⑤姉
「カンカンカンカン」
耳によく馴染んだ遮断機の音。
私の目に映る風景もまた、見なれた桜並木。風に揺られて舞う桃色の花びらを追いかけて顔を上げれば、セルリアンブルーの広い空に白の雲が伸びていた。
嗚呼、普通の。何処にでもある、なんてことのない風景。
今までも、きっとこれからも変わることのない普遍的な光景。
そんなありふれた光景の中。急カーブを描いた路線の上を、ごう、と音を立てて電車が通り過ぎる。その風圧舞う花弁を目で追っていれば、私の行く先を塞いでいた遮断機が上がった。
「……はぁ」
誰に聞かれるでもない溜め息。それを一つ零して、私は開けたそこに足を一歩踏み出す。
今日もまた何の変哲もない一日が始まると思うと気が重い。朝起きた時分から既に憂鬱ではあるけれど、日々の変哲のなさを見せつけられる登校時は余計に気が重いのだ。
いつもと同じ道を辿り、いつもと同じ校舎に入る。そして顔ぶれの変わらないクラスメイト達が居る教室へと入れば、朝練を理由に私より早く学校へ行っていた弟のまことが「姉さんおはよう!」と声を掛けてきた。
「うん、おはよう」
いつもと変わらない言葉を返し、私は自身の席に座る。
休憩時間になる度に、私の席へとやって来るまことにその都度対応しながらも、無事七限まである授業を終わらせた私は一人、目の前に在るキャンパスを黒で塗り潰していた。
中学三年の春ともなれば、部内の年長者として新しく入ってきた新入生に対し物の位置や課題の取り組み方などを教えたりするのだろう。しかし私が所属している美術部、ひいてはこの美術室には、私と物云わぬ石膏たち以外誰も居ない。というのも、部員は少なからず入ってきてはいるのだが皆、幽霊部員になってしまっているのだ。
ぺたぺたとキャンバス上に筆をおろし、黒色を塗り重ねていれば、じきに校舎内に居る生徒に対して帰宅を促す放送が響き渡った。
「嗚呼、もうこんな時間なのね……」
せっかく一人きりになれるこの時間が、こんなにも早く終わってしまうなんて。
小さく溜め息を吐いた後、帰宅するための支度を終えた私は茜の色が差す廊下を歩く。そして昇降口で靴を履き替え、家に帰る前に必ず寄っているコンビニでおにぎりを購入した直後、「ピロン」と、携帯がメールの着信音を発した。
「……、」
正直あまり見たいしろものではないが、即時に返信した方が後々の都合が良くなることを知っている私は、届いた画像つきメールの内容に目を通す。
白の背景の中で踊る、父からのストーカーじみた愛欲の文章と陰部の写真。脳に入れることさえ憚られるそれらを軽く読み飛ばし、定型化された文章を貼り付け父に送信する。勿論、受信したメールや送信したメールをすぐに削除することも忘れずに。
そうやって所用をこなしながら家に帰れば、要領の悪い専業主婦の母が冷凍食品をレンジで温めていた。おそらくそれらが今日食卓に並ぶ晩御飯たちなのだろう。
冷凍食品如きを温めるだけだというのに、台所の中をバタバタとせわしなく移動している母から語られる要領を得ない長い愚痴――、聞きたくもない他人への悪態を聞かせてくる彼女に対し「そうだね」と共感したふりをする。そして、優しさを前面に押し出した笑みを無理やり浮かべながら、ダイエットを口実に母親が温めている冷凍食品を拒み、自分の部屋に籠った。
「はぁ」
一日に何度、私は溜め息を吐くのだろうか。帰宅する際にコンビニで買ったおにぎりを手に、私はもそもそと食していく。そしてソレを食べ終え、今日の授業の復習と明日の授業に備えての予習をしていれば、「バンッ!」と勢いよく私の部屋の扉が開いた。
「姉さん! 帰る時はいつも一緒が良いって言ってるのに、なんで今日も一人で帰ったんだよ!」
「おかえり、まこと。別に、良いじゃない。貴方の部活が終わるより、私の部活が終わる方が早いんだから」
「でもっ! ほら、やっぱり一人で帰るのは危ないしさ! 僕はみのり姉さんが心配なんだよ!」
「そう、ありがとう。明日から気を付けるね」
走って帰ってでも来たのだろうか。息を荒くしながら部屋へと押しかけて来たまことにやわらかな笑みを向けてやれば、僅かに落ち着いたらしい。「なら、明日こそは勝手に一人で帰らないでくれよ?」と彼は良い、徐に鞄から学校指定の問題集を取り出した。
「ところで姉さん……。実は僕、此処の問題分からないんだけど、晩御飯の後にでも教えてくれる?」
「……うん、いいよ。教えてあげる」
「やった! なら晩御飯食べた裸すぐに来るから!」
母に似たのだろう。バタバタと忙しなく部屋から出て行ったまことを見送り、勉強を進めれば十分も経っていない内にまことが「姉さん、教えて!」と勉強道具一式を持って部屋へ戻ってきた。
一通り勉強を教えた後、まことを自室に残したまま息抜きにと入った風呂。そこはこの家の中で唯一とも呼べる安息の場所だ。
湯あたりをしない程度にしっかりと身体を温めた後、風呂から上がれば、帰宅したばかりなのだろう。ソファに腰掛けた父がビールを片手に冷凍食品をつまんでいた。
「おかえり、お父さん」
つまらなさそうなバラエティ番組を垂れ流すテレビを見るふりをして、父の隣に座り、膝を寄せる。ちなみに母は私と入れ替わりで風呂に入っているし、まことも私の部屋で勉強をしているから、今此処には私と父親しか居ない状態だ。
「嗚呼。ただいま、みのり」
仕事帰りが故の、汗臭さやたばこ臭さ。そして今現在進行形で飲んでいるビールが私の鼻を突くが、私はそれに嫌な顔を一つせず笑みを浮かべる。そうすれば私の隣に座るその男は、私のその笑みを了承と取ったらしい。ゆっくりと、そして惜しみなく。私の身体に手を滑り落とした。
首元、胸、腕、腹、内腿。上から下へ、順に手を滑らせた男は次に私の寝間着の下に、じっとりと汗ばんでいる手を滑らせてくる。
「はぁ、はぁ……」
男の口から漏れ出るビールの香り混じりの吐息。それを眼前に浴びながら、私はその人の手に自ら身体を擦り付ける。
「っ、みのり」
「うん、いいよ」
私に対して何かを強請るような目。それに応え頷けば、男は私の寝間着を下着もろともたくし上げ、直に素肌に触れて、揉みしだいたり、唇を落とし舐ったりしてゆく。
それに対して何も感じはしない私ではあるけれど、多少喜んでいるフリをしてあげないとあまりにも彼が哀れだし、欲しいものが手に入らないのも困るから、私はその男が喜びそうな反応を稀に見せてやる。そうすれば、気を良くしたのだろう。母が風呂から上がった音と共に私から手を放したその人は、懐から数枚のお札を出して私の手のひらに握らせてくれた。
「ありがとう、お父さん」
ぎゅ、とお札もろとも男の手を軽く握った私は、何事もなかったかのように自分の部屋へ戻る。そしてその部屋で今も尚勉強――あるいは勉強以外の事もしていただろうまことを「お風呂空いてるから、入ってきたら?」と一旦追い出し、握りしめていた数枚のお札を財布の中に入れた。
嗚呼。これだけあれば、またしばらくの間母が食卓に並べる冷凍食品を食べずに済む。
父とメールを送りあい、身体を触らせ、対価として金を貰う。そのことに関して最初の頃は不純だとか、不潔だとか、客観的に判断し、嫌悪もきちんと抱けていた。だが、そうすることが日常となってしまった今ではもう、その嫌悪心も廃れ――どうでも良いものに変わり果ててしまった。
この部屋に一人残していたまことの手により荒らされた形跡のあるクローゼットを片づけた後、私は風呂に入る前までしていた勉強に再度取り掛かる。そうすれば夜の十時を回った頃に、「姉さん、起きてる?」とまことが部屋の扉をノックしてきた。
「どうしたの?」
開けて良いよ。とは言っていないのに、その声を聞いた途端扉を外側から開けたまこと。彼は要約するのであれば「ホラー映画を見てしまったんだけど、怖くて一人で眠れないから一緒に寝てくれないか。自分は床で寝るから、お願いだ!」という言葉に値する説明を長々としてきた。嗚呼、やはりまことのこの要領の悪さは母に似ている。
「お願い、みのり姉さん!」と再び頭を下げてきたまことを見ながら、仕方がなく許可を出せば彼はパッと顔を上げ「なら、布団持って来るから!」と自分の部屋へと行き、すぐに私の部屋へと戻ってきた。
ベッドの真横に敷くまことを尻目に、明日の準備を整え終えた私は「なら、おやすみ」と彼に声を掛けベッドに潜り込む
「うん、おやすみ。みのり姉さん」
その声と同時にまことが部屋の電気を消し、私はぴったりと瞼を閉じ、眠りについた。が、一時間もしない頃だろうか。「はぁ、はぁ……姉さんっ、みのり姉さん」と私を呼ぶ声で、意識を夢の世界から現実の世界へと引きずり戻された。
部屋の灯りは消えていて、瞼を開いたところでバレはしないだろう。だが彼が私の隣で何をしているのか、知っている私は瞼を開かない。例え暗闇の中であろうとも、血を分けた双子の弟の淫靡な姿など――それも双子の姉である私の名を口にする様など、見たくはない。
熱を帯びたまことの喘ぎ声と、快楽からなる水音。それを至近距離で耳にしながら、私はひとり「馬鹿ね、」と思う。
私はまことが思うよりずっと汚いのに。真の知らない間に、まことの元となった男と触れ合っているのに。可哀想な真はそれを知らないで、私への思いを昂らせている。
嗚呼けれど。そんな馬鹿は、きっとまことだけじゃない。父も、母も、そして私もまた同じように馬鹿で、救いようもないほど愚かなのだ。
「カンカンカンカン」
耳によく馴染んだ遮断機の音。
目を向けた先に広がるのは満開の桜を両脇に沿えた細い線路と、私のこの後を知っているかのように集まり出した黒々しい烏の群れ。
嗚呼いっそ、この黒たちが全部を埋め尽くしてくれれば良いのに。
私に恋い焦がれるがあまり隣で自慰をする弟を。
まともな料理一つ作れず、長々と愚痴をこぼす母を。
私を恋人扱いして、身体に触れてくる父を。
家族を心底どうでもいいと見下している私を。
そして私の未来に在る、普遍たる日々を。
黒で埋めて、潰して、見えないようにしてほしい。
私にはもう、同じような毎日を繰り返すだけに足る余裕はないのだ。
そう思った私の背を押すように、ごぅ、と大きく吠えた風。それに誘われるようにして私は降りてこようとしていた遮断機の下をくぐった。
満開の桜並木に両脇を挟まれた路線。そこにぽつりと一人立った私は、きっと最後になるであろう溜息を吐く。
「はぁ……」
壊れてしまっている私の家族、そして普遍だろう未来の日々。
その中に私という個人が含まれなくなっただけで、心が軽くなるほど素晴らしいことなのが分かる。嗚呼、嗚呼。なんて晴れやかな気持ち。
きっと彼らは私が居なくなってもなお、壊れた家族生活を維持し続けるに違いない。
「カンカンカンカン」と鳴り響く遮断機の音に、がたごと、と姿は未だ見えないながらも迫りくる電車の音。それらに耳を傾けながら、私は風に乗り踊る桜の花びらと一緒にセルリアンブルーの空へと、舞い散った。
私と壊れた家族たち 威剣朔也 @iturugi398
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