005
港の方から歩いて来た女性――少女は、表情と歩調の一切を変えることなく僕の目の前まで来て、止まった。僕は身体が動かない。明らかに異質な異邦者を目の前にして無様に立ち尽くすしかなかった。金縛りになったことはないけど、多分こういうことだろうと思った。呼吸をしたくても、出来ない。
先ほどまでの、酸欠による白昼夢とは明白に違う。狐につままれたような、雲につつまれたような――
「こんなところにいるなんて、珍しいね。人と会ったのは久しぶりだな」
「……」
目の前の少女には、ひと目で十分わかるほど現実感がなかった。少女を中心としてリアリティが渦巻いて吸われていくような感じを受ける。
現実、非現実、現実、非現実、現実、非現実――頭の中がごちゃごちゃだ!
「……話せないの?」
痺れを切らしたようにそう言われた瞬間、金縛りが解けた。目線までも縛られていたので、すぐに僕は彼女の異質さの元凶の一つである足元を見た――そしてそれは、どう
いわゆる
「!」
枝分かれに合わせてもみじ型の波紋が広がる。映り込む僕の顔が歪んだ。
普通だったら有無を言わず飛び退いているところだが、どうにもそれは難しそうだった。代わりに、
「話せ、る」
と口走っていた。
「よかった」
と言われた。
非現実、である。絶対に、論理的には説明出来ない――『ふわふわ感』みたいなものに空気を占領されているのがわかった。
「きみは、なんなの……?」
非現実から逃げられなかった僕は現実よりも少し勇気と知的好奇心に溢れているようで、少女にそんな質問をした。
少女は少し答えかねるようにしてから、「しんらこう」とだけ答えた。
「しんらこう?」
「そう」
知らない。
「あなたは、何?」
同じ質問を返された。
「僕は――」
あなたは何。僕は何。僕は――何だ?
「――僕は、不登校生徒、だよ」
「……なるほど」
意外と伝わったらしい。
「私、あなたと話がしたい」
「別に、いいけど……」
目の前の少女の意向はどうにも掴みがたかった。もちろん正体もだが。
「名前は?」
「カワカミ、セイタ」
「かわかみせいた。わかった」
「きみの名前は――シンラコウ、でいいの?」
「そう。他にもあるけど」
「他?」
「そう。でもいい。せいた、家族は?」
「祖父が一人――ボケてるけど。それ以外は、いない」
「そうね、知ってる」
知ってる?
「私は姉妹がたくさんいるよ」
「……そう」
僕はこの妖怪まがいの子と何を問答しているんだ――とは、思えなかった。『話がしたい』と言われてから、僕はどうにも、この話を続けることだけを考えている。
「じゃあ――あなたはしんだら、何になるの?」
……出し抜けに訊くものじゃないと思う。質問意図が汲めない。汲めなくとも、そこまで気にならない。非現実だから。もしくは、空に穴が空いていたから。
僕は質問に答えるだけだ。
「……僕が。僕が死んだら――」
だってそれは毎日考えていたことじゃあないか。
「いや、そんなこと考えたって、意味ないよ」
それが毎日、考えた末に至る結論だった。繰り返し練習してきて、まるでここで発表することを予定していたかのように、思考がするすると僕の口から漏れる。
「だってどうせ死なないから。死ねないから」
どうしたって、現実の僕は――空が晴れていたり、曇っていたりするから、死ねない。死ねないし、この島からも出られない。
「しねない、か。姉たちは皆しんじゃったんだけどね」
「えっ」
「しんで、別のものになった」
「別のもの」
「そして私も、もうそろそろしぬ」
……自分の死期が近いから、こんなことを聞いた?
「……どうして?」
「篭ってる。篭ることが私、だから?」
そう言って少女は初めて僕から目線を外し、島の周囲を囲む雲の壁を見遣った。
「これがなくなれば、私はしぬ。しんで、別の何かになるの」
「篭ることが私……」
比喩だろうか。しかしそれは、自分とも共鳴するような気がした。島に縛り付けられて、塞がれて過ごしてきた――塞がれて?
「じゃあ、あなたはしんで――あなたはもししんだら、何になりたいの」
「……しんだら――」
少女の『しぬ』には、人間の死生観というより、ちょうど昆虫の変態のようなニュアンスが含まれていることに、僕はようやく気づいた。
しんだあと、か。
死後の世界とか――宗教的な物事は、考えたことがなかったように思う。目の前の苦が遠くを見させなかった。
「しんだら、もっと楽しく生きたいな……」
もっと強い人間になりたい。上手く想像もできなかったので、それらしいことを言うに留まる。馬鹿みたいな答えだったが、
「そっか」
と返された。
「なれるよ、多分。今はちょっと――乾いてるだけだから」
「乾いてる?」
やはりどういう比喩かわからない。が、僕のオウム返しには答えずに、少女は、
「でもどうして、不登校になったの?」
少女がもし、人間だとしたらもっともな疑問で――そして、はばかるべき質問だったかもしれない。
「……なんとなく。なんとなく、行きたくなくなったんだ。幼なじみと対立して、気まずかったから。もう関わりたくないから――」
自分より目線の低い少女に訊かれた質問は、しかし僕には重くのしかかった。現実。親に叱られて言い訳をする子供はこんな気持ちなんだろうか、わからないけれど。身体に力が入る。
ぐじゃ。
あの、飲みかけのペットボトルを握っていることに今気がついた。 僕の右手から、現実が渦を巻いて溢れ出ていた。
「……アマネ」
「私は止まれない、しぬまで止まれない。しぬように止まれないの――」
少女もまた、僕の右手を見ていた。
「関わりたくないなら、それは捨てていいよね?」
「……?」
どういう意味だ?
「それは、あなたの幼なじみのものでしょ――私のせいで、どこかに行ってしまった」
「きみは……なんでそんなことを――『私のせいで』?」
相変わらず僕の質問には答えずに、少女は続ける。
「でもあなたは今それを握って、掴んで探してる――」
目線が再び少女と合う。
「頑張って探してね、きっと二人ともしんで、仲直りできるよ!」
違う。
ただ、情けなかっただけだ。
高校でのトラブルで、彼女が向こう側についたとき、僕はそこで初めて、彼女がいなければなんにも出来ない自分を見た。今まで彼女に頼り切っていた男が鏡に映っていた。ものすごく恥ずかしかったし、情けなかった。弱いくせに自尊心だけが肥大していた。もう顔も合わせたくなかった。見透かされてるようで――せめて叱って欲しかった――いきなり見放された。
自分から掴む場所を探そうとしなかった僕が、外からの風に煽られて落ちていっただけだ。彼女という拠り所を無くした僕は、掴まるとっかかりが消えた崖から落ちて、今海を目の前にしている。
情けなかった。
僕が成長しようなんて気は起こらなかった。
空が晴れていたから。
彼女が何故いきなりそうしたのかはわからないけれど――僕にとってはそれがこの閉じた世界の終わりにも等しかったからだ。世界が終わった以上僕はどうすることも出来ない。
そう考えていた。長年の甘えで頭がドロドロになっていた。水分が足らない。糖が析出し始めている。
でも今も、僕は彼女の痕跡を掴んでいる。潤いを渇望している。
ペットボトルはグチャグチャになっていた。
結局――どこかで、彼女が助けてくれることを待っていたのだ。いつまで経っても何も変わらない閉塞の日々に嫌気が差していたけれど、それも全て、彼女に寄りかかっていただけ。今も、しがみついている。
「……私も寄りかかってるよ、しぬまで」
「どういう意味?」
「少なくとも――私がこの島に来られたのは、あなたと、あなたのお爺さんのおかげだよ」
少女の言っていることの意味はわからなかった。
恐らくは、今しかない。
二人とも波に飲まれてしまった――しんでしまった今しか、非現実である今のうちにしか、僕は彼女と会うことは出来ない。
これを逃せば次はない。いつか死ぬから、そのうち死ぬから、二度目はないから――その前にどうにかしなければ。
「お話する時間もなくなってきたみたい」少女は言う。「そろそろ私も、止まれないから――行かないと」
少女は僕の横を通り過ぎる。背を向ける。
「……もう一回聞きたいんだけど、きみは何なの?」
答えが返ってくるとは思わなかったけど、一応聞いておいた。知的好奇心溢れる非現実的な僕として。
彼女は首だけ振り返って、
「答えないといけない?」
「知りたい」
躊躇うような素振りを見せたあと、僕に向き直し、少女は申し訳なさそうに呟いた。
「私は――台風十八号」
台風。
「水と風を司る者だよ」
また、数年後。
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