最終話 音
【山森さんのお母さんが、ベビーカーを押して散歩をしていたのよ】
【五か月くらいになるのかしらね、赤ちゃん】
【遠くから見ただけだったから、声も掛けられなかったけど、かわいいでしょうね】
戸谷君と紙で話した夜だった。
家の中は、何も変わっていなかった。母はいつもよりも話をしたがっているようで、連続するメモ書きは僕の手元にどんどん増えた。
すべて山森さんの家に関する事だったが、山森さんについては何も書かれなかった。僕は母の言葉に、うなずいたり、少し笑ったりした。仕事で疲れてストレス発散したいのか、ただ単に話したいだけなのか、さっぱり分からない。
人の事が気になって、誰かに話したがるのは、自分が満たされていないからだろう? 空白を埋める事は、簡単な事ではない。
僕が文字を書いて伝えるのは、どうしても必要な事だけだ。母のメモによる話し掛けにも、文字にして伝えることはしなかった。最初はぎこちなかったやり取りも、三年以上続けていれば普通にしゃべるのと何ら変わりのない作業となった。母の字が、あまり上手でないのは無意識の中に葬った。
外に出れば、知らない人だらけの中に存在している。耳が聞こえないから、勉強も運動もできない、努力する必要はない、と思って生きていた僕は、外ではただの何もできない人間だ。
だからと言って、今からどうすればいいのか。手話を勉強する? いや、その必要はない。逃げるための口実は、いつ消えるか分からないのだ。明日にだって、僕の耳は正常になるかもしれない。だったら、別に今のままでいい。そうやって、たまに自分を許した。
スクーリングの帰りに、戸谷君と話したことが、思った以上に僕の心を変化させた。僕が今まで出会ってきたクラスメートは、すべてハズレだったのか?
ほんの数分しか交流をしていないのに、僕は戸谷君を一生の友と呼びたいくらいに一途に思い始めた。あの日以来、どうにも説明し難い感情に満たされていたのだ。
それから毎日、少しだけ散歩をするようになった。まだまだ暑い季節だった。家から一番近くにある図書館まで歩いて十分。そこで一時間ほど過ごして、帰りは少し遠回りをして帰ってくる。通る道は小学校の通学路と重なっていた。
事故現場の前を通らなければ図書館へは行けないのだ。未だに花は供えられていた。数はだいぶ減っていたが絶える事はなかった。
記憶の中の音声が鮮明に残っている。つんざく金属音、コンクリート塀にぶつかって世界が破壊される音、声の大きな女性や、警察を呼んだという男性の声、綺羅ちゃんのお母さんの声、遠藤君の奇声。
時々頭の中で鳴り響く。耳を塞いで鏡を見る。自分の顔を見ては、恐怖で目を閉じる。皺くちゃの顔が鏡に映る。僕は、ゆっくりと目を開けてその目を見る。視線は逸らさない。涙は出ない。全部、あの場所に置きっぱなしのまま、僕はやっぱり耳が聞こえない。
毎日の散歩を欠かさなかったからか、季節の移り変わりが良く分かった。夏と秋の境目を生まれて初めて感じた。ああ、もう秋だ、と老人のような感想が頭に浮かんだりもした。冷えた体で図書館に入ると、暖かかくて有難かった。
玄関から入って右手の一番日当たりのよい場所は、絵本コーナーになっていた。その奥にはガラス窓で仕切られた部屋があって、靴を脱いで入る読み聞かせコーナーだった。そこでは大きな声を出しても、他の利用者の迷惑にならない。いつも小さな子供を連れた母親たちが大勢集まっていた。僕は遠くからその光景を眺めた。隔離された部屋の中には笑顔がたくさんあった。
本を読んでいれば、耳が聞こえなくても問題はない。図書館で本を読んでいる人間に、話し掛けてくる人は居ないのだ。そこにも、居心地の良い空間があった。案外、こんな僕でも生きやすい場所はたくさんあるのかもしれない。
帰ろうと玄関に近づくと、カウンターの女性と目が合った。二十代くらいのその女性は、いつも赤色のエプロンをしていて、特に何かをするわけでもなく、カウンターに座っていることが多かった。
僕を見ると、にっこりと笑い、何やら口を動かした。何を言っているのか、分からないが、僕は軽く会釈をして外へ出た。
外は風が吹いていて、図書館との温度差でかなり寒く感じた。
ベビーカーを押した女性とすれ違った。首をすくめ、寒そうにしていて、急いで図書館へと入って行く。
僕はハッとした。振り向いてその後姿を見た。あの人、ベビーカーを押していたあの両手は、あの日、僕の両手を強く握り揺さぶった手だ。あの時の手の感触、それは異常な程に暖かく、体中の体温が一か所に集中しているかのようで、震えていた僕の両手は一瞬にして溶けそうな程に温められたのだ。
ベビーカーの中は全く見えなかった。しかし、母から教えられていた情報にぴったりのようにも思えた。
【三輪車みたいなベビーカーなのよ。あまり見ない形でね、とにかく目立つのよ】
という母の下手な文字が頭に浮かんだ。
山森さんの家から図書館に来るとなると、あの場所を通らなければならない。そこまでしてこの図書館に来るだろうか。大きな疑問だった。まだ悲しみがあるのなら、そんなことはできないはずだ。あれは山森さんのお母さんじゃない、きっと別の人だ。いや、絶対に違う人だ。そうでなければいけない。
昼前の空は明るく晴れていた。日差しは届いているのに、吹く風が冷たかった。ずっと、風の音だけは聞こえるような気がしていた。肌が空気の存在を感じるからなのだろうか。それとも一種の錯覚であろうか。時々、ふわっと風を感じて、耳に何か届いたような気がする時がある。
次に戸谷君と会ったら、自分から何か話そうか。小学校の通学路だった道をなぞりながら、簡単には出来なさそうな事を考えた。
耳が聞こえたら良いのに。聞こえたら良いのに。
今まで思わなかった事を思ってしまった。
事故現場は冷え切っていた。寒そうで、枯れた花が寂しさを増していた。飛んできた枯れ葉が足元でカサカサと遊んだ。僕はその場で立ち止まり風に触れた。
仰いだ空に雲は一つもなかった。そういえば、あの時、確か、この空もあった。視線を戻し僕はいつもよりも速足で歩いた。久しぶりに電信柱を数えて帰った。
緩解 高田れとろ @retoroman
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