第13話 戸谷君
幼い命がいくつか消えた事と、僕の耳が機能を失った事は、同時に起きた出来事ではあれ、同時に語られるべき事ではない。周りの大人も、助かってよかったわね、とは言わなかったし、耳が聞こえなくなって可哀想に、とも言わなかった。
僕はますます、何が本当で嘘か分からなくなっていた。
無音の世界では考える事しかしなかった。そのお陰で、高校の勉強は非常にはかどり、定期テストも今まで取ったことのないような優秀な成績を収めた。
繰り返す季節に、体の細胞一つ一つが敏感になった。梅雨の土臭い雨の匂いや、厭らしい暑さ、しつこい湿気に、残された記憶が襲われた。
無理矢理、脳裏に映像が投影された。必死になって見なければ、事の顛末が分からないという具合の出来の悪い自主製作の無音映画だ。僕はその再生を礼儀として受け入れた。目を閉じるとパタリと世界は無くなった。暗闇には、誰にも分らない美しさがあった。
通信の高校は、定期的なスクーリングに出席するだけでよかった。耳が聞こえない状態の外出にも随分と慣れていた。スクーリングの日には、弁当箱と水筒が用意されていた。母は僕の予定を忘れることもないし、間違えもしない。
入学と同時に、大きな黒いリュックを買ってもらっていた。両手が自由になる方がいいだろう、という母の気遣いだった。僕は、肩に掛けるタイプのカバンが欲しかったのだが、そんな我儘は言えなかった。大した荷物もなく、大きく空間の空いたリュックに弁当と水筒を入れ家を出た。たまに家から出ると眩しくて目が痛んだ。厳しい日差しから、出来るだけ逃れながら駅まで歩いた。
学校は小さな二階建てで、入り口の横に大きな看板が立てられていた。そこはまるで学校なんて雰囲気はなく、恐らく塾のような感じなのだろうと、塾に通ったことはないが、そんな気がしていた。
建物の中は、いくつかの部屋で分けられていて、数十名の生徒が集まっていた。そこでも僕は一人だった。他の生徒も、特に交流をしたいと思ってはいないようだった。
僕の耳の事を、教師が公言する事もしなかった。あてられて、答えるような授業ではなく、ただ座っていれば終わった。しかし教師は僕のために、別の資料を作ってくれていた。それは丁寧に細かく補足されていて、とてもありがたいものだった。教師に感謝したのは、恐らくそれが初めてだったような気がする。居心地が良かった。こんなにも淡泊で優しい場所があるとは知らなかった。
スクーリングが終わると、ほとんどの生徒はさっさと教室から出て帰っていった。僕も同じように足早にそこを去って駅に向かった。学校から出れば向かう方向は皆バラバラだ。
改札を通り過ぎ、駅のホームに上がる。慣れれば耳が聞こえなくても何も問題はなかった。耳の代わりに、僕の視線は忙しい。四方を確認しながら階段を上がるし、電車がホームに入ってくるタイミングにも注意をする。同時に前後左右にどれだけ人がいるかも把握していたし、電車から出てくる人にも邪魔にならない様に常に隅に立った。それなのに、前を見ずに歩き勝手にぶつかってくる人間は居たし、どんなに隅に立っていても足を踏まれたりした。
真っ白なスニーカーのつま先を踏みつけられ、一部分が黒く汚れた時に生まれた憎しみは、いつか感じた、あの憎しみにも似ていた。
肩を叩かれた。振り返ると、スクーリングで横に座っていた男子生徒だった。彼は振り返った僕の顔を見ると、少し笑って、手のひらくらいのノートを開いて僕に見せた。
【同じクラスの戸谷です。吉井君だよね? 君は喋れないの? それとも、耳が聞こえないの? 】
ひどくストレートな発言だった。彼は、僕の過去を知らない。
外出する時は、僕も同じようなノートを持ち歩き、筆記で会話をしていた。それを鞄から取り出し、返事を書いた。
【はい、吉井です。僕は耳が聞こえません。そのため、話すことができません】
僕の返事をゆっくりと読み、ノートに書いて見せた。
【生まれた時から?】
僕は慌てて返事を書いた。
【小学校の頃から】
それからしばらく、僕たちは静かに会話をした。
【実は、僕の妹も耳が聞こえないんだ。生まれた時から】
【そうなんですか】
【まだ小学生なんだけど、手話がなかなか覚えられなくて、もし吉井君が手話ができるなら、妹に教えてもらえないかと思って】
【僕の耳は、精神的な事から聞こえなくなっているんです。いつか治るかもしれないって言われてて。だから手話の勉強もしていません】
【そうだったんだ。ごめん】
【こちらこそ、力になれなくて】
【呼び止めて悪かったね。またスクーリングで。そのリュックいいね。気を付けて】
戸谷君は、僕よりも少し年上に見えた。その立ち居振る舞いには、僕にはない余裕があったからだ。
細身の体に、ゆったりとした黒いTシャツ、ぴったりとしたズボン。真っ白なバッグを肩に掛け、足元は真っ黒の革靴を履いていて、とても素敵な青年だった。
戸谷君は、反対ホームに来た電車に乗っていった。視線だけで見送る僕に、彼は軽く手を振った。僕は何もせずに戸谷くんを見ていただけだった。
電車を降り駅から出ると、日差しは強かった。小学生の頃より痩せていた僕は、すっかり汗をかかなくなっていた。持っていた水筒の蓋を開けて飲んだ。
深く息を吸ってから、僕は歩き出した。
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