汚泥に咲く花
夏永遊楽
お守り役の青年による
私の知る限り、お嬢様はその花を何より慈しんでいた。
暇ができれば駆け寄り、旦那様に叱られては花弁を弄び、お屋敷を出た日は、花の根を鉢に移させて抱えていた。
まるでご自身の分身であるかのように,大事にだいじに。
私が母親に連れられてこのお屋敷にやってきたとき,お嬢様はまだ奥様の膨れた腹の中だった。
まだやっと
生まれたばかりの赤ん坊を初めて前にした私は,お嬢様を訝しんだ。
私の記憶で一番新しいお嬢様は,16の誕生日を迎えたばかりだった。
もともと,良家の令嬢らしく許嫁が決まっていたが,相手が若くして世を去ってしまったために,お嬢様の嫁ぎ先をどうするかという重い問題に,旦那様は頭を悩ませていた。
お嬢様は幼い頃から大人びて,十を過ぎた頃からは,ついぞ幼さというものを表したことがない。
黒々とした睫毛がすっと伸び,その眼差しは何ごとかを憂いて,また秘めた力強さがあった。
お嬢様を知る者は皆彼女に惹かれながらも,近づきすぎようとはしなかった。
子どもらしくない子どもは,何か特別で,でも目に見えて際立った所はないのに,自分とは違うと誰にも感じさせた。
お嬢様は,お屋敷の庭にある小さな池によく通った。
そこに咲く蓮がお気に入りなのだ。
いないと思うとたいてい蓮を眺めていて,呼びに来た私に気づくと,振り返って柔らかに微笑むのだった。
あまり人なつこいとは言えないお嬢様であったが,ときおり,気まぐれに私に近づいてきては小さな発見を話してくれた。
うちの池には薄桃色の花しか咲いていないが白いのもあるらしい,とか,許嫁の彼からの便りを見ていると,最近急に字が上達したようだ,とか,あなたはいつもぼうっとしているが,わたしのことにはよく気がつくわね,とかいった具合に。
他の誰にも,厳しいご両親にはもちろん,乳母であった私の母にさえ,そのような他愛ない話はしないようだった。
だから私は彼女を愛しんでいたし,彼女もそうだったと思っている。
若い私は一介の使用人であったのに,いつか運良くお嬢様と一緒になれたら,などと淡い妄想を滾らせることもしばしばだった。
結局,お嬢様の新たなお相手は,もう五十路も見えたかという実業家の男に決まった。
それでもお嬢様はなお毅然とし,気高く視線を上げて旦那様の言葉を聞いてやっていたようだ。
私は分不相応にも憤慨した。
親のような歳の老いぼれに嫁ぐなんて,お嬢様もきっと本意ではないはず。
私はどうにもならない思いを腫れ上がらせながらお嬢様に寄り添った。
正式に輿入れが決まった日から,お嬢様は前にも増して池のほとりに佇むことが多くなった。
それまでの穏やかな目つきはなりを潜め,何者をも切り捨ててしまいそうな鋭い光を、蓮を見つめるその瞳に宿していた。
どれほど気高い花でも、手折られるために咲いていることを知ってしまうと惜しくなる。
いつものように蓮を眺めるお嬢様の手を引き,薄紅の花を一輪手折ってその掌に握らせる。
私が愛の賛辞を並べると,お嬢様はみるみる頬に赤みが差し,私の手にすり,と滑らかな肌を寄せる。
そして,連れていってと柔い唇から零すのだ。
恋心,もとい独占欲のようなものに火がついた私は,ついにお嬢様との駆け落ちを白昼夢に見たのである。
ゆっくりと心地よく,鮮明な世界を取り戻すと,目の前にあったのは,取り憑かれたように蓮を見つめるお嬢様の後ろ姿だった。
私は完璧な夢を現実とするべく,お嬢様の髪の先にでも声をかけ,手を伸ばそうとした。
しかしその華奢な手首に触れる間際で,完璧な夢は哀れな妄想と成り果て,枯れた花弁のように土に落ちた。
そのまま私は踵を返し,何食わぬ顔で愛しきお屋敷に戻った。
朝の匂いの残る日の中,そっと閉じてゆく蓮の花弁を尻目に。
それから数日後,私は母の隣で,子守りに励んだ使用人らしく,涙ながらに別れを告げ,蓮の根とともに嫁に行くお嬢様を送り出したのだった。
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