海が太陽のきらり

ゆうすけ

第1話 俺が海に来た理由

「お兄ちゃん、遅いー!! そんなんじゃモテないぞー!」


 俺は一生懸命泳いでるが、陽子との距離は縮まらない。そればかりか、どんどん離されている。俺はむやみに腕を動かしながら陽子に追いつこうと必死だった。なんでアイツは立ち泳ぎで大声上げてまたすぐ泳げるんだ。俺には無理。


 陽子はやっとのことで近づいた俺をするりとかわして、ばしゃばしゃと元気にクロールでまた離れて行った。


 ぎらりと照り付ける太陽の下の海面は、凪いでいるとはいえ波も海流もある本物の海だ。それをしぶきを立てながら身長140㎝もない小さな身体がすいすい進んでいく。陽子のクロールは、身体の小ささを補って余りある力強さだった。身長175㎝の俺がガチになって泳いでもさっぱり追いつけない。


 くそっ、なんだよ、こいつ。海の上じゃ、まるで歯が立たねー。俺は心の中で毒づきながら、根性で腕を動かした。


 陽子は沖に止めた小舟のへりをさらっと掴むと、いるかのようにしぶきを飛ばしながら海面を跳ねて、ひらりと小舟に乗り込んだ。


「ほらー、はーやーくー!」


 俺はほうほうの態でだいぶ遅れて小舟に取りつく。しかし舟に乗り込むだけの体力を回復させるにはしばし時間が必要だった。呼吸が整わないまま、すでに小舟の上でくつろいでいる陽子に向かって怒鳴り返す。


「はぁはぁ、うるせーよ! 今の東京じゃ、はぁはぁ、泳げなくても、はぁはぁ、生きていけるんだ!」


 陽子は小舟の上からにまっと笑顔で俺を見下ろした。照りつける太陽の日差しが一瞬遮られる。


「へえー。でもさー、お兄ちゃん、学校でクラスの女の人に泳げないのー? ださーい、とか言われてるんじゃない? 絶対陰で言われてるよー、きゃははは」


 ほんと、クソ生意気なガキだぜ。まったく。


「陽子はねえー、泳げない人なんて、お・こ・と・わ・り・だなー」


 そういうと陽子は 「それっー!」 と小舟の舳を蹴って、見事なフォームで再び海に飛び込んだ。揺れる海面にするっと着水してどんどん海中に潜っていく。海面の揺れがなければ、この海にいるのは俺一人かと錯覚するほど静寂が広がった。


 その静寂も2分も続くといい加減心配になってくる。どうしたんだと思い始めたころ、驚くほど遠くの海面が飛沫しぶきたち、陽子がひょっこり頭を出した。そして、こちらを振り向いて、よく通る声をあげる。


「お兄ちゃーん、今度はー、ここまでおいでー!!」


 うひー、アイツ、この2分足らずであんなに離れたのかよ。信じられねー。ひょっとしたら、メグより早いんじゃねーか?


 俺は仕方なく、小舟から手を放し、今度はゆっくり平泳ぎで陽子に向かって泳ぎ始めた。急いで行っても、どうせまた追い付く直前で逃げられて、そして追い付けない。


 8月のどこまでも青い空の下、海は広く、そして明るい。世界のすべてが透明な青の原色に染まっている。


 まるで先月までの陰鬱な風景とは別世界のようだ。

 いや、本当に別世界なのかもしれない。


 俺は陽子に向かってゆるゆると平泳ぎをしながら、ここしばらくの俺の憂鬱の原因に思いを巡らせていた。


 ◇


 期末試験の終わった7月の半ば、アキラと俺はコンビニで買ったアイスをかじりながら帰り道を歩いていた。アキラはアイスをくわえながら何気ない風に言葉を発した。


「海斗、おまえさあ、いい加減愛海めぐみちゃんに告らねーの? もうマジでそろそろなんとかしねーとヤバいぜ?」


 あー、それが聞きたかったのか。アキラとの付き合いも長くなった俺は、期末試験中、いやそのもう少し前からアキラが何かを俺に言いたがっている気配を感じていた。


「ムチャ言うなよ」


 俺はそっけなく答えてアキラと同じようにアイスをかじる。噛み方が悪かったのか、先っぽが折れてこぼれそうになり、慌ててアイスの棒でそれを口の中に押し込む。アキラは高校入学直後から俺とメグの仲が良かったのを知っていて、もうかれこれ半年近くいい加減告れよ、と言い続けてくれていた。


「メグはああ見えて全国レベルなんだぜ? 俺なんかじゃ、釣り合い取れないよ」

「まあ、途中入部であんだけぶっちぎりのタイム出してるからなあ。才能あったんだろうな。でもな、海斗、お前さあ」

「なんか、もう、手が届かねーとこ行っちゃった感じなんだよなあ。俺も泳ぐのは嫌いじゃないんだけど。でもやっぱさ、全国レベルの才能の持ち主の相手が俺ってわけにはいかんだろ」


 さも関心なさそうに平然と答えたが、宿題やっていないのに当てられて答えなきゃならない気分だ。


「海斗さ、そんなこと気にしてんの、お前だけだぜ? なんかお前見てるともどかしくなってくる。お前の愛海ちゃんへの想いはその程度のモンなのかよ」


 アキラは食べ終わったアイスの棒を道端の自販機のゴミ箱に乱暴に投げ入れて、俺を見て言った。その口調は珍しく鋭い。


「見損なったぜ、海斗。最初から気持ちで負けてるヤツの応援なんか、もうやってられねーな。海斗はおとなしくて静かな子でも探してろよ」


 そして明らかに俺に挑戦する目を向けて鋭く言い放った。


「俺、愛海ちゃんに告白するから。恨みっこなしだぜ?」


 え? どういうことだ? アキラがメグに告白? 俺は混乱する頭でオーム返しに聞き返す。


「メ、メグに告白? アキラが? ど、どうしてメグなんだよ」

「好きだからに決まってるじゃねーか。一応海斗に遠慮してたんだけどな、俺は。その必要はもうねーな。釣り合いがどーのこーのいうのは、愛海ちゃんのことその程度にしか思ってないってことだろ? 愛海ちゃんのこと、それほど好きじゃねーんだよ、海斗は」


 そう言い残してアキラは去って行った。俺に背を向けたアキラの背中に見えたのは、確固たる想いだった。


 ◇


 俺たちアキラ、俺、メグ、スズエの4人は入学直後に席が近かったこともあって、高校一年の春から親しくなった。そして去年の夏、4人でプールに遊びに行った時、実際俺はあわよくばプールの帰りにメグに告ろうと思っていた。

 ところがプールでメグの泳ぎを見たスズエが言った一言で、俺とメグの関係は激変してしまう。


「メグちゃん、泳ぎめちゃくちゃ上手じゃない?」

「へへへー、昔から泳ぐの大好きなんだ! 私、えら呼吸もできるんだよ!」

「嘘も大概にしてよ。それ、すでに人間じゃないじゃん …… 。ともあれ、メグちゃん水泳部入ってみない? 私、お姉ちゃんが水泳部なんだけど、部員足りないって言ってたから。お姉ちゃんに言ってあげるよ?」


 もともとメグは部活に入る気はなかったらしい。しかし、スズエの勧誘と毎日泳げるという口説き文句に負けて、夏休みの途中からメグは水泳部に入部した。

 そして、メグの天性の才能は一気に開花することになる。競泳に馴染んだ1年の秋ごろからメグは快記録を連発し始め、2年になると市代表、県代表を次々と勝ち取っていく。来年は全国大会出場も期待されるレベルになっていた。


「メグ、すげーな。ただの泳ぎ好きじゃなかったんだな」

「えへへへ、毎日泳げて嬉しいぞ、私は。ぶっちゃけ授業は全部プールの中でやってほしいぐらいだよ。海斗も泳ごうよ。またプール行こ?」

「いや、遠慮しとく。なんちゅーか、レベルが違いすぎて ……」

「泳ぐのにレベルなんて関係ないのにー」


 少しふくれつらのその表情は1年の夏の前と少しも変わらない。しかし、俺はスター街道を上り詰めていくメグの背中を見ているしかできなくなっていた。


 その背中には、もう手を伸ばしても届かない。

 そう考えるようになっていた。


 ◇


 俺の中では衝撃的なアキラの一言だったが、日常では特に変わったこともなく夏休みに突入した。夏休みに入ってからも、去り際のアキラの言葉はずっと俺の頭の中に響き続けていた。


 アキラがいつ、どうやってメグに告白するのか知らない。知りたくもない。しかし結果だけは分かり切っていた。俺とメグの親しさと、アキラとメグの親しさにそれほど差があるわけではない。たまたま俺とメグの仲が良かったので、アキラはずっと遠慮してくれていただけだ。アキラの気持ちに気が付かない俺もダサいが、アキラが告って失敗する可能性は、冷静に考えて極めて少なかった。


 メグとアキラが付き合う ……、うん。仲の良い二人が恋人同士になるんだ。祝うべきだよな。祝福すべきだよな。俺がもたもたしてたのが悪いだけだよな。アキラにもメグにも少しも落ち度なんてないよな。


 俺は必死に自分に言い聞かせて、無為に夏休みが過ぎるにまかせていた。幸い休み中はメグは部活、アキラはバイトで顔を合わせる機会はほとんどない。


 どうにも割り切れない、しかし割り切らなければいけない心情を抱えて日々を過ごしていた夏休みのある日、母親が俺に言った。


「あんた毎日毎日グダグダ過ごしてー。ほとんど腐乱死体じゃない。いい加減にしなさい! おじいちゃんちのお手伝いにでも行ってきなさい!」


 母方の祖父はひなびた海辺の集落で細々と民宿を営んでいる。

 広い海、青い空、白い砂。

 それを思い浮かべて、俺は思った。

 ひとまずこの街から逃げ出すのも悪くないな、と。


「あ、それいいな。かーちゃん、俺しばらくじーちゃんちの手伝いに行ってくるわ」


 俺はその日のうちに荷物をまとめて、翌朝には海に向かう電車に乗り込んでいた。


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