蓮花の心

 空気は柔らかだった。


 威厳を体であらわすお屋敷には、年老いた男がひとり。それが主。

 3人いる彼の息子たちは、既に成人して家庭を持ち、ここにはいないという。

 それから、無駄とも思える数の使用人たちと……大きな池。


 それが、この場所を構成するすべて。




 結納を済ませ、この年老いた家に、私は招き入れられた。

 当主の明々とした瞳、しんなりと耳をなぜる声は、私という新たな嫁を心から歓迎した。


 生家よりも劣る調度品は1つもなかったが、私の若い気を吸い取るにはじゅうぶんすぎるほど、私を包む空気は柔らかく、そして生ぬるく、干からびてなお生々しいにおいがするのだった。


 私には、すべてが不躾な無機物に思えて仕方がないのだ。



 はじめて他人と潜った褥には、いっそう強く匂いが染みつくこととなった。


 はじめて触れる肌には、いつか想像した熱や瑞々しさはない。

 薄く窄まる唇からは、私の中にはないにおいがする。


 誰にも触られたことのない身体のそこかしこが擦れて、ようやく目の前の男は生を宿した。

 その変化を目の当たりにし、足が疼いた。


 逃げ出したい。ここから逃げたい。


 逃げられない。


 逃げられないのに、気持ちだけはどんどん遠ざかっていく。


 私を阻むのは、かさついた太い腕ではなく、自身の覚悟。


 もう、ここで生きていくほかないのだから……これが私のお勤めなのだ。


 若い身体を、未来を、すべてをこの男に捧げ、最後の瞬間まで寄り添うように歩まねばならないのだ。


 その先に何が待っていなくとも。



 ぅあ、



 涙で繕い続けてきた覚悟ごと、私はどろどろと腐りはじめる。


 自尊心らしかったものが崩れ、汚れていく。


 頭に痛く反響するのは、敗北に濡れた声である。




 薄暗がりで目を開いたら、私は私ではなくなっていた。


 起きもしないのにぐらつく頭が、ひどく痛んだ。

 髪の先から指の先までからからで、何とか気力を振り絞って床から這い出た。

 しばらくは畳に縫い付けられたようにじっと座っていたが、薄闇が明度を増すにつれ、頭はよく巡った。


 終わるなら、あの蓮花の池がいいわ。


 でも、あそこまで行っていたらきっと気づかれて、捕まってしまう。



 どこをどう行くのかも定まらず、ふらふら行くと、大きな庭に出た。


 月を飲み込む広大な水面の下に埋まっているものを、私は知っている。


 悪臭を放つ汚泥が沈み、柔らかな寝床を作って私を待つのだ。

 この泥に飲まれて、根を伸ばし、すました顔をした薄桃の花をのぞかせたい。


 渇いた指先を浸けたところで、しかしそこには先客がいたのだ。


 この泥は私の糧である、奪ってくれるなと、水の底から叫ぶのだ。


 私が連れてきた蓮の根が、私を爪弾きにするのだった。


 そうね、ごめんなさいね。


 くすりと湿った息がもれて、私は暁光ぎょうこうに連れ戻された。


 何を馬鹿なことを願ったのだろう。

 私の糧となり、花を咲かせる巨大な土壌に、私は踏み入ったというのに。


 それにしばらくすれば、私の汚泥はより豊かなものになるだろう。


 我がもの顔で温もる蓮を見下ろす。ぬるい水を少しばかりかき回して、濁らせてやった。



 私の花盛りは、まだ遠いのだ。


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