ハイオク人魚

柴山ハチ

ハイオク人魚

 あの夏、ハイオクで僕は人魚を飼っていた。

 ハイオクというのは街はずれにある廃ビルのことだ。まだ幼かったころ廃屋の意味も分からず、ただ親がそう言うように自然と『ハイオク』と音で覚えてその建物を呼んでいた。十歳になる頃には廃屋の意味を知っていたが、僕の中では依然としてそこがハイオクという名の聖域であることに変わりはなかった。

 

 台風がコンクリートに覆われた町に襲来し、その暴風と大雨で蹂躙し尽くし去って行った後、残されたのはぬかるんだ地面と早めに訪れた夏休みの知らせだった。

 どうやら築年数が限界に達していた校舎が嵐に耐え切れず、一部倒壊したらしい。ちょうど夏休み前だったということもあって、足りない授業数は終盤の休みを繰り上げて消化してしまおうという算段だと担任教師が話をした。

「というわけで、明日から前倒しで夏休みになる。宿題は全員手元に渡ったか? じゃあ解散」

 担任が教室から出ていくと、皆は口々に早めに訪れた夏休について話しながら、宿題やら置きっぱなしにしていた教科書を鞄に詰め込んだ。これからクラスメイトの大半はいっぱいになったカバンを背負い、苦行僧のようにその重みに耐えながら帰途につくのだろう。

 僕はじわじわと夏休みに向けて荷物の持ち帰りをしていたので、宿題と返却物だけを詰め込んだランドセルはいつもより軽かった。その軽さが心の余裕を生み、お気に入りの隠れ家へと足を向けさせた。

 嵐の後だ。きっとハイオクには湖ができているだろう。

 ハイオクと呼んでいるその建物は街から外れた山の手前にあり、僕の家の近所でもある。朽ち果てた打ちっぱなしのコンクリートに蔦の葉が絡みつき、今にも崩れ落ちそうな風貌のビルだ。

 数年前に友達と足を踏み入れて以来、秘密の隠れ家として使っている。友達は飽きてしまったようだが、自分にとってなくてはならない場所だった。子どもにとっての日常とは、学校と家の往復だけが続く閉じた世界のことだ。一人になれる場所くらいは確保しないと大人になる前に気が狂ってしまう。

 だがその老朽化した建物は安全とは言い難く、親に知られれば即刻立ち入りを禁止されることは間違いない。ハイオクは三階建てなのだが、何があったのか屋上から地下一階の床に至るまで、大きな穴が縦に並んで穿たれていた。地下一階部分の床が抜けた下には深いくぼみができており、普段はからからに乾いているが大雨の後は水が溜まり、ちょっとした湖のようになる。

 周囲を囲っているフェンスの破れた部分をくぐり、ガラスのはまっていない窓から先にランドセルを中へ落とした。窓枠をよじ登って飛び降り、音を立ててコンクリの床に着地した。そこからはまっすぐ廊下を進むだけだ。

 一階から地下一階への階段を降りて目的の地下室までたどり着いた。抜けた天井の穴から差し込む日の光が地底の湖を照らしている。むき出しになっていた床はすっかり水に飲み込まれてしまっていた。大きな本棚が斜めに倒れ、半分ほどが水面に顔を出している。あらかじめ階段の踊り場に引き上げておいた机と椅子は無事だ。

 空気の流れがかすかに水面の波を波立たせる。その波が光を反射して壁に波紋を映し出していた。

 ランドセルには学校の図書室で借りた本と水筒のお茶、来る途中にコンビニで買った菓子パンが入っている。湿った空気を吸い込み、僕は踊り場に置いた椅子に木のささくれが刺さらないよう用心しながら座った。ここからなら地下の湖が見渡せる。ランドセルを地面に置き、机の上で本を広げて文字を追っていく。


 ちゃぷん、という何かを放り込んだかのような水音を聞いた時、僕はさほど気にしてはいなかった。この建物は古い。もろくなっているコンクリートがはがれ落ちるのはよくあることだ。しかし二回、三回と続き、とうとう誰かの声のようなものを聞いた時、いままで追っていた文字列の中から顔を上げた。

 空耳か? でも万一他に人がいるのなら、こんな人気のない場所で出くわすのはまずいだろう。

 水音の源である地下の湖を覗き見る。しばらく何も見えなかったが、そこには一瞬、大きな魚の尻尾のようなものが現れた。瞬きしている間に波紋とかすかな水音を立ててそれは水中に消えた。いくらここに水場があるとはいえ、街中の廃墟である。海の近くならまだしも、こんなところにこんな大きな魚がいるなんて聞いたことがない。

 僕は踊り場から階段を降りていった。水没しているため床まで降りることはできないが、水面を近くで観察することはできた。

 やはり見間違いではない、濁った水の中に尻尾がゆらめくのが見えた。あの様子では全長一、二メートルくらいあるかもしれない。期待に胸を膨らませながら魚が水面に姿を現すのを待った。

数秒の後、水面に水草のようなものがぱっと広がった。驚いて後ずさると、ザバリと音をたてながらその水草の主が姿を現した。

 それは一人の少女だった。深緑の髪を頬に張り付かせて、日の光を受けて光る黄緑の瞳で僕を見ていた。視線をこちらに向けたまま、ゆっくりと水上に出ていた本棚の上に上半身を乗り出していく。水中から現れた少女は衣服の類を何も身に着けていなかった。

「ごめん、泳いでいるなんて知らなくて」

 見てはいけないものを直視してしまった罪悪感からとっさに謝ってしまった。でも冷静に考えれば、裸でこんなところを泳ぐ方がどうかしている。

それでも見知らぬ少女への一応の礼儀として目をそらそうとした時、少女のへそのあたりから下に広がる濡れた鱗と魚のように先端が割れた尻尾に気がついた。少女の下半身から視線が離せない。本で見たことはあったが、実物を見るのは初めてだ。

「君、人魚なの」

 もしかして特殊メイクかコスプレか何かだろうか。でも生々しい質感はどう見ても魚そのもので、とても作り物だとは思えない。それに皮膚と鱗の境目にある白く盛り上がった線、あれは傷跡だろうか。腰のあたりをぐるりと一周しているように見える。

こういう場合どこに連絡すればよかったっけ。テレビ局か保健所か。きっと皆が騒ぎ立てることだろう。

少女は僕の言葉が通じていないのか、あいかわらず黄緑の瞳でこちらを見ている。年があまり変わらないように見えるがその表情は無防備で幼くも見えた。

「き、にぎょ」

 僕が言った言葉をそのまま返そうとしているのか、たどたどしい口調でその人魚は喋った。どうやら意思の疎通を図るのは難しいらしい。それでもこちらの言葉を聞き取って反応を返してきたのは確かだ。水面ぎりぎりまで階段を下りて人魚に近づいた。

「しょうた」

 試しに自分を指さしてそう言った。

「しょーた」

 舌足らずであるが、人魚もそれに応える。大きな目を見開く様はまるで子犬のようだ。

「まってて、いいものあげる」

 僕は階段を駆け上がってランドセルの元まで急ぎ、菓子パンの袋を取り出した。ビニールを破いて中のパンを手に取ると、人魚の元まで駆け足で戻る。人魚はおとなしく本棚に腰かけ、パシャパシャと水にひれを打ち付けて水しぶきを飛ばしていた。

「ほら」

 放ったパンはうまく人魚の横に着地した。急に物を投げられ人魚は身をビクリと震わせたが、恐る恐るそれを触り、害のないものらしいと分かると手に掴んだ。しかしそれを口に入れることはなく、ぽんと水面に放った。水面に浮かんだパンに、人魚は足先についたひれでバシャバシャと水をかける。やがて水を吸い込んで重くなったパンは緑色に濁った水の中へ沈んでいった。

おなかは空いてないのか。がっかりしたが、食べないものは仕方がない。

 その時、ゴロゴロという雷の音が聞こえた。今度は台風ではなく、普通の夕雨立ちだ。差し込んでいる光はそのままに、ぽつ、ぽつと音を立て、雨水がぽっかりと空いた天井から降り注ぎ始めた。こういう天気を狐の嫁入りというのだったか。雨は急に勢いを増したが空は明るいままで、人魚は本棚に座ったまま上を見ている。雨水は既に濡れていた彼女の白い肢体を伝い落ちていった。

 しばらくその光景を眺めているうちに、雨の勢いが落ちてきた。そういえば、今日は傘を持ってきていないんだった。雨足が弱まっているうちに帰った方がいいかもしれない。

「また来るよ」

 そう声をかけたが、彼女はもう僕に対して興味を失ってしまったようだ。ちゃぽんと音を立てて水の中にするりと滑り込む。後には広がる波紋だけが残されていた。


 結局彼女のことは誰にも話さなかった。次の日もまた次の日も、僕は彼女に会うためにハイオクに通い詰めた。

 彼女の上半身は人型だ。でも首の両側に入った赤い切れ込みは魚のえらのようにも見える。実際水中でも呼吸ができるらしく、陸に上がらずに水中で泳ぎまわっているだけの日もあった。そんな時は暇を持て余しながら持ってきた本や漫画を読んだり、上から差し込む日の光が水面で揺らぐのを眺めながら過ごした。

 僕に対する彼女の振る舞いは気まぐれで、呼び声に反応して近づいてくることもあれば、自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っていたり、どこかから飛ばされてきたであろう帽子を相手に戯れ、一人遊びに熱中していることもあった。

 相手をしてくれる日には根気強く話しかけてみると、反復するかのように単語らしきものを口にすることはあった。会話ができるほどではなかったが、なんとか繰り返し教えるうちに呼び名だけは口に出してくれるようになった。それからというもの、人魚が暇を持て余して僕を呼びつけたいときは『しょーた』と舌足らずな声で呼ぶようになった。

「名前をつけないといけないな」

 きょとんとした顔で人魚は首を傾げたまま僕を見る。言っていることはわからないが、僕が人魚に話しかけていること自体はわかっているらしい。

「カンランでいい?」

 そう言うと人魚は瞬きをした。その瞳の黄緑色は理科の教科書に載っていたカンラン石そっくりで、声に出してみると音の響きも似合っている気がした。

「カンラン」

 カンランはぴしゃりとひれで水面をたたいた。水しぶきが日の光を反射して白く舞う。


 偶然コンビニで買った唐揚げを食べていたある日。カンランは本棚に上がったまま微動だにせず、こちらをじっと見ていた。

「これ、欲しいのか?」

 返事はない。けれどカンランは大きな目を見開いて瞬き一つしない。

 試しに一つ投げ渡してみた。彼女は器用に空中で食いつき、一口でぺろりと平らげてしまった。そして水に飛び込むとお代わりを要求するように水辺に立った僕の足元まで近づいてきた。

「気に入ったのか」

 カンランは白い手を伸ばして、期待にこもった目で僕を見ていた。こんなに近くまで近づいてきたのは初めてだ。結局カンランのおねだりに負けて、残りの唐揚げも一つずつ手渡すうちに全部なくなってしまった。

その次の日から、僕はハイオクに行くたびに唐揚げを持参するようになった。そのおかげでカンランは僕のことを『おいしいものをくれる人』として認識したらしい。この数日で、カンランは名前を呼ぶと寄ってくるようになった。

「カンラン」

 声をかけるとカンランは水の中から顔を出し、僕の方へ軽やかに泳いで近づいた。伸ばされた手にはいつものように、一つずつ唐揚げを載せていく。

「喉に詰めるなよ」

 がつがつと食いつくカンランに最後の一つを渡した。それをほおばった後も、なぜかカンランは僕の傍を離れようとしない。

「もうないって」

 カンランは大きな目で僕を見上げる。僕は手をのばしてそっとカンランの髪に触れた。濡れた深緑色の髪を指で梳くとカンランはくすぐったそうに身をよじり、声を上げて笑った。


『なぁ翔太、前話してたゲーム、クリアするの手伝って』

幼馴染のケンヤからそんな電話がかかってきたのは夏休みが終わる頃だった。

『難しいって聞いてたけど本気で難しい』

「実況動画でも見れば」

 僕はちょうどハイオクに向かおうとしていたところだったのに、邪魔をされたせいで苛立っていた。

『見るだけで出来たら苦労しない。頼む』

「用事あるから」

『お前最近付き合い悪くない? この前遊びに行こうっていった時も断ったしさ』

 ケンヤは不機嫌そうな声でそう言った。携帯にメッセージが送られてきていたことは知っていたが、カンランに夢中になっていた僕は面倒になって放置してしまっていた。そういえば偶然街中で出会った時に遊びに誘われたのも断っていたんだっけ。

「他の奴、誘えばいいだろ」

『お前が一番ゲームは上手い』

「ムリ」

 即答するとケンヤはため息をついた。

『わかった。俺がお前の用事に付き合う』

「なんでそうなるんだよ」

『お前塾も何にも行ってないだろ。用事って何なんだよ』

 しばらく人魚のことを話そうかどうしようかを考えた。この秘密を独り占めしておきたい気持ちもある。けれど追及を逃れるには本当のことを話してしまうのが一番簡単だ。長い付き合いの中で、好奇心に突き動かされたときのケンヤのしつこさは知っている。その追求に付きまとわれることのわずらわしさを考えると、秘密にしておきたい気持ちより面倒臭さの方が勝った。

「わかった。今からハイオクに来いよ」

 ハイオクでは昔、ケンヤと秘密基地を作っていた。数年たった今でも『ハイオク』という呼称は通じるだろうか。

「ハイオク? あんなとこで何してんの」

 どうやらケンヤはハイオクのことを覚えていたらしい。

「秘密」

「怪しいな? まぁいっか。今からいく」

ケンヤは電話を切った。カンランを見て、ケンヤは一体どんな顔をするだろう。


 ハイオクの前に着くと既にケンヤがいた。乗ってきた自転車を停めてフェンスにチェーンを巻きつけている。

「早いな」

「いやだってそりゃ、気になるし」

 ケンヤはロックをかけて立ち上がるとフェンスの破れた方に歩き出した。

「懐かしいな、ここ来るの。段ボールで秘密基地作ろうとして挫折したんだよな」

「お前が先に脱落したんだろ」

「そうだっけ? 俺、根気いる作業向いてなくて」

 ケンヤはきょろきょろと周囲を見渡している。

「入り口はこっち」

 ケンヤをガラスのはまっていない窓に案内した。ケンヤは窓枠に手を突くと、軽々と飛び越え中に着地した。自分も後から続いて中に入ると、既にケンヤは立ち上がり、廊下の向こうを見ていた。

「そういえば作りかけの段ボール基地、結局最後はお前が引き取ったけどあれからどうしたの?」

 ケンヤは思い出したかのようにそう言って振り返った。

「飽きて捨てた」

「お前も根気ないじゃん」

「お前よりかはある」

「で、ここに来る用事って何なの。何もないけど」

「地下に湖ができててさ」

「湖?」

「地下室の床に穴が空いてただろ。この前の台風で浸水したんだ」

「それ見るために通ってんの? 物好きな奴」

 ケンヤはそう言いながらも気になるらしく、こっちだったよなとつぶやきながら地下への階段にいそいそと近づいた。カンランの説明は実物を見てからでいいだろう。人魚が実在するなんて、話を聞いただけで信じてもらえるものだとは思えない。

 二人分の足音がコンクリートに反響する。それ以外には何も聞こえず静まり返っていた。前を歩くケンヤが角を曲がり、階段を下りていくタンタンという規則的な足音が聞こえた。

「なんだお前」

 ケンヤの声が聞こえた。僕も角を曲がって階段の上に立った。振り返ったケンヤは不思議そうな顔をしていた。

「何もないじゃん」

「え?」

 慌てて階段を駆け下りる。白い日の光にさらされていたのは干上がった地下室と朽ち果てた家具だけだった。穴の底に少し水が残っていたが、あんなに満ちていた水がすっかり抜けてしまっている。最初にカンランが座っていた本棚は完全に横倒しになっており、肝心の彼女の姿はない。

「枯れちゃったのか、残念」

 ケンヤは頭を掻きながら階段を上がっていった。

「帰りにコンビニでアイスでも食おうぜ」

 僕は声を出すこともできず、ただ乾いて泥のこびりついた地面に立ち尽くしていた。何か彼女の痕跡の一つでも残っていないかと目を凝らしたが、そこにあるのは朽ちかけた家具とひび割れたコンクリートの床だけだった。


 次の日の夕方、ハイオクの階段に腰を下ろして何もなくなった地下室を眺めていた。ひょっとして夢だったのではないかと思うほど、池や彼女の痕跡がなくなってしまった空間はがらんとしていて、前よりも広く見えた。赤い夕陽に照らされていた地下室は徐々に薄暗くなっていく。

 いつの間にか眠りかけていたらしい。うなだれて壁によりかかっていたが、コツコツという靴音が聞こえて我に返った。子どもの足音ではなさそうだ。

 慌てて斜め掛けのバッグを肩にかけ立ち上がったが、足音の主が現れる方が早かった。長身の男がシャツを羽織り半ズボンにサンダルを引っかけた格好で現れた。その男は廃墟に忍び込んだ子どもを叱り飛ばすようなタイプには見えないが、どんよりとした暗い目には得体の知れない不気味さがあった。

「ん? 子どもがこんな場所で遊んだら危ないぞ」

 男は身をこわばらせていた僕の横を素通りしていった。そのまま階段を下り、腰をまげてしきりに地面に目を凝らしている。

「なにか探しているんですか」

 逃げることも忘れて思わず声をかけてしまった。一瞬怪しい人物に自分から絡んでしまったことを後悔したが、男は目線も上げずに応えた。

「あぁ、落とし物してな」

 そして急にしゃがみ込むと何かを拾い上げた。

「あったあった」

 その手には何か白く光るものがつままれていた。それを大事そうによれた半ズボンのポケットにしまう。

「お前も早く帰れよ」

 男は階段を上ってくる。さっき拾ったものは何だったんだろう。落とし物をしたということは、この男は少なくとも一度ここに来ているはずだ。もしかしたら、こいつはカンランについて何か知っているかもしれない。

僕は通り過ぎようとする男の服の裾をつかんだ。

「ん?」 

 怪訝そうに見下ろす男の視線に緊張しながら、一抹の望みをかけて問いかけた。

「ここに居た人魚を、知りませんか」

 男は二、三度瞬きをしてから、困ったように笑った。浅黒い顔の目じりにしわが寄る。

「見たのか」

 男はしばらく何か考えている風だったが頷くと、僕の肩に手を乗せた。

「もう一回人魚、見たいか」

 カンランに会えるのだろうか。僕が頷くと、男はついてこいとジェスチャーをしてから先を歩き出した。

男についていくと、ハイオクを出たところにバンが停めてあるのが見えた。窓ガラスはシートが張られているため暗くて中は見えない。その後ろを男は開けた。そこには大きな水槽が積まれており、中には人魚が入っていた。

「カンラン」

 思わず声を上げて駆け寄った。カンランは眠っているらしく、目を閉じて水槽の中で深緑の髪を広げながら漂っている。立ち尽くす僕の隣に男が並んだ。

「良い隠し場所だと思ったんだけどなぁ。見つかっちゃってたか」

 男は水槽のガラスを軽く叩いた。それでもカンランは全く起きる様子がない。

「どこに連れていくんですか?」

「人魚を売る店。この前の台風で店の水槽が壊れたから、修理が終わるまでここに隠しておこうと思ってな。でもまさか子どもに見つかるとは」

 店、ということはカンランは売られてしまうのだろうか。人魚の存在自体にはすっかり慣れてしまっていたが、売買するという発想は全くなかった。販売されて、しかも誰かがカンランを買うことができるという事実に僕は動揺した。

「この子、いくら?」

 カンランを手放したくない気持ちが抑えきれなかった。僕が買わないとほかのだれかに買われてしまうだろう。

「高い。子どもには買えないな。大人になったら売ってやる」

 男の言葉に肩を落とした。この時ほど自分が子どもであることを悔やんだことはない。

「わかりました。どこに行けば買えますか」

 相手にされないかと思ったが男は財布を取り出した。

「名刺やるよ。ここに連絡してくれ」

 そう言って財布から差し渡されたのは一枚の紙片だった。受け取ると厚手の紙に『深海人魚 店主 木村誠二』という文字と電話番号だけが書かれていた。

「さっきも言ったが人魚は高い。維持費も結構かかる。本当に飼いたいのか、大人になるまでによく考えろよ」

「この子、僕が大人になるまでとっておいてください」

「取り置き予約か? 気が早いな。どうせ買うなら他にもいるから選べばいいのに」

 どうやら木村の取り扱っている人魚はカンランだけではないらしい。

「この子がいいんです」

 木村は困ったように腕を組んで唸った。

「うーん、でもこいつには先約が入っててな」

 先約。やっぱり彼女は、他の人のものになってしまうのか。絶望的な気分でカンランの眠る姿を眺めた。

「人魚は人間と同じくらい生きるから、大人になってからこいつのオーナーに交渉するんだな」

「そんなことができるんですか」

 さっきまで沈んでいた心が希望で踊った。お金を稼ぐのは時間がかかるだろうけど、いくら高くても働いて貯めてみせる。その時うまく説得できれば譲ってもらえるかもしれない。

「顧客情報は秘密だから、誰がどれを買ったとか、そういうのは教えられない。でも人魚を飼ってるオーナーの同好会がある。そのへんから当たれば、こいつを飼ってるオーナーの手掛かりの一つくらいつかめるかもな」

 木村はそう言うと、水槽の脇に載せてあった布を取り上げて水槽を覆った。

「あと一つ忠告しておく。人魚は危ないから飼い方には気を付けろよ」

「どういうことですか?」

「肉食なんだ。油断してるとあっという間に手の一本や二本食われる」

 それでカンランは菓子パンには興味を示さず、唐揚げばかり食べていたのか。

「僕は大丈夫でした」

 カンランの頭を触ったときのことを思い出した。

「まぁ、凶暴になるかどうかは腹の減り具合とか、その時の気分によるからな。おい、後ろ下がってろ」

 言われた通り後ろに下がると、木村はバンの後部座席の扉を音を立てて下ろした。鉄の扉に僕とカンランの間を遮られ、完全に彼女とのつながりを絶たれた気がした。

「まって」

 木村は僕の頭に軽く手を置いた後、もう片方の手で車の前方の扉を開け、運転席に乗り込んだ。その扉も閉めてロックをかけ、窓を開いて一言短く声を掛けた。

「じゃあな。早く帰れよ」

 エンジンがかかり、車は砂利の音を立てながらアスファルトで舗装された道路へ出ていってしまった。角を曲がってその姿が消え去るまで、僕は車の走り去った方角を見つめていた。

 

 しばらくの間、カンランを失った喪失感で何も手がつかなかった。何をしていても彼女の姿を思い出してしまう。夢の中にまで彼女は現れた。あの夏の日の記憶を再生するかのように、地下の湖で遊ぶカンラン。そんな夢を見た翌朝は、意識の覚醒と共に薄れゆく彼女の存在感に焦燥し、その後は空虚な喪失感を味わった。

 居てもたってもいられなくなって、週末に名刺に書かれていた番号へ電話をした。木村は僕のことを覚えていて、カンランはもう売ってしまっていないが、他の人魚を見に店に来てみるかと誘った。僕はカンランとの唯一のつながりであるその店を訪れることにした。

 用事がないと絶対に訪れないような無名の駅で下車して、木村から聞いた道順のメモを頼りに歩いた。周囲は住宅街と工場が多い。何度か道に迷ってしまったが、ようやくメモに書き込んだ店らしきものを見つけることができた。広くて雑草の生えた敷地の周囲はフェンスで囲われていて、入り口には魚の絵が描かれた看板が針金で留めてあった。フェンスの奥に三階建ての建物が見える。ビニールハウスを建て増ししたかのような造りをしていて、台風が来たらあっという間に吹っ飛んでしまいそうだ。ビニールは不透明な黒で、外から中の様子を伺うことはできない。

 入り口を抜け、黒いビニールハウスの正面にたどり着く。扉は鍵が掛けられていて、インターホンが横についている。

「合言葉は?」

 インターホンのブザーを鳴らすと木村の声が聞こえた。

「赤い真珠」

 あらかじめ電話で聞いていた合言葉を声に出した。すると店の中から足音が聞こえ、扉が音を立てて開かれた。

「よく来たな。入ってくれ」

 木村に促されて店の中に足を踏み入れた。店内は暑く、むわっとした湿気がこもっている。鑑賞用の魚を売っている店に行ったことがあったが、そこと同じような生臭い匂いがした。

「人魚って、こんなにいるんだ」

 ずらりと並んだ水槽の中には人魚が一匹ずつ入っていた。カンランに容姿は似ているが、それぞれ顔形や体形は微妙に違う。

「業者から卸している。人魚は自然種じゃないからな」

「人が作ったんですか」

「人魚って、昔話やら何やらで憧れがあるだろ。どうしても欲しいってやつが一定数いるんだよ。それで何とか作れないかと試行錯誤した結果、できちまったのがこいつらだ」

 木村は手前の水槽をコツコツとたたいた。中にいた人魚がガラス面に顔を寄せてくる。

「はじめはもっと人に近かったらしいけどな。結局顧客の要望に合わせて知能を下げていったんだと」

「どうして」

 生き物なんて、賢いに越したことはないだろうに。

「ペットはバカな方が可愛いってさ」

 木村は寄ってきた人魚の顔を覗き込んだ。人魚は無垢な丸い眸で木村を見上げている。この人魚も横から見ると、人間の皮膚と鱗の境目に、カンランと同じで傷跡がぐるりと一周回っているのが見えた。最近できた傷には見えない。

 人魚はどうやって作られているんだろう。その疑問は乾いた口に張り付いたまま出てくることはなかった。

 僕の視線の方向を見た木村は、そんな心中を察したのか念を押すように言った。

「ここでのことは内緒にしておいてくれ。お前も人魚が飼えなくなるぞ」

「……分かりました」

「ジュースでも飲んでいくか? 二階でバーやってるから寄ってけよ。夜しか営業してないから客も居ない」

 木村は水槽の間を縫って奥へ歩き、二階への階段を上っていった。僕も後に続いたが、周りの人魚が気になって仕方がない。人魚の方は人間に関心がない様子だったが、カンランによく似たその姿を見ていると胸が締め付けられる思いだった。

 二階を上がったところには『深海倶楽部』と書かれた看板が立てかけられていた。人はだれも居なくて、奥にはカウンターとミラーボールがぶら下がった小さな舞台、数人掛けのソファ席がある。カウンターの裏には酒の瓶が並んでいて、実際に訪れたことはなかったが、たしかにテレビで見たことのあるようなバーの様相をしていた。

「ジンジャエールでいいか」

 カウンター席に座りながら頷くと、グラスに注がれた黄金色の炭酸飲料が出てきた。一口飲むとよく冷えていて、一階の熱気に蒸された身体に心地良かった。

「なんで客じゃないのに、こんなに良くしてくれるんですか」

 気になっていたことを聞いてみると、木村は自分もビール瓶を手に取り栓を開けながら答えた。

「非合法の商売で、おおっぴらに宣伝はできないから客は少ない。将来の顧客候補を囲い込んでおこうかと思ってな。もうちょっと大きくなったら、時々このバーに遊びに来いよ。人魚のオーナーが集まる場所だ。カンランの飼い主も来るかもしれん」


 それからは何度か店を訪れた。とはいえ小中学生の間は酒も飲めず大人たちの間に入っていくこともできなかったので、二階のバーには上がらず、ただ水槽の中の人魚を眺めるだけだった。木村は人魚の知能は低いと言っていたが、人魚たちをよく観察しているとそれぞれに性格があり、感情も持っていることが振る舞いから伝わってくる。時々、狭い水槽に閉じ込められていることに不満を示すような態度をとる人魚もいた。

 木村に手伝いを申し出て、餌やりをさせてもらったこともあった。人魚の餌は主に鶏肉の塊で、それを水槽に放り込んでやると人魚は嬉しそうにかじりついていた。カンランに唐揚げを食べさせていた時を思い出したが、不思議と他の人魚にはカンランほどの魅力を感じなかった。結局餌をやったのはその一度だけで、あとは人魚を眺めて反応を観察するだけの日が続いた。

 高校生になる頃には人魚についての知見も増え、それなりにオーナーたちの話についていけるようになっていたので深海倶楽部に顔を出すようになっていた。最初は客として訪れていたが、アルバイトを募集しているという木村の言葉に乗り、僕はバーテンとして働き始めた。給料は悪くないが、人魚を飼う額には到底足りない。それでもカンランに関する情報が手に入るかもしれないという期待に胸を膨らませていた。

 とはいえバーの実態は極めて退屈で、客は自分たちの飼う人魚の写真や動画を肴に自慢がてら、酒を片手に語り合うというものだ。しかし他の意味でもこのバーは人魚愛好家たちにとって欠かせない場所だ。人魚は不要な養分を結晶化したものを時々吐き出すのだがそれが真珠に似ているらしく、その真珠の売買がこのバーで開かれるオークションで行われていた。真珠の色は食べたものと生活環境やストレスによって変化するため、珍しい色のものは高値で取引される。ただ出品者に関しては極秘で、僕にもその情報は降りてきていなかった。

「次の品は緑の真珠。直径十二ミリの球体です」

 木村からオークションの司会を任され壇上に上がった僕は、バーの舞台の周囲に集まったオーナーたちに声を張り上げる。バイトを初めてから何度か司会を務めたおかげで要領はつかめてきていた。手元には今夜出品される商品とその詳細、それぞれの最低価格が記されたリストがあり、プロジェクターで商品の画像を映しながらその通りに進めていけばいいだけだ。

「百からスタートです」

 オーナーたちが手の形で値段のサインを送り、僕はそれに合わせて値段を釣り上げていく。結局その日出品された緑の真珠は二百万で売れた。

「お次は深紅の真珠。直径八ミリのバロックです」

 赤い真珠はとりわけ希少らしい。手元の商品リストには希少度が星五つを上限として書き込まれていたが、この真珠はその星五つに当たる商品だった。

 オーナーたちは壇上のスクリーンに投影された商品の写真と実物を見比べるように視線を巡らせている。ザクロの実のような赤い真珠は歪にねじれていて、表面の光沢はぬらりとした妖しい光を放っていた。

「五百からスタートです」

 最初から強気な価格設定だったが、見る見る間に値段は跳ね上がっていった。

「千」

 一人の客がサインを送りながら声を上げた。

「それ以上の方はいませんか?」

「千二百」

 もう一人の男が声を上げてサインを送る。

「他にはいらっしゃいませんか」

 数秒の沈黙が流れ、歪んだ赤い真珠は競り落とされた。


「これどう思う?」

 オークションの後、一人残っていた客にカウンター越しに声を掛けられた。その客はさっき競り落とした赤い真珠を指先でつまむように弄んでいる。

「珍しい形の赤ですね」

「あぁ、そうだな」

 客は低く笑った。

「君は赤い真珠の作り方を知っているかい」

「さぁ、僕は人魚を飼っていないので」

「特別な餌をやるんだ。それから人魚を痛めつけて、強いストレスを与える」

 淡々と語るその男は渡されたグラスの琥珀色の酒を舐めるように飲んでいた。

 人魚を故意に痛めつけて強いストレスを与える。そんな飼い方をする人間が居ることを考えなかったわけではない。けれどカウンターの上の歪んだ赤い真珠を見ていると、それがひどく生々しい実感を持って迫ってくるように思えてきた。脳裏に水槽の中で眠っていたカンランの姿が浮かぶ。非道な飼い主の元で、ひどい目に合っていないといいのだが。


 閉店後の片づけはいつもならすぐに終わる仕事だ。けれどカンランについて考えていたせいで手元がおろそかになり、グラスを一つ割ってしまった。その音を聞きつけた木村が控室から顔を出した。

「すみません、すぐ片づけます」

「グラス割るなんて珍しいな」

 木村はじろじろと僕の顔を見た。

「何か悩んでるのか」

「赤い真珠についての話を聞いたんです。人魚を痛めつけて作るって」

「あぁ、あれか」

 木村はカウンターの席に座り、煙草に火をつけて吸い込んだ。

「あんまり気にするな。結局人魚と人間は違う生き物だ」

「でもそれなりに知能はあるでしょう」

 水槽で飼われている人魚は、退屈そうな顔をしていた。感情がない生き物ではないし、閉じ込められていることを不満に思う程度の知能は持っている。

「それはイルカやクジラだって同じだ。他の動物もな」

「だからって、あんなことして許されるわけがない」

「まぁ、良い趣味じゃないわな」

 木村は遮るようにそう言うと、白煙を吐き出した。

「でもお前がそんなに肩入れするのは、人魚が人に近い見た目をしているからだろ。同じように見えても、やっぱりあいつらは獣だ。言葉が通じているように見えても、意思が通じているとは限らん」

 木村はカウンターの端に寄せてあった新聞を僕の方へ寄越した。大きな見出しで飼っていた熊に食べられてしまった飼い主の話が載っている。

「長年飼ってたんだが、襲われて骨しか残らなかったらしい」

「人魚は熊よりも賢いですよ」

「そうか? 結局違う生き物なんだから、心が通じあってるなんて考えるのは人間の勘違いだ」

 木村は煙草を灰皿でもみ消し、控室に入っていった。

違う種類の生き物同士だから心が通じ合うことはない。本当にそうだろうか。あの夏、僕と彼女は心が通じ合っていたように思う。でも十数年前のことだ。彼女はもう僕のことなんて覚えていないかもしれない。

 それでも僕はカンランの名前を呼ぶ声が忘れられなかった。


 木村とのやり取りから数か月が過ぎた夜、僕に念願のチャンスが回ってきた。

カウンターで一人の中年男性が隣の客に見せていた写真。そこに写っていたのは成長していたが間違いなくカンランの姿だった。けれど無表情で写真に写るカンランの身体には無数の青黒い打撲痕があった。

「良い人魚ですね」

 どう切り出すか迷う間もなく、気づけば反射的に口をはさんでいた。普段バーテンをしているとき、客から絡まれた場合は会話に参加するが、求められてもいないのに口を出すことはない。しかし注目され男は嬉しそうに歯をむき出して笑った。

「高かったでしょう?」

 会話を引き延ばして情報を得るために質問を投げた。

「幼魚のときに買ったから、そりゃ高い買い物だった。でもそれだけの価値はある」

そう言って男は赤い真珠を取り出した。

「こんなに赤い真珠は珍しいだろう。高値で売れるって聞いたんで何個か作ってオークションに出してたんだけど、そのおかげで購入額は取り戻せそうだ」

 以前危惧していた通り、カンランもろくな飼い主の元に引き取られなかったらしい。おそらくこの男はカンランを虐待している。

「またいくつかできたら、次のオークションに出そうかな」

あまつさえカンランの苦痛によって得た真珠を高値で売りさばいているのだ。

「綺麗ですね。以前聞いたところによると、特殊な製法が必要なのだとか?」

「そうなんだ。よく知っているね」

「僕も人魚が欲しくて。よければ色々聞かせてください」

 カンランのオーナーとはその後も何度かバーで話をした。オーナーはもっぱらカンランについて話し続け、僕はその聞き役に徹していた。とにかく秘密の趣味を誰かに話したくて仕方がなかったようだ。オーナーの話によると、人里離れた屋敷に地下屋を作った後、カンランのためにプールを堀って飼育しているらしい。家族にも知人にも、誰にも知られないように。

 自分の身分が店員であったことも幸いして信頼を得ることができたのだろう。とうとうオーナーがカンランを飼っているという別荘を訪れる約束まで取り付けることが出来た。

「君を招待したのは、店長さんには秘密にしておいてくれないか?」

 オーナーは少し後ろめたそうな顔をしてそう言った。

「あぁ、店員と客が外で連絡を取ることは社則で禁止されていましたね」

 木村に知られないことはこちらにとっても都合がいい。オーナーの言葉に頷いた。

「そうなんだ。電車も通っていない辺鄙な場所だから、車で迎えに行くよ」

 オーナーは嬉しそうに歯を見せて笑った。


 僕は約束の日までに準備を整えた。動きやすい服装一式と、金槌を一本。

 十数年の間、ずっと恋焦がれてきたカンラン。あのオーナーは彼女を痛めつけて金を稼ぎながら、それについて良心の呵責を覚える様子もない。そんな相手に手段を選ぶつもりはなかった。秘密の別荘を訪れる者はオーナーのほかにはいないだろう。そこで起きた騒動はおそらく、二度と人目に出ることはない。

 

 オーナーに通された地下室では、暗い室内に青くライトアップされたプールが浮かび上がっていた。その光に照らされ、背を向けたオーナーの黒いシルエットが浮かぶ。

 僕は手を背後に回し、ズボンに挟んでいた金槌を服の下から取り出した。

「これだけの設備にいくらかかったと思う? それでも人魚本体の値段の方が高かったくらいなんだ。もう道楽としか言いようがないというか。でも赤い真珠で稼げてよかったなぁ。作り方を聞いた時は半信半疑だったけど」

 オーナーは僕に背中を向け、プール脇に置かれた作業台の上でごそごそと手を動かしながら話し続けている。足元には大きなブルーシートが敷かれていた、

「あぁ、餌なんだけどね。特別なものが必要で。本当、翔太君が来てくれなかったらどうしようかと」

 金槌を振りかぶり、思い切りオーナーの頭に振り下ろした。オーナーはよろめきながら振り返った。即死には至らなかったようで、頭から血を流しながら目を飛び出しそうなほど見開いている。

「この、ガキ」

 オーナーはこちらに倒れ込むようにしてもたれかかってきた。その重さを振り払おうとした瞬間、腹に熱い感覚が走った。もう一度金槌を側頭部にたたき込むと、オーナーは崩れるように地面に倒れて呻き声を上げた。

「餌の……くせ、に」

 オーナーがいじっていた作業台の上にはなぜか何本もの刃物が置かれている。一番端に置いてあるのは大型のノコギリだ。

 見下ろすと自分のわき腹から飛び出たナイフの柄が見えた。

 腹を刺されたんだ。そのことにようやく理解が追い付いた時、耐えがたい痛みが襲ってきた。金槌を床に落として傷口を抱えてうずくまる。

 さっきオーナーは何を話していたっけ。赤い真珠と特別な餌。人魚店では主に入手しやすい鶏を餌にしていた。作業台の上の刃物は餌を解体するための物だろう。

 オーナーはもしかして、僕を餌にするために連れてきたのか?

 横を見るがオーナーはピクリとも動かない。気絶したのか、死んでしまったのか。さっきまで上げていた呻き声も聞こえない。青い光の中でプールの水音が反響しているだけだ。


しばらくの間、動くこともできずに床にうずくまっていた。血を流しすぎて震えが止まらない。それに、こんなにこの部屋は寒かっただろうか。

「しょーた?」

 声が聞こえた。忘れもしない、カンランの声。

 閉じていた目を開くと青い光がにじんだ。痛みをこらえて顔を上げると、プールから身を乗り出したカンランが濡れた髪をかき上げているのが見えた。白い皮膚の上に目立ついくつもの青黒い打撲痕。けれどきらめく彼女の黄緑色の瞳は相変わらず宝石のように光っていた。

 一気にあの夏の思い出がよみがえる。彼女は僕のことを覚えていてくれたんだ。傷口の痛みも忘れ、カンランの方へ這いずりながら近づいた。

「カ、ンラン」

 名前を呼ぶと、彼女はあざだらけの手をこちらに伸ばした。

「やっと、会えた」

 夢にまで見た彼女を前にして自然と涙がこぼれた。

「愛してる、カンラン」

「アイシテル」

 そう言って彼女は口角を上げた。僕の胸は泡立ち、無意識にその頬に手を伸ばしていた。

 その瞬間、カンランは僕の手に食らいついた。鋭い歯が肉に食い込む。カンランは首を左右に振りながら食いついていて、力が強く振り払うことができない。伸ばされていた白い腕が背中に回され、バランスを崩した僕は水の中に落ちた。

 水中での彼女の動きは素早く無駄がなかった。手にかみついていた口を離すと、今度は無防備にさらされていた僕の喉元に食いつく。カンランはためらうことなく僕の喉の肉を食いちぎってしまった。口から漏れた赤い泡が水面へ立ち上っていく。酸素を求めてあがこうとするが、僕の背中を抱きしめるかのように巻き付いた手はそれを許さなかった。木村の忠告を思い出す。言葉が通じていても意思が通じているとは限らない。けれど心の底で、カンランは僕だけは傷つけないと無条件に信じていた。

 血に染まる水の中で僕は水面を照らす白い電灯の光を見上げていた。ハイオクの穴の開いた天井と、雨が降る中で空を見上げていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

光を失いつつある僕の視界はやがて闇に吞まれ、くぐもった水音だけが遠く聞こえていた。


(了)



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ハイオク人魚 柴山ハチ @shibayama_hachi

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