004

 目が覚めると、耳まで水に浸かっていた。

「……?」

 首を起こした――死んだかな。

 水溜りに仰向けで寝ていたようだ。

 空は見たこともないくらい真っ青だった―― いや、よく見ると頭上は晴れているけど、水平線は暗かった。境目は未だ灰色で混ぜられている。その上、遠くの空はある程度の高さまでの全方位を、雲の壁で囲まれていた。

 まだ頭が働かないのも相まって、どこか気持ちよかった――清々しい。現実感が皆無だ。

 晴空を快く思うのはいつ以来だろう。死んだからか。生まれ変わって感受性が豊かにでもなったのか。僕は呑気に空を眺めていた。

 突如、腰に鈍痛。どこかにぶつけたらしい。

 それは確実な生の感覚だった。

「…………死ななかったっぽいな、やっぱ」

 そしてようやく先程の――何時間前か知らないが、防潮堤を越えた波に飲まれたことを思い出した。でも、そんなことは今はどうでも良かった。

 常識的な自己認知を終えてなお、自分が自分でないような感覚はなりを潜めない。

 それに――空がこんなに青いなんて知らなかった。思えば晴空をこんなにまじまじと眺めたことはなかったかもしれない。

「…………?」

 待て、水溜り――? 全身が浸かる水溜りなんて出来る場所は――そして、ようやく僕はその異常事態に気づく。

「いや……水溜りって……いうか」

 わざわざ奇をてらう必要もあるまい。

 ただ単に、僕が寝ていた水溜りは――町全体だったのだ。


 海岸平野の町は――その町を取り囲む防潮堤と、台地の壁面で挟まれた『プール』として、流入してきた海水によってくるぶし程度の高さまで満たされていた。水はゆっくりと港の方へ返っていく。

 水を吸った服に普段以上の重力を感じながら、立ち上がる。そして、町の全体像も見える。どうやら、防潮堤の上から流された僕は、何十メートルか先で引っかかっていたようだ。釣り道具はどこに行ったかわからない。『下』にある数少ない商店から商品が流れ出していくのが見えた。幸い定休日らしく、店主は多分『上』だろう。ドアの施錠は残念ながら意味をなくしていたけれど。

 未だ、夢心地のする光景。

「すごいな……」

 恐らく、『下』で働くか、住んでいる少数派を除く大多数の島民よりは余程普段の様子を見慣れている僕だから、余計だった。

 季節柄気温が高いので、水は心地いいくらいだが――不思議にも、不謹慎だとは思わなかった。紛うことなき天災の渦中にいながらも、僕はむしろ先ほどとは打って変わって――このスポットライトに興奮さえしていた。この雲のドームが僕だけのに存在しているように思える。

「はは……」

 この世の出来事なんてもうどうでもいいと思っていた僕に、あの世の方からこちらへ出迎えてきてくれた様子だ。

 太陽は見えない。月も見えない。雲の壁の向こう側にいるらしい。

 空ばかりに気を取られていたら、足に何かが当たった。それは、飲みかけのペットボトルだった。青いラベルがついた、スポーツドリンク――

 持ち主は――アマネ!

 拾った僕は、急激に現実へ引き戻される。なんにもなりやしないのに、パッケージに示された成分表ばかりを目がなぞった。

 ――今日台風だって知らないのか!?

 そうだ、波に飲まれる直前、僕はあの幼なじみと突然の再開を果たしている。台風が来ていることを、わざわざ伝えに。あいつは――

「これって、津波――いや、高潮か」

 昔、新聞で読んだことがある。台風と共に発生する海面上昇。それに僕は――そして恐らくは、あの幼なじみも飲まれた。

 途端、押し寄せる波のように――皮肉だが――吹きすさぶ焦燥感に、煽られる。

「……あまっ……アマネ!」

 大声なんて久しぶりだから、上手く叫べなかった。

 僕の心象と対置される現実は、しかし無風だった。ドームに声が響く。

 どこかにいるはず。僕のように運良く引っかかっているとは限らない。流出物の下敷きになっているかもしれない。港の方へ流されているかもしれない。

 今僕に、学校で起きたあの出来事を考える余裕なんてなかった。バシャバシャと音を立てて走る。

「アマネ!」

 今度はうまく叫べたが、返ってくるのはやまびこのみだ。やはり港の方に流されてるのかもしれない――そう思い振り返ったとき、港の方に人影が見えた。

「!」

 その人影は立っていた。こちらに歩いてくる。女性のようだった。彼女かと思ったが、揺らぐ焦点が合った途端にそれが違うとわかった。なぜなら――そもそも服装が違う。横縞のマントで身を包んでおり、加えて、その女性は白髪だったし――

 そしてなにより、水面を歩いていたのだから。

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