雨街と亡骸

武内颯人

魔法




 ナキガラには日課がある。

 今日も彼女は釣りにやってきた。


 雨街を流れる大きな川。なんという名前がついているのかは分からないけれど、とにかく川辺を歩いていく。霧に包まれている早朝ということもあり、人通りはほとんどなかった。昼間には賑わう門前町も、朝靄に眠りを守られている静けさを保っていた。

 ナキガラはいつものポイントへと向かいながら、それでもちっとも急いではいなかった。朝に急いではいけない。歩いているのなら、なおさら。ちゃんと好きな歌を口ずさむことだって忘れない。



「人が死んだこの街に、ぼくらは家を建ててみせるのさ」



 彼女が川に突き出た桟橋にたどり着くと、先客として座っていたおじさんに挨拶をした。毎朝いっしょに釣りをしている、カナトコさんは髭で顔が見えない人だった。それと、優しいところもあれば、ときには命を奪う人だった。

「おはようございます」

 ナキガラは頭を下げる。向こうは髭を触りながら、片目を流して軽く会釈を返す。お隣いいですかと聞きながら、彼女はおじさんの隣へと腰を下ろす。持ってきた釣竿を垂らして、じっと水面へと集中する。


 風は吹いていない。こんな街の名前なのに、最近は雨が降っていなかった。気のせいだろうか川にも元気がないようで、今日はきっとなにも釣れないだろうと、すぐにナキガラは欠伸を広げた。

「魚はどうして足がないのか、知っているかい」

 カナトコさんはリールをキリキリと巻いている。なにも引っ掛かっていないのに、ルアーに演技をさせるためだけに手を回す。糸一本で人形を自在に操るだなんて、そんじょそこらの傀儡子にはできないだろう。

「バタ足よりも速く泳げるからじゃないんですか?」

「そう。じゃあどうして人間には足が生えているのか、分かるかい」

「……そうですね……」

 ナキガラはぼうっと空中に視線を放って、首をかしげてみる。どうせ答えのない問いかけなのだけれど、こういうことにうまく返すことはできないだろうかと考えるのが、彼女は好きなのだ。自分のなかに眠っている、突拍子もない考えを掘っていくことが。

 持ってきたコーヒーを飲む。口元に当たる湯気を吸いこむ。それから、小さな飲み口からやってくる熱に怯えながら、ちょっとずつステンレスを傾けていく。そろりそろり、移動してくる重さが出口を潜り抜け、ナキガラの柔らかい体内へと染みていった。

「……そっちのほうが、歩くのに楽だからじゃないですかね?」

 考えてもいい返事が浮かばないときは、こうやってありきたいな回答をする。向こうがなにか言いたいことがあるとするなら、きっと予想通りの返事をすることが一番だから。この二人は、いつもそんな風に話をしている。

「お互いに顔を見るためだよ」

「そうなんですか」

「ああ」

 彼も彼女も、ピクリともしない糸を見つめる。



 陽は次第に霧を晴らしていく。軽トラが川辺を走っていく。きっと庭師さんの持っているそれだ。梯子が奇麗な角みたい。ナキガラが黒い川辺で座り込んでから、二時間くらいは経っていた。マウンテンブーツを履いた足を、交互に浮かせては地面に落とすことにも、流石に飽きてきていた。一方のカナトコさんは、身じろぎ一つしないでじっと魚を待っている。風もなく、ただ空間は色だけを落とす。

 黒い川、大きな川はそれをしっかりと飲み込んでいく。巻き込まれてしまった魚は、きっと水底で腐っていったのだろう。

「……飲みますか?」

 コーヒーをカナトコさんへと差し出す。まだまだ残っている温かさを、しっかりと誰かに分け与えたいと思ったからだ。ナキガラは、そういうところで少し、優しい。

「ああ」

 しっかりとナキガラと同じところに口をつけ、初老の髭を掻い潜らせて黒い液を飲んでいくカナトコさん。思ったよりも熱かったようで、眉を寄せながらも喉元を過ごしていく。それから、今日会ったときと同じように会釈をして、円柱をナキガラへと返した。

「……今日はもう、釣れないかもしれませんね」

「……そうみたいだね」

「残念ですか?」

「ああ、残念だ。今まで、この川で釣れたことなんて一度もないが、今日も釣れないとなると流石に悲しいね」

「きっと明日は釣れますよ」

 いつものように笑ったナキガラ。昨日もこうやって笑ったのに、その表情に曇りなんてなかった。ただ、彼女はひたすら、まっすぐに信じているようだった。カナトコさんにはそう見えた。

「そうかもしれないね」

「そうですよ」

「私はね、もうそんなに長いこと生きてはいないだろうから、死ぬまでに一回ぐらいは魚を釣ってみたいんだ」

「大丈夫ですよ。きっと釣れます。見事にルアーが躍っているじゃないですか。魚だってカナトコさんに食べられたいに決まっています」

 黒い川は、まともに流れすら描かない。けれど、それを見ていれば見ているほど、その深淵から魚が姿を現すのかもしれないという期待が膨らんでいく。どんな姿をしているのだろう。川と同じ黒だろうか、それとも本で見たような青白い流線形だろうか。

 ナキガラの想像力は、川の反対側にそびえている巨大な塔にまで届きそうだった。昔、電波を飛ばしていたという六〇〇メートル。彼女は電波というものを見たことはなかった。けれど、それはきっとビリビリとしていて、黄色っぽい光を放つのだろうなと胸が躍った。

「私も、魚を食べてみたいなぁ」

 カナトコさんの横顔をじっと見つめる。髭の隙間から覗く肌の色を確認したナキガラは、彼が今年の間に死ぬんだろうなとも、想像した。



「魚はどうして足がないのかは分かりますが、どうして陸に上がらないのか、カナトコさんは知っていますか?」

「もちろんだ。誰だって新しい場所へと飛び込むことが怖いからさ。私たちが海のなかで生きていこうと思えないことと同じだ。私たちにできる挑戦なんて、たかが知れているんだよ。それを魚にだけ求めることなんて、できないだろうね」

 なるほど。分かったふりをしてナキガラは立ち上がる。お尻を両手ではたいて、釣竿を肩にかけた。

「……今日も寒くなりそうですね」

「そうさね。もう何十年も寒いままさ」

「……でもコーヒーは暖かいですよ。毎朝温かいです。アマツブが淹れてくれると、なぜだか美味しいんです」

「……そいつはいいね」

「はい」

 ナキガラは歩く。一歩、二歩。

 そして、別れの挨拶を言い忘れたと立ち止まる。振り返り、黒い川に向き合いながら、崩れたビルと沈んだ船を無視しているカナトコさんへ、ナキガラは言葉を投げる。

「どうしてこの中のコーヒーが温かいか、知っていますか?」

 カナトコさんはこちらを見なかった。手元から伸びている糸の向こうに神経を張り巡らせているだけで、声もぶっきらぼうに一言だけを絞っていた。

「私がなんでも知っている人間であるわけじゃないんだ、魔法なんかは使えないんだから」

 どうせ釣れやしないのになにをやっているんだか。呆れながらナキガラはコーヒーを一口。魔法瓶から熱々がなみなみと。




 風が北から吹いてくる。ナキガラの身体を痛めつけるように。

 川沿いを歩いて、一度家に帰るのは毎朝の日課だった。


 彼女が朗らかに笑顔をしたためて、黒い川を横切る橋へ。橋の上からは何人分かの死体が見えた。魚が腐乱に群がっている。朽ちていても、偽物の餌なんかよりもよっぽど美味しいのだろう。ナキガラがどれだけ欲していても手に入らない魚と触れ合っている。

 死体に少し妬きながら、それでもナキガラは日課をこなしに帰る。


 今日も雨街は寒かった。耳が痛いと彼女はぼやいた。






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雨街と亡骸 武内颯人 @Koroeda

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