花にふれた青年

 奉公先のお屋敷は,いつも陰気に満ちていた。


 その中でも,日の差す瞬間が唯一の楽しみといっていいだろう。

 年老いた旦那様に嫁がれた,若い後妻。

 彼女が,この場所で唯一のかがやき。

 朝方に咲く蓮の花よりも,奥様は可憐であった。


 奥様は三十路にして未亡人になられた。

 ひとりの人間が持ちうる限りの愛情を注がれた女性だ。

 初老の男に,これだけの熱が灯るものだろうかと,私は甚だ不思議に思っていたが。

 なるほどどうして,奥様は私の目をも惹きつけてやまない。

 とくべつに見目の良い,というわけではないが,静謐でありながら私の知るどんな女性よりも芳しく,意識せずにはいられないような色香を放つのだ。


 この屋敷に奉公に来てからというもの,私はその女主に心酔していくばかりだった。


 奥様は池の花がお好きらしい。よく池のほとりに佇んでいらっしゃるから。

 それに,中庭のよく見える部屋に自室を構えておられる。

 夫を亡くされてから,そこに部屋を移されたが,元は夫婦の寝室だった場所だ。

 その場所に,あの豊かに咲く花々に,よほどの思い入れがあるのだろう。

 私はおこがましくも,胸を痛めるより他はなかった。

 私の存ぜぬ秘め事に。

 奥様の心中に思いを馳せては,また虚しさに胸をつかまれる。


 一介の使用人には似つかわしくない恋慕であった。


 私を流し見る奥様の視線。

 奥様の肌に柔く照り返す光。

 緑の黒髪から匂い立つ,奥様のあたたかな香り。


 奥様の,奥様の,奥様の,


 矮小な脳味噌は,そんなことばかり零し続ける。




 時折,奥様のほうからお声をかけていただくことがある。

 その日は,日も陰る空模様だった。奥様は例のごとく池の花を見つめ,子どものようにしゃがみ込んでいた。

 しかし細められた眼は,何ごとかを憂いているように思われた。

 近く廊下を行く私に気づかれた奥様は,ぱっと表情を切り替えて振り向かれる。

 今日も精が出るわね,と明るく仰る奥様は,女主人の顔をしていた。


 それが,どうにも,寂しいと。

 私は運ぶ途中だった家財を下ろし,引き寄せられるように庭に出た。

 奥様は不思議そうに私を見つめ,そこへ辿り着くのを待っていた。


 そして,なあにと小首をかしげる。


「奥様…何かお辛いことでも?」

 わかりきったようなものだった。旦那以外のすべてを手にしたこの女性が,何を憂いているのかなどと,愚問でしかなかった。

 しかし,一使用人として直接的なことを口走るのは憚られたのだ。


「まあ,どうして」

「私めがこのようなことを申し上げるものではないかと存じますが…旦那様を亡くされてまだ日が浅いですし」


 奥様は,言葉に詰まりながら溢す私をじっと見つめたあとで,そうね…と,柔らかに紡いだ。

「ぜんぜん寂しくないと言えば,嘘になってしまうわね。でも,歳の離れた殿方に嫁ぐと決めていた時から,覚悟していたことなのよ」


 奥様は,私の肩にそっと手を添わせた。白魚のような指に,日の光が溶け込むような手の甲に,私は視線をとらわれてしまった。


「今となっては,肩の荷が降りたような気すらしているわ。私のお勤めは,終わったのだって…」

 私は,左肩に感じる熱をこの手に握り込んでしまいたいという衝動を必死に抑えながら,なんとか奥様の言葉を聞いていた。


「私たち夫婦が,他人の目にどう映っていたかなんてわからないけれど。いろいろ,あったのよ」

 それはそうだろう。あれだけ情熱を注がれていたのだから,思い出はひとしおというものだ。


「私,ずっとさみしかった。あの時に戻れたらって,何度も思ったわ」

 私は,旦那様との思い出の日々を恋しがっているのだとばかり思っていた。しかし,彼女の目はずっと遠くを見ていた。私をすりぬけ,空の先でも見通すようだった。


「貴方は優しいわよね。私の心配ばかり…でも嬉しいわ。こうしていると,少しは気も紛れるというものよ」

 ついに私は,奥様の右手を手に包んだ。

 彼女の言葉の意味はわからなかったが,もはや私の頭が働くことはなく,身体に主導権を明け渡してしまった。


 奥様はわずかな驚きさえ見せることなく,私の手に滑らかな頬を寄せた。

「貴方を見ているとね,思い出す人がいるのよ」

 その発言に,私はたじろいだ。何を言われるのだろうか。


「あの人はそうね…現実に忠実に,生きたわ」

「奥様…?」

「貴方はどうかしら」


 辺りには大きな池があるだけだった。

 そこに根を下ろすいくつもの立ち葉と蓮の花が,私たちを囲っていた。


 目の前のぬくもり以外の,あらゆることが瑣末なことのように思われた。


 ***

 私は,美しき未亡人の心に足を踏み入れたと信じて疑わなかった。

 奥様は,私がひとりの男として物を言うのを許した。

 奥様,奥様。

 私はなんども呼んだ。

 なんどもそのぬくもりに触れた。


 だから____

 ある日,口をついて出たのだ。分不相応な願望が。


「私と,このお屋敷を出ましょう」

 そこには渦巻く思いが込められていた。

 ちょっと遠出でもして,人目を気にせず二人で過ごしたかった。

 あわよくば,どこか遠い町で二人で暮らしたかった。

 私は奥様の両手を取り,しっかりと握り込んだ。


 足元では,薄桃の蓮の花が揺蕩っていた。

 前の男の思い出の残るこの場所から,憎らしい花々から,彼女を引き剥がしたかった。


「私はね,そんな自由は望んでいないの」

 だが,彼女のぴしゃりとした拒絶に,私の夢は打ち砕かれた。


「私は___ここで,これからを生きていくの。そのためだけに,私は…」


 そこで言葉を切った奥様は,池に架かる橋の真ん中まで歩んでいく。

 私の手を,すり抜けて。


 ひときわ大きく咲く蓮の前で佇み,「貴方は優しいわね」と零した。いつか聞いた台詞であった。

 その横顔が,誰やも知らぬ女性のようで,冷めた目の少女のようで。


 突然に,手を伸ばすのが躊躇われる花となった。

 橋の麓で立ち尽くすしかない私は,夢に取り残されてしまった阿呆な男で,奥様の思惑など受け止めようともできなかった。

 現実に戻りたくなどなかった。


 そんな私を見ているのかいないのか,振り返った奥様の目は痛いほどの生気をもって前を見つめていた。


 まるでこの屋敷すべてが,自分までもが,汚泥に見えるほど___

 奥様は,ひどく美しいのだった。


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汚泥に咲く花 遊楽 @yura_hassenka

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