精神巡礼

三津凛

前編

1.

ある時、心と身体がまったくばらばらになってしまった。

私はまったく笑えなくなって、食べられなくなった。次いで生理が止まり、動けなくなった。原因は明らかに、働き過ぎだった。私の身体は、労働によって血の通った一つの肉体から発条と歯車で束ねられた誰にでも変えのきく一つの部品となっていた。休息という油を挿されなかったそれは遂に限界を超えて、グロテスクにその微細な無数の金具ごとばらばらになってしまったというわけだ。

そこまで考えて、私は笑い出した。

1Rの中で、私は仰向けになったまま笑い転げた。

まるで狂気だ。狂気の沙汰だ。

ハンガーにかかったスーツが、皺を伸ばされる事もなく引っかかっている。それが心なしか、舟を漕ぐように揺れている気がする。それが次第に誰かに袖が通されて、膨らんでいるように見えた。その揺れが、まるで過労自殺をした人間の形(なり)に見えてくる。

私は頭を振って、不吉な幻想を駆逐する。

まったく、お笑い草だ。

私はただの部品から、私を取り戻さねばならないのにもはやそれどころではなくなっている。指一本動かすことすら、ままならない。

仰向けになったまま、眼だけを動かす。もう満員電車は動き出している時間だ。それを夢想した途端に耳鳴りがした。

雀の鳴き声は、月曜日の伝書鳩だった。また一週間が始まる。でも最後に休んだのはいつだっけ?

私はベランダの外を見た。掃除もしていないそこは雨水と埃で真っ黒だろう。私は耳鳴りを追い払うために眼を閉じた。瞼の闇の中で、私は私の背中を見る。

疲れて虚ろな、それでも働かねばと脊骨ばかりが真っ直ぐに伸ばされた背中だ。吹けば飛ぶような背中を、私は痛々しい思いでただ見守ることしかできない。他ならぬ私のことであるのに、私は私をちっとも救えやしない。

背中だけの私は、振り返らず生っ白いアキレス腱を晒して真っ黒に汚れたベランダに出る。洗濯物さえ干すことを忘れた私の生活が、その背中を押す。私は裸足のまま、汚れるに任せてベランダを進む。

そこで、ああ昨日は雨だったのだなと初めて思い至る。終電を逃したまま、家に帰ることもせずに私はただ働いていただけだ。

そして、私は手摺に手をかける。鉄の冷たさはなんの引き留めにもならない。

泥のように残った疲労。終わることのない満員電車の往来。大量生産された、取り替えのきく部品の集合体としての私、パーソナリティ。

私は遂に一歩踏み出して、跳んでいく。青空が翻って、アスファルトが転回する。

あぁ、気持ちいい。これが生きるってことだ。生きたってことだ。

私は私の背中を、そうやって見守って見殺しにした。

私はそこまで妄想して、そのくだらなさに大笑いした。それから、唯一残っていた部品の発条が弾き飛んで決壊したことに気がついた。

それから大泣きした。

昼過ぎまで眠って、スマホからの呼び出し音で飛び起きた。

ディスプレイを見るまでもなく、それは上司からだろう。

無断欠勤だ。

それでも私は幾らか動けるようになった。よろよろと疲れ切った筋肉を起こして、私は私を起こした。

テレビをつける。

人は死んでも世界は進む。そんな当たり前のことさえ、この小さな画面の中の人たちは許せないようだ。遠い世界で起きている餓死のことには憤慨する癖に、足元で動けないでいる人たちの事には恐ろしいほど鈍感だ。

私は素っ裸になって、体重計に乗った。新卒で採用されて、すでに1年経っていた。独り暮らしも初めて、最初の3ヶ月はがむしゃらに食いついた。でもそれだけだった。

目方は8キロも減っていて、私は体重計に乗ったまま座り込んだ。

しばらく動けないままでいると、どうにも寒い事に気がついた。急いで風呂を沸かして、髪も身体も洗わないまま飛び込んだ。そこでようやく、生命が瑞々しく息を吹き返すことを知覚した。

そこでどうしてだか、高校時代の音楽の授業を思い出した。自由に伸ばすことのできた真っ白な四肢がよみがえる。グノーのアヴェ・マリアを聞いて泣いたのは私だけだった。それは卒業まで私を揶揄わせる格好のネタになった。でも、未だに仲の良い友達は感性が良いんだね、とあの時褒めてくれた。その友達とも、随分会っていないことに今気がつく。もしかすると、連絡はあったのかもしれない。私は何も気づかないままだった。

私は風呂から上がって、上司からの呼び出しで震えるスマホでグノーを再生した。雫がフローリングに垂れるのも構わずに、静かにそれを聞いた。

バッハの平均律。マリア・カラスの大袈裟な歌声。

私はこの時、からからに乾いていたのだ。何の感興もなく、そこにいた。記憶の中にある涙はよみがえっては来なかった。そして、耐えきれずにそれを切った。

スマホは再び上司からの呼び出しに震えた。私は電源ごとスマホを落としてから、再び風呂に浸かった。

生命の拍動を聴こうとしても、駄目だった。今の私には心がない。

読むべき物語を剥奪された、砂漠で彷徨う異教徒のように孤独だった。ある日心がばらばらになったのではない。次第に私は末端から何かとても大切なものを切り捨てていたのだ。最初は他人から、その次は自分から。

どこにも行きたくないと思った。誰にも会いたくないと思った。それなのに、この酷く惨めな孤独にだけはどうしても耐えられないとだけ強く思ったのだ。

それはここから出なければなされない事だと分かってはいても、重かった。私は風呂場で長いこと泣き続けた。瞼と涙との境目が分からなくなるほどに。



2.

再び、私は私の背中を見た。

アイロンのかけられないままの、都会の埃に薄っすら灰色に染まったブラウスを着ている背中だ。皺の寄せ集まりが、泣くことのできない心象を代弁しているようだった。私は私を憐れに思いながらも、何もできない。

私は再びベランダに裸足で出た。足が汚れていく。いくらか水分を含んで膨らんだ汚れが、私の足裏から私の身体に取り込まれて、私自身を灰色に染め上げていく。その色は不健康の極みだった。私は再び手摺に手をかけ、乗り越えていく。

こんなはずじゃなかった。

こんなはずじゃなかった。

いつのまにか、私が呟いて身体が転回した。

再び青空が広がって、直後にアスファルトが迫ってくる。

はっとした。

私はそこまで妄想して、我にかえる。私の背中なんて、どこにもない。私は裸のまま、カーテンの開け放たれた1Rからぼんやりと射す陽光に晒されていた。気がつくと、もう夕方だった。

どれほどこうしていたのだろう。スマホの電源を恐る恐る入れると、もう諦めたのか膨大な着信履歴だけを表示してもう動かなかった。

私はそれに妙に安堵した。

それから服をゆっくりと着て、なんとなく物置になっている本棚を漁る。学生の頃から、あまり本を読むタチではなかった。通学時間をやり過ごすために、大学生協で買い求めた本が薄っすら埃をのせて収まっている。気紛れに買った本たちは今では酷くつまらないラインナップに見える。なんとなく背表紙を追う。

私の目は街中に僅かに残された街路樹の枝ぶりを眺めるような、無機質なものであると感じた。

その中に買った憶えのない背表紙を見つけて、私は反射的にそれを取り出す。

私が大抵買うのは推理小説で、詩集なんて軽いものは求めたことがなかった。その本は明らかに小説ではなくて、そのくせ下手な小説よりも分厚い。項を繰ると、一文が一定の距離を持って几帳面に並べられている。

奥付きの無愛想な写真を見て、私は思い出す。

沢村今日子。モノクロの写真の向こうから、まるでこちらを睨むようにしている。髪はおかっぱよりも更に短く、細い輪郭と相まって少年チックに見せている。全体的に線が細く、目も鼻も小ぶりだ。目元の細さは特に怜悧で冷ややかな印象を与える。真一文字に結ばれた唇のせいで、まるで「読むな」と言わんばかりの面持ちだ。よくこの写真を出版社も本人もOKにしたな、と一目見たときに思った。

沢村今日子とは、同じ大学の同じ学部だった。3年次で同じゼミだったけれど、大所帯だったこともありそれほど話したことはない。ただ一度だけ、彼女と珍しく話が弾んだことがあった。

ゼミの一限前の授業が休講になって、講義室で休んでいる時のことだった。私の他に2.3人いたもののみんな静かで、やけに静かだったことを覚えている。その中の1人に今日子がいて、彼女は1人で図書室へ寄ってきたのか何冊か本を傍らに置いて暇そうにその1冊を手に取って読み始めた。それが中高生の時によく読んでいた赤川次郎のシリーズもので、私は急に嬉しくなってつい声をかけてしまった。

今日子は奥付きの写真と同じような顔つきをしていた。



へぇ、赤川次郎読んでるんだ。なんか懐かしい。


……好きなの?


うん、好きだった。今はもう読んでないけど……中学と高校の時はよくね、読んでた。


……そっか。私も。昔はよく読んでたけど。


今も読んでるじゃない?


今日はたまたま。目についたから、懐かしくて。


そうなんだ。不思議よね、前はあれほど好きだったものが今になると色褪せて感じちゃうの。赤川次郎も何冊か読んでるうちに、あぁこのパターンかって思うようになっちゃって……。それで段々読まなくなっちゃったの。


そうね、そういうことはよくあるわ。本だけじゃなくて……。良く言えば大人になったっていうのか、悪く言うと感性が摩耗しちゃったのね。



今日子はそういう時、半分はもう1人の自分に向かって言っているようだった。それは過去の今日子で、まだ赤川次郎を夢中になって読めていた頃の今日子だ。

どこか上目遣いで、呟くように摩耗という単語を発した今日子は対照的に豊かな感性の持ち主に見えた。そんなことは直接言わなかったけれど、今日子の方も私のことは記憶に残る存在だったらしい。そのことが分かったのは、大学を卒業して3ヶ月経った頃に送られてきた1冊の詩集によって露わになった。どうやって私の住所を調べたのか、ポストに投函されていた封筒には沢村今日子と出版社の名前の他には何も記載がなかった。

私は不気味さよりも、今日子が作家になっていたことが興味深くてその詩集を手元に置いたままにしていた。結局今になるまで忙しさに追われて、ろくに奥付きすら見ていなかったことに気がつく。

心を亡くすと書いて、忙しい。からからの砂漠。餓死寸前に拾い上げられた心。

私は改めて奥付きの写真を見た。著者の簡単なプロフィールを反射的に読む。それは食品に表示される原材料のように、沢村今日子を無機質なものに分解していく。そこで、この詩集は今日子にとってすでに3冊目の作品集であることが分かった。処女作は大学時代に出版されていた。

相変わらず、今日子は無愛想にこちらを睨んでいた。

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