ナポリタニストと雨

 この数日降り続いている雨は、依然として止む様子がない。朝と昼と夜と、絶え間なく街の表皮を濡らし続けている。僕はその陰鬱さから持病の偏頭痛を発症してしまっていて、暗い部屋でベッドに寝転び背中を丸めて浅い呼吸を繰り返していた。

 ああ、なぜこうもベランダに落ちる雨の音は僕の剥き出しの神経を逆撫でするのか。夕方になると空はより低く、重くなっていく。

 枕元ではAIスピーカーが、プレイリストの中から音楽を再生する。

「口から出まかせシニフィアン 誰にもあげないシニフィエ ナポリタンを食べたらすぐ出動なんだ」

 雨音が反響するワンルームでもその歌声はよく響いた。これは天啓だと、僕は精神の闇夜のなかでその一筋の光明を見た!

「ナポリタンだ。ナポリタンを作らなければ」

 ベットを歪ませながら勢いよく起き上がると、すぐに外へ出るために支度を始める。

 黒のスキニーパンツを履き脱いだスエットを床に放る。そしてTシャツの上から迷彩柄のジャンパーを羽織って、机の上の財布とマスクを引っ掴む。念のため財布の中身を見ると、くしゃくしゃの千円札が3枚入っていた。十分だ。

 玄関に向かうと、僕は少し古くなったアディダスのスニーカーを履いて、全く愛着のないビニール傘も渋々と手に取った。重いドアを開くと、湿った空気が束になって僕の頬や襟元を這っていくのを感じる。でも僕にはやるべきことがある。

「ナポリタン」

 そう呟くと、その陰鬱な塊が恨めしそうに僕の体を離れていく。残念だったな、僕は玉ねぎやピーマンやソーセージを炒めて、トマトソースとパスタを濃厚に絡めなければならないんだ。お前の相手をしている暇はない。

 最寄りのスーパーマーケットは人がまばらで、野菜コーナーではじっくりと品定めができた。ただ、一つ。母親に連れ添う少女が僕をじっと見ていたのには気が滅入った。いや、後から考えると彼女は怯えていたのかもしれない。青白い顔をした男がピーマンを掴み、嘘言のように「ナポリタン、ナポリタン」と呟く様はたしかに尋常ではないだろう。そうした失敗もありつつ、僕は無事にナポリタンの材料を買い揃えたのだ。

 家に帰ると僕はその衝動を抑えられなかった。上着を脱ぎ散らかし、スーパーのレジ袋を漁るとまず野菜たちを切り裂いた。玉ねぎは薄くスライスし、ピーマンは輪切りが美しい。ソーセージは斜めに切るかどうか悩んだが、縦にまっすぐ切ることにした。

 オリーブオイルをフライパンに垂らす。放っておくと自然に広がっていくから無理に広げる必要はないのだが、神経質な僕はフライパンを傾けたりしてそれを均等に伸ばした。その広がりに納得すると、玉ねぎとソーセージをフライパンに放り込む。ジュッと音がして、その音があまりにも大きいようだったら少し火加減を弱めるといい。

 ピーマンはまだまな板の上で転がしておく。あまり火を通しすぎると色が悪くなるからだ。

 並行してパスタを茹でることを忘れてはならない。パスタは出来るだけ大きな鍋に水をたっぷり入れる。そこに塩を入れて沸騰させる。

 玉ねぎがしんなりし、ソーセージから香ばしい匂いがするような頃合いになったら、ピーマンをさっと入れて少し火を通す。そのあとに具材をフライパンから取り上げて、ケチャップを煮立たせるのだが、この時におろしたニンニクと野菜ジュースと少しの赤ワインも入れる。これを入れると甘くて奥深い味わいになるのだそうだ。そして火を強めて、茹でているパスタが芯まで柔らかくなるのを待つ。

 ああ、早くしてくれと心の中で呟く。すぐにでもナポリタンを作らなければ、背中に這い寄る雨の日の憂鬱さに押しつぶされてしまいそうだ。

 パスタが茹で上がるとザルにあげて、冷水にとる。そして水気を切ると、炒めた具材と共に煮立ったトマトソースに放り込んだ。

「ここからよく焼くんだ、鍋肌にトマトソースがこびり付くまで」

 ナポリタンを作る上では、パスタにソースが絡むことが最も大切な事だと教わった。そしてそれを実現するためには、ソースの水気がなくなるまでパスタをしっかりと炒めないといけない。

「まだ、まだいける」

 僕はフライパンのそばにトレーを置き、すぐにでもナポリタンを取り出せるように準備する。

「今だ!」

 コンロの火を止めて、フライパンを高く掲げ、そして銀のトレーにナポリタンを勢いよく滑り込ませた。パスタを下に、具材を上に。熱気で銀のトレーが妖しく煌めく。粉チーズを初雪のようにそっと降らせると、ゆっくりとナポリタンの地表で滲み溶けていった。

「ナポリタン!ナポリタンだ!」

 僕の身体はその瞬間、大きく脈打った。僕は理解する。ナポリタンこそ人を人たらしめる、唯一の方法だと。

 ケチャップの芳ばしい香りがするたびに、僕はキッチンに立つあなたの事を思い出す。

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