006
正体を告げた途端に少女は姿を消した。
そして風が吹き込んだ。現実が頬に刺さる。
そういえば、あの少女がいる間は風がなかった。静かだった――
「セイタ!」
後ろから名前を叫ばれる、デジャヴだ。バシャバシャと水を撥ねさせて近寄る足音は、紛うことなき人間のそれと確信出来る。
「アマネ……」
無事だったんだ。
安心感の訪れ――そして直後に気まずさが追随する。
「……」
「波に飲まれちゃったときはめっちゃくちゃびっくりしちゃったんだからな!」
かろうじて顔は見られる。
「しっかし……すごいな、これ。たかしお? ていうの。これ。こんなんになるのか」
彼女にも多少の被害があったのか、髪がびしょ濡れのままだった。マスカラが頬のラインから流れ落ち線を引いていて、ちょっと妖怪じみていた。不覚にも面白い。
「……なんだよ、不登校のくせに顔合わせた瞬間笑いやがって。こっちは心配したんだぞ」
「いや…………なんでもないよ」
言わないでおく。言ったら殴られるだろうし――なにより、そこには昔の彼女の面影が垣間見えたから。
「あのあとすぐに豪雨並で降り出してさ、濡れちった……」
セーラー服の裾を絞りつつ言う。
「はい」
ペットボトルを差し向けた。
「もういらねーよ。飲んでないだろうな」
「……まさか」
冗談につい笑い返してしまったが――いやいや、今までを考え直せ。
「――なんで」
僕を心配しているような素振りでここまで来ているのか――
「なんで、僕がここにいるって知ってるの?」
「いや、普通に教室の窓から見えるし。窓際だし、席」
嘘だろ。僕の見当違いだったか。
「毎日ラジオ聞きながらあそこ座って釣りしてんのは知ってた。今日は持ってなかったみたいだけど」
「……そっか」
バレていた。見透かされすぎていたようだ。想定よりもよっぽど酷かった。僕は彼女に醜態を晒し続けていたことになる。
でも、それよりも、僕は彼女が僕のことを観察していたという事実の方に驚いていた。
「釣りは、楽しいか?」
片眉を釣り上げていたずらっぽく聞いてくる。
「……全然」
目を側める。二度目も冗談に乗るほど僕は自分が愚か者でいるのを許せはしなかった。
「……僕が悪かったよ、ごめん」
「ん?」
「その、何も言わなくて……」
何も言えなくて。
「お、ぉ」
アマネは目を見開いて半笑いに、芝居がかった驚き方をした。
「やっと自分から言うようになったか! わぁ」
何故か嬉しそうにしている。僕は陽の光に浴びせられて罪悪感でいっぱいだった。今更。
「いやー。ほらセイタ昔からいじめられやすかったじゃん。で、あたし見てられなかったから色々やってたけど、さぁ。幼なじみ? だし。でも流石に高校生になってもなぁって思ってたんだわ」
種明かしをするマジシャンかぶれのように、嬉々として僕が憂いていたことをズバズバ言ってくるあたり、性格がいいとは言えない――なんて言える身分でもなかった。正しくその通りだったから。改めて言われると耳が熱くなる。
「……ご、ごめん! なさい! 僕が悪かった! です! アマネに頼っていたことが!」
「お、おぅ……そっちか……」
耐えきれなくなって、叫んだ。この数ヶ月――いや、数年、言えなかったことだ。
アマネの、思い詰めていた彼女との険悪さを吹き飛ばすような、洗い流すような喋り方は――数ヶ月間を感じさせない距離感の取り方は、何かこみ上げるものがあった。
ないしは――その険悪ささえ、僕の幻想だったのかもしれない。最後のあの日をはっきりと覚えてるわけじゃあない。煮詰まっていく間にその負の考えがどんどん濃くなっていただけ、かもしれない。とにかく、色々恥ずかしいことばかりだ。
「ま、まぁ……あたしはそんなお前が自分からなんか動くようにわざとこの前は肩持たなかっただけだし」
いきなりアマネは、さっきまでの僕みたいな喋り方になった。
「ヘコむんだろうなとは思ってたけど、不登校決めこんだのは流石に予想してなかったわ……電話繋がらねーのわかってからこっちも意地張っちまった……ごめん」
「え?」
最後の方はそっぽを向いて小声だったので聞き取れなかった。
「や、なんでもない!」
暗雲を振り払うようにして首を振る。
「と、り、あ、え、ず!」
人差し指をこちらに立てる。いつもの顔に戻っていた。黒いラインは除いて。
「お前、明日から学校来いよ!」
「え……」
「ったり前だろ! 緊急時で不本意だったけど、わざわざあたしが出向いてやったんだからお前が来ないのはおかしい!」
細い指が僕の鼻の先で揺れる。上体を退ける。
「う、うん……」
また、言わせられてしまった感がある――
「そういえば、じーさんは生きてんのか」
崖の一番上、僕の家の方を見ながら言う。
「僕が不登校になってるおかげできちんと昼飯も食べてるよ」
「そーか。ボケたって聞いたから心配してたんだけど」
「……ん、まぁ、なんとかやってる」
そろそろそっちも、棚上げにはしておけないんだろう。僕も見上げた。
未だに空は雲に渦巻かれていた。
「白髪の女の子?」
「本当だって……しましまのマントみたいな服を着て」
「信じらんない。外国人?」
既に僕の記憶からはあの少女――名前も曖昧になり始めたあの『なにか』は、消え始めていたが、かろうじて覚えている内容を伝えた。信じてもらえていないようだが、僕だって信じ難い。
「いや……顔立ちはアジアっぽかったような……もう忘れかけてる」
「波に飲まれて夢でも見てたんじゃないの。しかしそんな白髪の美少女が好みとは、お前……うわぁ」
アマネは完全にからかう姿勢だ。こういうところは昔と変わらない。あるいは、それが彼女の優しさかもしれない。
「そ、そんなんじゃないって……」
僕は彼女が消えた方向だけは覚えていた。雲がそり立っている。斜陽が西側の壁を通り越し、東側の雲の上の方に反射して、ピンク色だった。
「バシャ、バシャ、バシャ……」
「?」
僕達が『なにか』についての攻防を繰り返していると、階段の方面から人が来た。
それは――祖父だった。
「ついに徘徊し始めた……」
「違うだろ、台風来てたんだからお前はまずじーさんを心配すべきだ」
ひっぱたかれた。その通りだった。
しかしながら、近づいてきた祖父に、正直どう声をかければいいのかわからなかった。
「……大丈夫だった? じーちゃん」
そんな僕を、祖父は気に留める様子もなく――
「あれは……」
北東を指さした。
「あれは、ミヅハ様だ」
「ん?」
また、わけのわからないことを言い出したのか――流石に先ほど僕をたしなめたアマネも流石に訝しげにしている。
ただ祖父がさした方向は、偶然か、あの少女が消えた方向だった。
「――アマノシナミヅハ様だ。お前達、拝んでおけ」
そう言って祖父は手を合わせて目を瞑った。無論、その方向に見えるのは雲の壁のみだったが――
「あまのしなみずは? ……もしかして、お前が言った女の子の話か、これ」
「かも、しれない」
「神様? に会うとか、ますます夢かよ」
もともとそういうのを信じている節があった祖父だが――そして僕は勿論信じていなかったが――でも今回ばかりは、祖父の言うことが正しいのかもしれないと、そう思えた。
「だとしたら、なんの神様なんだろうなー」
アマネが他人事のように言う。他人事だけど。
「雨と風」
祖父がアマネの言に答えた。
「大きな力で、ときに島の全てを洗い流し、ときに島の乾きを潤す――俺達の、神様だ」
目を開いてそう答えた祖父の瞳には、往年の威厳が再び灯(とも)っていた。
〔――です――湾上で台風十八号は、突如として勢力を弱め、早急に温帯低気圧になりました――〕
僕の部屋の窓際から飛ばされてきたらしいラジオが流されてきて、そう告げた。
しんだ。
とりあえずは帰ることになった。当たり前だが。この『下』の被害もさることながら、恐らくは『上』だって、学校だって相当だろう。まずは自分の家と――それから、家族だ。
アマネは、祖父に聞こえないような声で、
「話流れたけど、明日ちゃんと来いよ?」
「うん……」
また言われた――いや、だめだ。これじゃあ僕の数ヵ月はやっぱり活きない。
「まぁ、安心しなよ――あの話はもう、誰も気にしてない」
真面目な顔で言う。既にほとんど晴れかかった雲を見ながら。
「むしろ、心配してる、お前があんなことで学校来なくなっちまったからさ。お前の家とか知ってるの、学校であたし一人だろ。だから、皆なんも出来ないだけ」
その横顔には、少し申し訳なさそうにしてる感じがあった。
「そう……いや、アマネが悪いんじゃないんだ、別に、僕はただ……僕がただ弱かっただけだから」
彼女は少し怪訝な顔でこちらを見た。
「行くよ、大丈夫、明日から行く。行って、きちんと皆に謝る。心配かけてることも――」
促されるまま流されて、ぐるぐると同じところばかり回っていた僕から、出なきゃならない。脱出しなくては。壁を破らなければ。
「自分で、行くよ」
『上』に? 『外』に。島が内包する現実に。
「おう、よく言った。えらいえらい」
「……うるさい」
久々に思い出した――アマネの、ふざけて誤魔化す悪い癖。とても懐かしい感覚だったけど、追及はしなかった。
空が晴れてきたから。
夕日がようやく晴れた雲間から差し込む。日照時間は長い。
茜色に染まった
天志那罔象 戯鳥 @niaoniao
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