは俺の方だった。
◇
陽子と毎日泳ぎ倒して1週間になるある日の夕方、陽子はいつものように 「そろそろ帰るねー。お兄ちゃん、また明日―」 と言って帰って行った。スクール水着にパーカーを羽織って、何度もぶんぶんと手を振りながら、時の浜から道路に上がる小道を駆け上っていく。俺はすでに疲労困憊だ。
あれだけ力一杯泳ぎまくってまだ走れるのか。元気の塊には付き合いきれねーな。
俺は陽子が去って人の気配のなくなった砂浜に寝そべって空を見上げる。
伸びてきた影に夕暮れの気配。
しかし凪いだ風の匂いは、まだ夏真っ盛りだ。
波の音をバックに、空の青さを堪能していると、ここしばらくの陰鬱な気分がどうでもよくなってきた。
そもそもこの陰鬱さは、俺が泳ぎがへたくそで、俺の好きなメグが泳ぎがめっちゃうまい、というギャップが原因だ。ギャップは確かに存在する。しかし、それを言い訳に、俺はいつまでもメグへの想いと向き合って来なかった。中途半端な状態に逃げていたツケがアキラの行動のきっかけだ。
しかし、よく考えてみると …… 俺が泳ぎが下手なのと、俺がメグを好きなのと、全然関係なくね?
夕凪に吹かれながら俺は思いを巡らせる。考えてみれば当たり前のことだ。
俺はメグの明るい笑顔が好きなんだ。誰かと話している時の快活な笑顔、一人でいるときの静かな笑顔、泳いだ後に見せる弾ける笑顔、そんなアイツのすべての笑顔を好きになった。
でも、俺が泳ぎが下手だったら、アイツの笑顔が見られないもんだろうか?
俺の下手な泳ぎを見たら、アイツの笑顔が曇るのだろうか?
違う。絶対に違うよな。
陽子は俺の下手な泳ぎに付き合いながらでも、ずーっと楽しそうに笑っているじゃないか。陽子がいつだって笑っているように、きっとメグも笑ってくれるだろう。
俺は足を勢いよく振って起き上がった。
決めた! 帰ってメグに告ろう!
アキラと付き合うことになっていたらしょうがない。
そん時は諦めて祝福する。
でも告ろう!
この想い、メグに届けるぜ!
俺は夕陽に染まり始めた海に向かって絶叫した。
「メグーーー!! 好きだああああーーー!! 帰ったら告るから、待ってろよーーー!!」
◇
その日、帰ってから俺はばあちゃんに言った。
「ばあちゃん、俺、そろそろ帰るよ」
ばあちゃんは座りなおしてやさしく俺に語りかける。
「そうかい。手伝ってくれて助かったよ、海斗。海斗もなんか気持ちの引っ掛かりを、海がぜーんぶ流してくれたみたいだねえ。随分スッキリしてるよ、表情がね。ここに来た時に比べると」
やべえ。さすがにお見通しだったんだ。
「近所の子と海で泳いでるとさ、いろいろ吹っ切れたよ。ありがと、ばあちゃん」
「ふふふ。近所の子ってのは中学生のユリエちゃんかい?」
「いや、陽子って言ってた。小学校3年生だって」
「んー、このあたりで一番若いのがユリエちゃんで、ここらに陽子って子はいないけどねえ。どこかの家の親戚が帰省でもしてたのかねえ。まあ、いいけど、海斗、あさっては予約で満室だからそれまで手伝ってくれるかい?」
「分かったよ、ばあちゃん。日曜日の夕方帰るわ」
その日の夜、俺はメグにメッセージを打った。
日曜日の夜、会ってくれないか、と。
返事は秒速で帰ってきた。
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