叫んだらおしまい

真花

叫んだらおしまい

 いつもの日曜日の筈だった。

 肩を並べて街を散策し私のマンションに帰り、雄介が風呂に入っている間に夕食を仕上げた。野菜不足が心配だからサラダ、肉食ばかりだから魚、みそ汁は彼の好きななめこ、白いご飯は炊き立てだ。半裸でテレビを見ている姿を横目に配膳して声を掛ければ彼は素直にテーブルに付いた。

 ペロリと平らげる様、何のことのない会話。

 ごちそうさまと共に片付けを始めようと思ったら、ちょっと待ってと言う。

「どうしたの?」

「あのさ、別れて欲しいんだ」

 はぁ? と反射的に言いそうになって堪えたら次に言葉が出なくなった。雄介も何も言わない。

 どういうこと? 急に別れるって、そんな予兆はなかった。普通に今日を過ごしたし態度も何もいつも通り、最近会う頻度が減るとかそういうこともないし喧嘩だってしていない。私に落ち度があったとは思えない。と言うより、結婚をいつ頃するかとかそういう話をしてたじゃない。結婚するかしないか、じゃなくて、いつするか、の。あれは嘘だったの? 

 重苦しさをかき分けるように雄介が顔を上げる、目が合う。瞳が深刻さよりも悲愴の色をしている。

「ごめん」

 ごめんじゃないよ。何でもう別れ成立ってことになってるの。結婚。結婚が私はしたくてあなたと付き合ってたのに。ずっと努力して来た。私の人生設計にこの結婚は外せないんだよ。どうしてわざわざ研修医に唾付けてるとひそめ眉で見られながらも検査技師なのに研修医の飲み会に参加して物色して、ようやく彼氏にしてこころ折れそうな初期研修の日々を支えてやっとそれが修了して、認定医を取るところまで応援して今日、そろそろ結婚が現実味を帯び始めたのに、何で、今。

「どうして」

 それは当然訊かれる質問なのに、雄介は口ごもる。

「ねえ、どうしてよ」

 突っかかりそうになる両腕を制したらその反動が声を鋭くした。

 う、とそのまま動かない雄介。

 意気地なしめ。前に進まなければ話がなあなあになって時効のように私が呑むと思ってるのか。何時間でも最後までやってやる。明日が来ても終わらないなら二回戦をしてやる。そもそもそんな話をするならもっと一日の始めの方でやれよ。今日のデートは何のためにあったんだ。結婚も決められないなら、別れ話も切り出せない、うじうじの決断不良の結果が今なんじゃないの。こんな話をするのに、人んちに上がり込んで風呂に入ってご飯まで食べやがって。そうかい、進まないなら私が進めてあげるよ。

「雄介、理由をちゃんと話して。それを聞いてから怒るとか、どうするとか決めるから」

「既にものすごい剣幕で睨みつけてるじゃないか」

 こんな奴が人様の命とか人生とかを左右する仕事をしているのが信じられない。いや彼の優柔不断もビビリも最初から分かって付き合っている。仕事上でそれが同じように発揮される訳ではないのは同じ医療従事者を見ていれば分かる。プライベートの決断力と職業上の判断力は別なのだ。だからこそ私は雄介を選んだ。押して圧して落とした。この関係を恋愛と呼ぶのは少し違うように思うくらいに私には恋の要素がないままで雄介を選択している。彼がどうかは分からないけど、好きだと言われたことはある。恋がなくても人生のパートナーになってもいいと思う。子供を作ってもいいと思う。私に打算はない。一本釣りで仕留めたハンターの獲物は間違いなく狙ったものだった。あの性格も私が主導権を握るという点では素質だし、雄介が最初から内科志望でそのまま内科になったのもつぶしが効いて安定度が高いし当直で居ない日があるしで都合がいい。病気もなく親族のトラブルもない。さらに大して男前ではなく職業抜きの雄介には女が寄って来たりはしないと予測できたし、実際女っ気のない人生を歩んで来ていた。理想的な条件。

「だって雄介、私の親にも会ったじゃない」

「会ったけど」

「両親はもうその気なんだよ」

「知らないよ」

 その条件が一挙に不良債権化し始めている。ものを決められない人が自ら決めるときは決められる人が決めるときより頑なだ。予め全ての変更可能性が排除された上での結論になるからだ。彼の中のグレーゾーンは全て私の色にすることが出来るけれども、狭いせまい黒の領域は絶対に彼の色から変わることはない。

「他に女が出来たの?」

 認定医を取った後は専門医などが控えているが一つ資格を取ったことと臨床経験が最低限を超えたことによる自信で、この時期からモテ始める。それまでモテたことがないからそのギャップで狂い咲く若い医者もちらほら見て来た。だからなのか、学生時代から付き合っている医学生カップルは卒業と同時か研修修了時に結婚することが多いらしい。モテる時代をまるごと奪うのだ。

「違うよ」

「本当に?」

 はあ、とため息をつく雄介。苛立ちが私を突き上げる。

「そういう理由じゃない」

 じゃあ、何なんだよ。まあ、でも雄介は潔癖なところがあるから二人の女と並行してセックスするとかは出来なそうだし、もしそうだったら流石に私も何かを感じ取るか。でもだとしたら本当に何なんだ。

「理恵はさ、結婚したいって、言ってたじゃない」

「そうだよ」

「それが重くて、俺を段々追い詰めるんだよ」

 追い込み漁の要領で結婚を決断させようとしていたのは事実だ。でもまだ結婚情報誌をいきなり買って来たり、式場選びに無理矢理付き合わせたりはしていない。漁はまだ中盤で、詰めはもう少し先だった。

「俺はまだ結婚とかしたくない」

 それが理由か。ここまで五年間私に餌を撒いておいてここで逃げるか。逃げ切れると思っているのか。いや、まさか、私が狩っているつもりで飼われていたのか。結婚したい私を遠ざけるには結婚しないまま時間を浪費するかそれとも別れるかの二択を強要すればいい。第三の選択肢の結婚は合意がないと出来ないものだからいつまでも人質にすることが出来る。いつからそれに気が付いていたんだ。

「だから俺と居ても結婚しないままの日々になってしまう。それでは理恵がかわいそうだよ」

 本当にその論法で来た。かわいそうって何だよ。かわいそうだから捨てるって言うの? かわいそうと思うなら拾ってよ。結婚してよ。

「それに、俺、理恵とじゃ幸せな家庭を作れないと思うんだ」

 私が私にとって幸せな家庭を作ろうとしていたのは認める。でもそれが雄介にとって幸せかどうかは別じゃないの。雄介が幸せと思うなら幸せな……思わないから結婚しないんだね。別れるんだね。

「どうしても私と結婚したくないの?」

 雄介は辺りを見回す。ここに誰の目があると言うのだ。

「ごめん、絶対にやだ」

 圧殺。

 私の願望とか計画とか全部が、希望のひと雫も遺さず潰されて、私自身ですらもが圧潰された。雄介が今まで発した全ての言葉の中で一番強い言葉だった。微かに残る可能性、二人がまだ二人で居続けるという可能性、これまで培って来た関係も、この一言だけで十分に取り返しのつかない破壊を被った。

 短いやり取りの中で私は敗北を認めてしまった。

 しかしそれを口に出すまでは世界はその手前で踏みとどまる。

 認めたくない。

 私の二十代後半を全部つぎ込んだ計画が台無しだ。

 認めたくない。

 叫んでしまいたい。

 半狂乱になって雄介をボコボコにしてしまいたい。

 だけど、叫んだらおしまい。

 ここからは私に納得が収まるまでの時間だ。やり取りの形を保つ間はそれが保障される。

「私の何が嫌なの」

「そんなの言えないよ」

「言って」

 声に狂気が薄く混じっているのが自分で分かる。それが彼を圧迫しているのも分かる。

「ねえ、言ってよ」

 また雄介は周囲を見渡す。これが危険なサインであることにようやく気付く。

「全部だよ。強いて言えば存在」

 頭に体中の血が逆流する。右手が出そうになる。声を上げそうになる。

 くっ、と堪えて、爆発的な心拍数に耳がじんじんしているのを感じながら、また睨む。

 自分の双眸に涙が込み上げて来て、侮辱に悔しい、やっと気付く。

 自分のしてきたことは何だったのだ。

 こんなことを言われるためにこの男に尽くして来た訳じゃない。

 がんばった分の未来を手に入れる筈だった。

 大声を出したい。この男をのしてしまいたい。

「何で、今日まで私と居たのよ」

 また見回す。その行為が恐怖になる。

「惰性。別れる労力がめんどくさかったから」

「好きって言ったのは嘘だったの?」

「そのときは本当だよ。今は違う」

 頭がわんわんする。その中のものを出さないと私がおかしくなる。でも、まだ話は終わっていない。

「私はどうすればよかったの?」

「理恵から別れてくれたらよかった」

 真空の壁があるかのように、もう届かない。絶望の正確な形が今なら分かる。体の底の方に生まれたそれと、爆発を秒読む頭とで距離が生まれて、もしこの二つが融合したらきっと彼を殺すのだろうな、それはしてはいけない、私の未来も殺されてしまう。どちらかを消さないと、消さないと、消さないと。

「俺のことは死んだと思ってくれ」

 噛み締めた奥歯が割れそうだ。もう限界だ。

「帰って」

「ああ、そうするよ」

 穏やかな音に似つかわしくない凝り固まった目。雄介はふい、と視線を外してそのまま私と目を合わせずに準備をし、さよなら、と言い残して出て行った。

 食器。

 そのままの姿勢の私。

 空間がまだひりついている。

「何なのよ」

 体の頭の中に肥大し続ける感情だったもの達、失われて行くコントロール感。

「お前は何がしたかったんだ」

 無人の席に投げつける言葉はヨーヨーのように自分にぶつかって来る。

「結婚が、消えた。あと一歩だったのに」

 結婚式で結えるように髪を伸ばした。雄介には言わずに私の挙げたい結婚式場の候補を絞っていた。日取りも考えていた。何より、両親に結婚しそうだと言ってしまった。雄介がのこのこ実家に付いて来たことでパパもママも安心しきっている。何て言えばいいんだ。費やした五年間をどう補えばいいんだ。二十代はもう終わっている。あいつの胸先三寸で私が突き落とされなくちゃならないなんて、やっぱり納得がいかない。でも報いなんて違う。その先の私の人生が壊れる。そうだ、明日からも私は生きているんだ。私はもう、別れを受け入れている。それは私の気持ちの問題ではなくて本当に彼が死んだのと同じように私の人生から姿を消そうとしているのが分かるから。だから後は私がこのことによって陥っている、感情の混乱と爆発性の衝動を、どうにかして、そうしないと確実におかしくなる、歪な状態が自分に定着する前に出さないといけない。

 叫ぼう。

 それしかない。

 今ここで?

 それじゃ意味がない。

 屋上で世界に向かって?

 世界に放出したい訳じゃない。

 山? 海?

 そこにも人は居ない。

 新宿に行く?

 捕まりたい訳じゃないし、知らない誰かに聞いて欲しい訳でもない。

 友子のところは?

 違う。

 パパは? ママは?

 違う。悲しませたくない。行く場所は決まってる。

 理恵は食器もそのままに外出の支度を整える。化粧などしない。

 張り詰めた顔、きっと鬼の形相。

 早足に怒りを込めて、呼吸に悲しみを流して、進む。

 駅までの道、電車で三駅、また早足。

 目的地の扉、呼び鈴、今日は必ず出て来る。

 ドアが開く。

 男。

 その頭を両手で掴む。


「あああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 近隣を超える程の大声、気が触れているとしか思えない音波。驚きなすがままの雄介。

 声を出すだけ出して、す、と手を離す。

「さよなら」

 靴音ってこんなにしていたんだ、振り返ったらもう雄介が何を言ってるかなんて関係ないからそのまま家路に就く。

 今日までのことも今日のことも、叫んだらおしまい。明日からの計画を練ろう。

 そう言えば二十代前半に別の研修医とのときもこうやって終わったっけ。

 次こそは。

 


(了)

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