第39話 表明
「おはよう」
「蓮…おはよう……」
いつもの道場にいる二人は袴姿だ。早朝から練習を以前のように行なっていたが、遥は部活の朝練がある為、蓮だけが道場に残る事となった。
黙々と矢を射ると、時間はすぐに過ぎ去っていくのだ。
「遥、また明日な」
「うん!」
明日は土曜日の為、久しぶりのデートなのだ。嬉しそうにする彼女は、冬服になった制服に着替えると、彼に手を振り、道場を後にするのだった。
放課後はいつものように弓道場で練習の日々だ。ここ数日、実践練習にいつも以上に気合が入っているのは、来週には高校新人地区兼県選手権予選が行われるからだ。遥たち二年生が、この大会に出場できる機会は今年で最後となる為、いつも以上に覇気のある上級生に、一年生も納得の様子だ。そんな中、部長だけはいつもと変わらない弦音を響かせ、皆中していた。
ーー最後……。
部活をしてれば、何でも最後の大会がある。
でも…早いな……。
彼女はいつもと変わらない横顔だが、その胸中はもっと、ずっと引いていたいと願っていたのだ。
団体戦地区大会では、男子は二十射十二中以上、女子は十中以上のチームが更に翌週の県大会へ出場ができる。また個人戦では男子八射五中以上、女子は四中以上の者が、同じく県大会出場となるのだ。来週に控える大会の結果によって、より多く矢を射る事が出来るか変わってくるのである。
「今日はここまで。ストレッチして解散な」
「はい!」
一吹の指示に従う彼らは、大会を心待ちにしているようだ。この一年で、彼らの心もかなり鍛えられていたのだ。大会前の硬い表情が、微かに減った事が良い例である。
「来週か。待ち遠しいなー」
「だな!」
「そうだねー」
次々と口にする彼らの言葉に、一吹だけでなく、藤澤も期待を寄せていたのだ。
うーん……変じゃないかな?
姿見の前では、遥がチェック柄のスカートにデニムのジャケットを羽織っている。
いつも蓮と会う時は、制服や袴姿が多いから……せめて、デートの時くらい可愛いって思われたい。
彼女なりの乙女心であるが、待ち合わせの時間になる為、元気よく家を出ると、遥に気づいた彼が手を振っていた。蓮もパーカーに、デニムのジャケットを羽織っている。彼女が駆け寄ると、嬉しそうな表情を浮かべていた。夏休み以来の待ち合わせデートだからだ。
「蓮、お待たせ」
「ん、遥。おはよう」
「おはよう」
蓮が彼女の手を取ると、二人はそのまま歩いていくのだった。
「蓮! 次は、あれ乗ろう?」
「うん!」
遥が彼の手を引いて、乗り物に率先して並んでいく。二人は遊園地に来ていたのだ。
何をしていても、彼といれば楽しいのだろう。遥は終始笑顔を見せている。隣にいる蓮もまた同様だ。長蛇の列に並ぶ間も、二人の話が尽きる事はなく、飲み物を片手に話をしている。
「十一月になるから、早いな」
「そうだね。県大会にみんなで出場したいな……」
「楽しみだな。遥の射が見れるの」
「うん……。残りたい」
「あぁー」
甘い雰囲気はあるが、会話の内容は現実的な弓道の話が
「蓮……。今日は誘ってくれて、ありがとう」
「ん、楽しいな?」
「うん!」
フリーパスの為、次々と乗り物に乗っていく。彼の受験が佳境になる前の、息抜きでもあったのだ。
「遥、次あれ乗るか?」
「うん!」
二人の前には、急な角度で落下する絶叫系のコースターがあるが、そこも意気投合しているのだった。
「そろそろ締めだな」
「そうだね」
二人にとって、遊園地の締めと言えば観覧車なのだ。今日は隣に並んでではなく、向かい合って座っていた。
ーー早い……。
一日があっという間に感じる。
二人の乗った観覧車は、ゆっくりと頂上へ差しかかろうとしている。
「遥……」
「うん?」
「ーー俺は…
「ーーうん……」
遥は小さく頷いて応えていた。
みっちゃんが東京に行くと決めた時から、こうなる事は分かってた。
今よりも、より良い環境で弓を引く為の選択。
蓮が私の背中を押してくれるように、私も押してあげられるような人になりたいって……。
「……応援してるよ」
「ーーありがとう……」
優しく微笑む彼女を蓮は抱きしめていた。急に動いた為、ゴンドラが揺れているが、彼女は気づいていなかった。彼の心音だけが聞こえていたからだ。
ーー私だけじゃないんだ……。
何かを決断した時、選択した時、これが今の最善だと分かってはいても、迷う時がある。
私はそうだった……。
彼の早く鳴る音に、遥は瞳を閉じると、背中を優しく包み込んでいた。
「蓮なら……大丈夫」
「うん…遥……」
彼女の頬に触れる手に、遥は手を重ねていた。
避けては通れない道。
どんなに想っていても、一つの差は変わらない。
どんなに一緒にいたいって…想っていても……。
潤んだ瞳で彼を見つめていたのだろう。蓮は頬に触れたまま、彼女に唇を寄せていた。頬を桜色に染めた遥は、深くなる口づけに応えていく。甘い二人の密室の空間は、観覧車が終わりに差しかかるに連れて、離れていった。それは、まるで今の二人のようだ。
「ーー遥……また出かけような?」
「……うん」
一瞬驚いた表情を浮かべた遥は、頬が桜色に染まったまま、嬉しそうに応えている。
「蓮…ありがとう……」
「ん、頑張るから……。遥もな?」
「うん!」
すべて言わなくても彼女には、分かっていたのだ。彼が受験を頑張ると言ったこと。そして、大会を頑張れと、背中を押してくれていたことを。
ーー頑張る……。
少しでも長く、弓が引けるように。
少しでも……蓮に近づけるように……。
隣を歩く彼は、彼女の視線に気づき、微笑みを返している。今度は、切なさを滲ませながらも口にしていた。
「ーー蓮…追いかけるから……」
「あぁー……」
夕暮れ時の二人の影は伸び、アスファルトには二人が一つになった影が映し出されているのだった。
いつもの道場に、二人の弦音が響いている。遥は大会前の最終調整を行なっていた。心地よい彼の音を前に、気持ちが整っていく。
「遥、気をつけてな」
「うん……。蓮……」
袴姿に学校のジャージを羽織った遥は、彼の右手を握っている。離れがたいのだろう。彼女の想いが分かったのか、蓮は右手を自分の方へ引き寄せていた。
「ーーっ!」
「……遥」
耳元で囁かれた柔らかな声に、彼女の頬が赤く染まっていく。
「ーー蓮……。ありがとう……」
彼の肩に額を寄せた遥は、同じように彼を抱きしめていた。
「……いってきます」
「いってらっしゃい」
蓮に手を振り、彼女は大会のある会場へ向かうのだった。
東部地区大会は男女別の会場で行われる為、今までと同じく男子に一吹が、女子に藤澤が付き添っている。
遥は胸の高鳴りを落ち着かせるように深呼吸を整えると、秋晴れの空を見上げていた。
団体戦は一人四射、一チーム二十射で競うのだ。
「……楽しみだね」
「うん!!」
独特の緊張感に包まれる中、そう告げた遥に、チームメイトは笑顔で応えていた。このチームで戦う機会、特に遥たち二年生にとっては、残り一年を切っていたのだ。
十二射十中以上で、来週の県大会に出場が出来る。
今年も出れるように……。
遥は一射目から萎縮することなく、矢を放っている。伸び合いのある
「ーー綺麗……」
「藤澤先生……。どうしたら……部長みたいな射が出来るようになりますか?」
「そうですね……。毎日、弓に触れる事ですかね。弓道には、正射必中という言葉があります。これは正しい射法で射られた矢は、必ず中るという意味です。それを体現しているからだと……私は、思いますね」
「正射必中……」
「次は皆さんの番ですよ。いつも通りを心がけて下さいね」
「はい!」
道場では清澄高等学校Aチームが二十射十三中し、翌週の県大会への出場を決めていたのだ。藤澤の元で彼女達の射を見ていたBチームである一年生、五人は自分達の出番に緊張感が増していくのだった。
大前から順に、平野、落合、井上、小林、増田と五人は並んでいる。Aチーム唯一の一年生である加茂は、彼女達の射を自分自身が放つかのように、緊張した面持ちで見つめていた。そして、遥もまた彼女達の射を静かに見守っていたのだ。
ーーみんな…頑張って……。
練習通り引ければ、
女子は二十射十中以上で、県大会に出場可能な為、半分以上が中る事が条件なのだが、それは初心者もいる一年生にとっては難しい条件である。
彼女達が静かに見守る中、矢が放たれていく。落ちの増田を残して、八射中っていた。
最後まで、放って……。
遥の想い通り、増田の矢は的に中っているが、二十射九中の為、地区大会止まりとなっている。彼女は入部してたての弓道部を思い返していたのだ。
ーーあの時とは違う……。
団体を一チーム組むのもやっとだった。
少人数だった清澄高等学校弓道部は、この一年で二チーム出場が叶うくらいまで、部員が増えたのだ。彼女にとって結果は、過程であり、中りを求めてはいない。その為、出場する事に意義があると感じていたのだ。加茂が自分の事のように気落ちする隣で、遥はやり切ったであろう彼女たちに温かな視線を向けているのだった。
女子弓道部Aチームが県大会へ出場を決めた頃、男子の団体も佳境にいた。副部長の翔率いるAチームが十三射で女子と同じく県大会出場を決めると、一吹と共にBチームの射を見守っていた。
大前から順に石田、宮崎、曽根、杉山、渡辺と、矢を放っていく。高校から弓道を初めた者が殆どの中、二十射十中していた。男子は二十射十二中でないと県大会へ進めない為、女子と同じくここまでだが、彼らがいつもと同じように挑めた事に、一吹は弓道部が強くなっている事を実感していたのだ。
「ーー頑張ったな……」
「あぁー」
陵の言葉に頷いた翔は、羽分けを出すだけでも難しい事を分かっている為、納得の様子だ。他のメンバーも初めて大会に出た時の事を思い返していたのだろう。皆、頷いた様子で、彼らの的を眺めていたのだ。
バイブ音がなり、翔が携帯電話を見ると、弓道部のグループラインには、女子の結果が載っていた。男子と同じくAチームのみの県大会進出だが、二年生にとっては最後の大会となる為、女子の進出を喜ぶ彼らが居るのだった。
「男子もAチームは、決勝進出だって!」
「来年は新しいチームが全員、大会に進めるといいですね」
「はい!!」
藤澤の言葉に微笑んで応える彼女達は、来年は部長である遥を含め、二年生がいない事を改めて知ったようだ。二年生が順当に県大会進出を決める中、加茂を含め、一年生は遥の射を一つも逃す事なく、見つめていた。個人において全国大会二連覇を果たしている為、他校生も彼女の射を眺めている者がいるのだ。ギャラリーが多い中でも、彼女の動作は何一つ変わっていないと言えるだろう。心地よい弦音を響かせ、八射皆中を決めていたのは、彼女だけだったのだ。
「ーー遥は、やっぱり凄いね……」
「美樹、改めてどうしたの?」
「……うん。あんな風に射る事が出来たらなぁーって、思って」
「そうだね。遥は何一つ変わってないよね」
一年の頃から、彼女の的中率は変わってはいないのだ。八射皆中する事が当たり前の彼女の射は、いつも気持ちも整っているように、彼女達の目には映っているのだった。
東部地区の団体女子二十二チーム、男子十六チーム、個人は女子七十名、男子三十八名が、翌週に行われる県大会出場を決める中、風颯学園のある中部地区では村松率いるAチームだけでなく、Bチーム、Cチームと、県大会へ進出を決めていた。
「来週だな」
「だな!」
世代交代は上手くいっているのだろう。風颯学園は、強豪校の名に相応しい活躍をしていたのだ。
後輩からのメッセージに、蓮は机に向かっていたが一息入れるように伸びをしている。村松達の頑張りに、自分自身も身の引き締まるような想いを抱いていたのだろう。再び机に向かい、気持ちを整えていく蓮がいるのだった。
君と歩いた季節 川野りこ @riko_kawano
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