第一章 1

 いつもなら三分以内に答が出ているような簡単な話のはずだった。

 電話を切った後(あるいは手紙を読み終えた後だったかもしれない)、そのままの姿勢でおれは考えごとをしていた。考えごとをしていたらしい。日が傾いて室内はすっかり暗くなっていたのに電気もつけていなかった。帰ってきた家人があかりをつけて悲鳴を上げた。何? どうしたの? 驚くじゃないの。


 え? 何だって? ああ。家人というのはあれだ。妻だ。妻がいたんだよ。おれにもね。それは二人目の女房だった。気の強い女でね。ポーランドでは普通なのかもしれないが尻に敷かれっぱなしだった。何かというと怒られてばかりでおれは尋常小学校に逆戻りした気分だったよ。結婚した女と暮らしているんじゃなくてもう一人おっかないおふくろが家に住み着いたような感じだった。


 え? 何だって? そうだ。ポーランドと言った。なぜ? ポーランドに住んでいたからだ。もちろんあいつはポーランド語で言ったとも。「ソー? ソションスタオ? ニジーヴィ」とかなんとか。ポーランド人なのかって? そうだとも。エヴェリナ。美しい女だった。最初はモデルをやってくれていたんだが、すぐにそういう関係になった。しないわけにはいかなかったんだよ。え? そういうことはよくあるのかって? どういう意味だ。エヴェリナが特別だったのかって? いや。まあ、相手さえ良ければたいていのモデルとはそういう関係になったんだが。ああそういえば、エヴェリナの時は結局ろくな写真を撮らなかった。たぶん最初の何カットかは撮ったはずなんだが、それどころじゃなくなってしまってな。で、始めたら止まらなくなってしまってな。何日も続いたよ。それで一緒に暮らすようになり、結婚して、気がついたら尻に敷かれていた。身体のことは知り尽くしていたが、どういう性格の女かは結婚して初めてわかったのさ。


 何の話をしていたんだっけ。エヴェリナが驚いた? 何でさ。部屋が暗かったから? ああ。思い出した。そうだ。「ニジーヴィ!」と怒鳴りつけた後、おれの様子が変だと思ったんだな。急に声の調子が変わって「スタン フィズィツィニ ツィズウェイ イェス……」、え? 何だって? ああすまんすまん。エヴェリナは優しい声になって、具合でも悪いの?とおれに尋ねたわけさ。そしておれが座っていたシングルのソファの肘置きに座っておれを抱きしめた。そういうところは可愛い女なんだよ。


 でも話すわけに行かないじゃないか。内容が内容だっただけにな。だからおれは言った。何、めまいがね。めまい? そう、めまいがして、ちょっと休んでいたんだ。真っ暗な部屋で? ああ、すわっているうちにちょっとうとうとしたんだろう、暗くなったことに気づかなかったよ。今は大丈夫なの? 大丈夫さ。


 それからおれは手紙を、ああそうだ。やっぱり電話じゃない。手紙だ。おれは手紙をこっそり隠したんだ。日本語で書かれていたからエヴェリナにとっては暗号文に過ぎないんだが、それでもおれは隠した。手紙には菊が死んだと書いてあったんだよ。誰だって? 女房だよ。おれの最初の女房の名前さ。


(「めまい」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)400到達

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写真家・遠山森道伝 高階經啓@J_for_Joker @J_for_Joker

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