後編

3.

私の背中が見えだす。

今日子の詩集を読んだ後で、急に身体が震えだした。決して、文学的な感動によるものではない。詩はよく分からなかった。

ベランダを見やると、私が背を向けて立っていた。白いブラウスが灰色になるほど、汚れている。私は私の背中を眺め続けた。このままの姿勢でいても、あのベランダに立つ私の見ている景色を捉えられそうだった。

夜はすでに更けている。家々には優しい灯りがともって、それぞれの家庭が人生を歩んでいる。それはどれもが似通った幸福の中にあるわけではない。その様が、都会の濁った夜空の下で星の僅かばかりの瞬きの守護を受けて展開される。それは本の項を繰るたびに変化していく世界線のように目まぐるしく、忙しがない。

私はそれを臨みながら、ベランダに佇む。

私は私の背中を通して、その向こう側の景色を夢想した。私の背中が不自然に揺れていることに気がついて、よく目を凝らした。揺れは次第に増して、左右にまるで振り子のように振れる。

私はベランダの背中が、すでに首を吊っていることにようやく気がつく。私の青白い顔が、窓に張り付く。カーテンを閉めて、私は現実を取り戻そうとする。耳鳴りがした。病んだ背中が、私の存在にぴったりとくっついて離そうとしない。

震える手で、私はスマホの連絡先を繰る。大学時代特に何の良かった友人にメールをして、沢村今日子の連絡先を知らないかと聞いた。なかなか返信が来ずに焦れて、今度は詩集を出版している出版社に電話をした。随分怪しまれて警戒された挙句、結局教えてはもらえなかった。

うなだれて諦めかけた頃に、友人から返信が来てようやく沢村今日子の連絡先が掴めた。

深いことは考えなかった。多分、今日子だってあまり深い考えもなく3冊目の詩集を私に送りつけたに違いないから。でも別の不安が頭をよぎった。

あの奥付きの目つきそのままに、私の急な連絡は拒絶されてしまうかもしれない。何か彼女と話したいわけでもない。話すべきことがあるわけでもない。

不意にベランダに佇んだままの私の背中がよみがえった。食べることも飲むこともできず、ただ卵だけを腹一杯に抱えた蜉蝣のようにあの私は孤独でいっぱいだった。亡霊か、悪夢か私はもうひとりの私がこうやって現れるて来るのに疲れているのだ。今日子と連絡を取って、どうなるものでもないことは分かっている。分かってはいるけれど、名前のつけようのない衝動、言葉になる前の感情の昂りだけが私に、私以外の誰かを切実に求めさせたのだ。

呼び出し音が間延びするように続く。次第にそれは嘲笑うような色を帯び始める。

結局お前はただ独りきりなのだと、言われているような気がする。私の頭の中に、また私の背中が見え出す。そこでは核戦争か、隕石の衝突かで世界にはただの1人もいない。私はただそこで本当に独りきりで、トランプを繰っている。どんなに大きな大陸も、もはや誰のものでもなくなっている。私の背中はただ独りきりだ。その背中が、終末の中でかすかに動く。トランプを繰るためだ。そこで私は世界中の国をただ独りきりで賭けている。

相手もいないままに……。

「……もしもし?……もしもし?」

気がつくと、電話は繋がっていた。確かに今日子の声だった。

そこで私は生身の私を取り戻す。

「あ、ごめんなさい、あの……」

唇を舐める。上手く舌が回らない。

「……誰?」

「あの、えっと……本を送ってくれたでしょう?」

私はやっとそれだけ言った。

「え?……あぁ、もしかして」

今日子は意外にもすんなり私の名前を出した。

「あの、お礼をまだ言ってなかったし……ずっと忙しくて、全く読んでなかったの……その、今日子の詩集を」

「うん」

「それで……やっと、今日読めたの。だから……」

「うん」

「だからね……なんていうのかな」

今日子の声は読めないままだった。私はまごつき、次第に自分でもどうしてわざわざこんなことをしているのか、分からなくなってきた。

「本当は何を言いたいの?」

今日子はしばらく黙った後で、言った。

私はそこで言葉を喪って、何も言えなくなってしまう。今日子も同じように黙っていた。その沈黙は不躾な連絡に対する怒りでもなく、戸惑いでもなく、拒絶でもなかった。

それは自然に雨が上がるのを待つ時の雨宿りに似た沈黙だった。

「……どうしても、駄目なの。このままだとね、私は生きていられないって思うの。信じられないだろうけど、私ね不意に自分の姿が見えるの。それも、なんだか自殺する前のような……。だからね、仕事も辞めるつもりなんだけど、何もできないの」

「うん」

「それでね、なんとなく本棚を漁ってたら今日子が送ってくれた詩集を見つけて……」

「読んだの?」

「うん」

「そうなの」

それからまた沈黙だった。

今日子は急かすでもなく、ただ私が口を開くのを待っているようだった。

「ごめん、詩はよく分からなかったけど……」

「うん」

「今日子と話したいことがあったわけでもないし、話すべきことがあるわけでもないんだけど。それでも、誰かとこうしていたかったの」

今日子は黙ったままだった。怒ったのだろうかと、さすがに不安になる。耳を澄ませると、微かに今日子の側で何か音楽が流れているような気配がした。私は意図的に精神をそこに集めた。ピアノと声楽。澄み切った泉の流れを見るような心地。

「あのね」

私の思考を遮るように、今日子が不意に強い口調で言った。

「明日ね、取材で長野の安曇野に行くの。そこに美術館が沢山点在してる場所があってね、そこに行かなきゃいけないの。私は独りでそこへ行くの」

今日子の言うことがよく分からなかった。だが厄介払いをしているような気配はない。

「仕事もう辞めたの?」

「そのつもり」

「つもりじゃなくて、辞めたのか聞いてるの」

杭を打つように、今日子が畳み掛ける。どうしてだか私はそこで心が決まった。

「辞めた」

「暇だったら、一緒に来ない?」

「……どこに?」

「長野」

それからの今日子は随分前から約束していたように、長野へ行く段取りを事細かく説明した。台本でも読んでいるかのような、抑揚のない声だったけれど怒っているわけではないようだ。かといって、押し付けがましい励ましの色もない。

私はその勢いのまま、明日今日子と待ち合わせをして長野へ行くことになった。

電話を切った後で、私はもう一度今日子の詩集を手に取った。

ふと目に飛び込んだ箇所には、「たった独りで、台所に立つ。誰もが立つ台所。家庭の灯火、橙色の揺り籠。今はたった独り。独りきりで、生命を探す」とあった。

私はそこで、どうしてだかカップラーメンが台所に仕舞ってあることを唐突に思い出した。湯を沸かして、立ったままその場で啜る。


「たった独りで、台所に立つ。誰もが立つ台所。家庭の灯火、橙色の揺り籠。今はたった独り。独りきりで、生命を探す」


これもまた生命なのだろうか。

今日子の文字は、次第に文字から記号へ記号から一つの線描へと変化していく。やがて糸をより集めて編むように、それは孤独な私の似顔絵となっていく。

私は私の顔をカップラーメンの油越しに見た。それは少し疲れてはいるものの、桃色の、生命を宿した色をいくらか取り戻していた。



4.

1年ぶりに会う今日子は、あの奥付き写真よりも少し髪は伸びていたもののどこかやつれて見えた。小鼻の肉まで薄く、より怜悧な印象を受ける。

「久しぶり……取材旅行、なの?私が一緒でもいいの?」

「普通の旅行と変わらないよ」

今日子はにこりともせずに言う。言葉少なに私たちはそのまま電車に乗って目的地を目指した。

元々がお互いのことをそう知っているわけではない。かといって、私たちはその溝を埋めるための当たり前の努力すらやる気がない。今日子は早々に眼鏡をかけて、景色も見ずに文庫本を開いて俯く。私もiPodでひたすら音楽を聴きながら流れる景色を見ていた。

それにも飽きると、私は手持ち無沙汰になってなんとなく今日子の方を見る。相変わらず文庫本を読んで、微動だにしない。無地のブックカバーで覆われているから、何を読んでいるのかは分からない。すると、今日子がすいと目をあげた。

「なに」

「いや、何読んでるのかなーって」

今日子は文庫本を閉じて、唇を結んだ。それから私の方に向き直って、呟く。

「なんだか、雰囲気変わったわね。痩せたでしょう」

「あはは、うん。自分でもびっくり」

「社会で働くって、大変なのね。月並みな言葉だけど……」

「まあ、でもその通りだし。今日子は凄いよ、学生の時から本出してたなんて知らなかった」

「だって、言ってなかったし」

「何を書いてるの?」

今日子はそこで黙って、しばらく景色を眺めていた。

「今はね、なんにも書けないし、書いてないの」

スランプ、という言葉が思わず出かけた。でもそれよりも、もっと深刻な何かを感じて私は黙っておいた。

今日子はあくまで淡々としていた。まるで何も悩みがないように見えて、それは眩しく映った。

まとまりのない思考をそのままにしておくと、それは軟体動物の足のように、縦横に何処へでも飛んでいく。過去へ未来へ、そして現実へと行きつ戻りつして私をいつまでも振り回す。気を抜くとそんな風になりそうで、私は中身のない話しばかりしていた。今日子はほとんど相槌を打つだけで、私だけが一方的に話し続けた。長野へ着いて、予定のコースを回る段になって私はこの強迫的な行為からようやく解放された。取材と聞いていたけれど、中身はほとんど旅行と変わらなかった。私たちはあちこちの美術館を巡った。今日子が事前にアポイントを取った学芸員に話しを聞いている間に、私は独りで勝手気ままに巡った。

美術の素養なんてないけれど、それがかえって私のある部分を柔らかくさせて剥き出しにさせた。外からの刺激に、やたらと感傷的になるのはこのせいだ。

1日かけて、私と今日子は美術館を巡った。私はその間にミュージアムショップで使うのか怪しいポストカードやペンや栞を買い込んだ。今日子は分厚い画集をどこの美術館へ行っても買い求めて、少ししんどそうだった。私はそれを半分自分の鞄に入れてやり、最後に廻る美術館へ着いたのはもう夕方だった。

そこでは小さな不思議な展覧会をしているところだった。

頭も手足もない、胴体だけのブロンズの彫刻が部屋中に並べられている。今日子はそれを熱心に見ていた。私も付けられているプレートを読もうとしたけれど、今日子の買った画集の重さに集中力を削がれて、何も考えずに見て回ることにした。

頭もない。顔も無ければ表情もない。そして、動きのある手足もない。胴体はさながら、虚そのものだ。私は始め、それを流しながら見ていた。胴体ばかりの異様な空間。今日子は私から離れて、それに見入っている。

手足のない胴体だけの彫刻をトルソーというのだと、説明書きで始めて知った。トルソーはほとんどが女のもので、真っ黒な姿態の中にも乳房や肉のついた脇腹の柔らかさが見て取れる。顔も手足もない姿態は哀れに見えた。それは抵抗すべき唇を縫われてしまった奴隷のように、寄る辺がない。それなのに、それらは次第に違ったように私に迫って来た。

8キロも痩せた私とは対照的に健康的なトルソーは、手足を奪われながらも自由だった。想像の中で、トルソーは補われていく。そこに顔はあるが、顔はない。手はあるが、手はない。足はあるが、足はない。過剰と欠落の中で、本当に私が見ているものは今ここで欠損しているのだ。それが一つの物語として、美術館の中に鎮座している。

トルソーは台座から降りて、次第に大きくより自由になっていった。縦横に動き、関節は柔らかにしなって、様々な姿態を形作る。私は過労の末に動けなくなった私を思い出す。その向こう側で、ベランダを乗り越える私の背中を思い出す。トルソーは踊り出し、私の鼻先やすぐ後ろを過ぎて行く。その黒色の疾走の間から、私の背中が見えた。それは無機質のトルソーよりもさらに無機質で、虚ろで中身のないものだった。動きの充満の中にあって、私の背中だけが何もなかった。そして、動きがなく生命がなかった。

気がつくと、今日子が私の横にいた。

「大丈夫?顔色があんまり良くないみたいだけど」

横目でこちらを見ると、今日子は三白眼になる。

「今日子はこれを見て、何かを書くの?」

「……まあね」

「凄いね……私にはよく分からないけど」

今日子は少し考えてから言う。

「別に凄くなんてないよ。私なんて、なんにも。最初の出版だって、自費出版だったの。趣味の延長」

「それでも凄いじゃない」

「……それが、ある出版社の編集者の目に止まって、彼がぞっこんで売り込んでくれたの。でもね、その人も出版社を辞めちゃって私も書けなくなるし、だから今はただのプーだよ」

そこで今日子は弱く笑った。それが妙に人間の体温を感じさせて、私は不思議に思った。

今日子はそれ以上な何も言わず、また別のトルソーに見入り始めた。

私は展示室内に置かれたベンチに座って、あてもなく視線を漂わせる。こうやって、誰のためでもなく何のためにでもなく生きていけると、どんなにいいだろう。今日子の横顔は、どこか険が取れたように見えた。それから私たちはそろって美術館を出て、夕飯にソースカツ丼を食べてから帰った。

今日子は行きと変わらず無口だったけれど、その沈黙はいくらか優しさを帯びているように感じた。私は繰り返し、あの展示室で見た妄想とも白昼夢とも分からない景色を思い出す。手足のないトルソーが縦横に動いたのだ。それはある種の豊かさ、物語るものが確かにそこにあることを示しているように、今では思えた。その中にあるあの虚ろな私の背中は最後まで動かないままだった。

別れ際に、今日子は「ありがとう」とだけ言って、さっさと乗り換えの電車に乗って行った。私も振り返らずに、そのまま帰った。



私は今日子に言ったとおり、会社を辞めた。どれほど怒鳴られるだろうかと、びくびくしていたけれど意外なほど誰も私を引き留めることはしなかった。上司は中途採用で入ってきた別の社員にかかりきりで、むしろ煩そうに辞表届を受け取った。

代わりの人間は幾らでもいる。

暗にそう言いたげな雰囲気だった。私はしばらく働かなかった。貯金も幾らかあるし、またあんな辛い思いをすることはまっぴらだった。未来の展望はない。暇だと感じるようになったら、アルバイトでもしようかとは思っている。

そうやって、だらだらと半年が過ぎた頃にやたらと厚みのあるA4の茶封筒がポストに投函された。中を開くと、それは今日子からのもので彼女はようやく何かを書いたようだった。

それは今日子にとって、4冊目の詩集だった。あれから今日子とは連絡も取っていないし、会ってもいない。これから先会うのかすら、怪しい。多分私たちは会わないだろうと、予感した。

だからこそ今日子はこうやって詩集を送ってきたのではないか。私はそれを開いて、読んだ。内容は長野で見たことが断片的な文章の中に、そこはかとなく投影されていた。誰の手によるのか、写真まで付されていてとても洒落た作りになっていた。詩は相変わらずよく分からず、ただなんとなく今日子の紡ぐ日本語が綺麗なことだけは分かった。それは教会の中で聴くラテン語の賛美歌を本能的に美しいものだと察知するあの感じと、よく似ている。

ひと通り読むと、最後の方に紙質の違う項があった。それは明らかに後からつけられたもので、しかも手作業でつけたようなものだった。そして、手書きされた字で「トルソー」と題されたものだった。私はそれが、今日子が自分でつけたものだと直感した。

瞼の裏に、あのトルソーたちがよみがえる。



始まりは欠損だった。

私には物語るものが何もない。何もないからそれは、虚ろだ。空っぽだ、空虚だ。私は疎外されている。

薄くなった身体を抱きしめる。異様に長い腕は背中を通り越して、もう一方の腕まで抱きしめる。その蜘蛛の脚のような長い指。

エゴン・シーレの描いた死神みたく、それは異様に長い。

私を抱きしめるのはただ、死神だけだ。

指の触れる脇腹。思春期が始まる前の少女のように、肋が浮いて、それから硬い。


始まりは欠損だった。

私は気がつくと、囲まれている。

それをして人々は世界と呼ぶ。私より一層蹲って、動かなくかる。昆虫が腹を向けて死ぬように、私は背を向けて硬くなる。

緩やかな死。社会的な死。亡霊。永遠に彷徨う幽霊船。私は誰にも気づかれない。気づいて欲しくないとさえ、思っている。

私の存在。昼間の月のような、白っぽく透明な、澄んだなにか。そう在りたい。そうで在りたい。なにかの詩(うた)であるような、そんな存在。昔何かで読んだかな、いいやそうじゃない。それは昨日私が見た夢だ。


始まりは欠損だった。

私はある時、独りの芸術家に出会った。芸術家はただ独りきりでひとつの粘土をこねていた。芸術家の指先は割れて、汚れている。粘土と生身の肉の境目が融け合って、すでにそこはヒトではない。血の通わない白色。

それはなぜか、美しい。

芸術家は頭は造らず、手足も造らず、ただ胴だけを造った。

それは初め、欠損に思えた。物語るものが何もないように見えた。私は時々そこへやって来て、我慢ができなくなると去って、再びやって来た。

そのうちに、なにかが語りかけてくるような気配がした。あるべきものが、あるべき場所に。あるべきでないものが、あるべきでない場合に。人の存在は、そのようにして細切れにされていく。それは均一にならされて、次第に色を喪ってゆく。

多くの人はそれに気づかない。それでいて、平気で平和だ。


始まりは欠損だった。

豊穣な語るべきもの。私には見えない。ただ、感じるだけだ。

世界の暗がり、電燈の消えた路傍。

欠損から、語りかけて世界が形作られる。その一端に、私の存在が引っかかる。

私には見えない。

私には語れない。

ただ、感じることができる。

ただ感じるだけだ。

それから、見ようとする。

それから、語れるようになろうとする。

全ての始まりは、欠損だった。



私は何度もそれを読み返して、手作りの項を繰った。もう一枚、薄い和紙のような項があって鉛筆で走り書きがされていた。


「私たちは、まだなにものでもない」


今日子とはそれから会っていない。詩集も送られてくることはなかった。

何年か前に、海外の文学賞を取ったと話題になって私はとても懐かしく思った。それでも連絡を取ることもなく、彼女の方から来ることもなかった。

あれは一つの過去として、私たちの中にある。そこに特別な意味を見つけようとすることは、とても人工的でなんだか穢れていることのように思えた。だから努めて、私はただの無機質な過ぎ去った物理的な時間の堆積物だと思うようにしている。今日子の方も、多分そうなのだろうと思う。

私はあれから3年ほど、ぶらぶらとして過ごした。体重は増え、あまつさえ痩せる前よりも太ってしまったほどだ。一度社会の遮二無二さに取り残されると、そこから調子を合わせるのは容易ではない。見かねた両親のコネで小さな工場の事務員にねじ込まれ、私は4年そこで働いた。そこを辞めた後に、今の会社でゆるく事務員として働いている。それもいつまで続くか分からない。人員整理の噂が寒く唇にのぼっている。



私は最後に送られて来た詩集をたまに読み返している。

今でも時折、私は私の背中を見ることがある。だがもうベランダの向こう側へ飛び降りようとはしない。ただそこに居るだけだ。

昼間の月。亡霊。永遠に彷徨う幽霊船だ。

私は今日子とは会わないまま、生きている。そうやって生きていることを実感するために、彼女の詩集を読み返している。

私はふと、ベランダに目をやった。そこはただの暗がりで、何もいない。

裸足のままそこに出る。ざらつく触感がした。かつて見た背中と、重なるような気がする。


それでも私はただ独りで、未だなにものでもない。そこで私はわけもなく幸せに感じて、微笑んだ。


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精神巡礼 三津凛 @mitsurin12

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