003
数時間後、僕は地上十メートル、海沿いに伸びた防潮堤の上で時間を潰していた。南西に港が見えるけど、あそこから以外は基本的に海へ立ち入れない。もちろん、僕のようなことをしない限りは。
僕が住む島は、内海に浮かんでいる。左右を山脈に囲まれていて、雨が降りづらい。台地と海岸平野で出来ており、住民の生活のほとんどは中央部の台地に集中していて、学校もその中腹にある。『下』に降りているのは僅かな観光産業と漁師、公務員の少数――最後の日に受けた授業内容は意外にも鮮明に覚えていた。確か地理。
僕はいわゆる不登校生徒だ。もう何ヶ月も学校に行ってない。
平日の、学校がある時間帯はいつもこうして――釣りの真似事をしていた。学校に行かなくなるまでは詳しく知らなかったけど。ただ、竿を吊るして待っていればそれでいい、傍から見たらそれで問題ない背景の一部になれるから――もし釣れてしまったとしても、すぐにリリースする。
今日は何故か普段に増して空虚さを覚えた。風が吹いている。
後背する壁面から四限終わりのチャイムが微かに聞こえた。
かなり遠いから、あちらからこちらに人がいることなんてわからない。こっちから見る学校だってかなり小さい。それに僕は今私服だ。たとえ見えても、気づかれない。
ここら辺の地域に住む高校生の大半は大陸の方へ出ていく。幸いにも奇跡的にこの島に高校があるので、近辺の子どもはここに通うことがある。それぞれ下宿したり、フェリーで通学したり。それでも規模の問題から――そして少子化過疎化から、生徒の人数はさほど多くない。どころか、学力や『外の世界』を求めてこの島の子どもでさえ外に出て行ってしまうことが多く、結局この島出身のみなかみ高校在籍生徒は現在僅か二人きりだった。
僕と――幼なじみ。
他は全て、外から来た人間だった。教員もそうだった。
「…………」
……そもそもは、ちょっとしたトラブルがきっかけだったはずだ。大したことなんてなかったはずだ。でも――自分でもよくわからないというのが本音で――人付き合いが苦手な僕が不和を起こしてしまうのはいつものことだったけれど――
でも、幼なじみと向き合ったのは初めてだった。
彼女との間に問題があったわけじゃない。島の外から来た人間の外気に晒された結果僕の内気が招いたトラブルだ。対して、彼女は外の空気に興味津々だった。結論、彼女が相手の肩を持った。
彼女が向こう側に立った。僕は本当に何も言えなくなってしまった。
次の日は金曜日だった。体調が悪いと担任に伝えて休んだ。土日を過ごした。月曜日、学校に行く気は起きなかった。
空が晴れていたから。
差す朝日が鬱陶しくて布団から出ないでいたら、ボケているくせに目ざとく――いや、単に朝食を用意していなかったからか、祖父が上がってきて、「お前なにしてるんだ」と怒鳴った。見透かされているんじゃないかと思ったけれど、どうしても動く気にはなれなかったから、先週の風邪がぶり返したとか、嘘をついて収めた。朝食だけ作った。固定電話回線は外しておいた。
次の日からはきちんと起きた。起きて、食事を用意して、洗濯をして、神棚への挨拶はしないで、制服に着替えて家を出た。その日、祖父の返事はなかった。
家を出たところで、四日も空けて今更と思い直し、階段を降りて海を眺めに行くことにした。『下』には人が少ないから、気が楽だった。そして、普段眺めていた防潮堤に登る入口を見つけた。家に釣り道具がしまってあったのを思い出して、次の日からはそこで釣りごっこをするようになった。
最初の頃は私服の着替えも持って出たが、最近では私服で家を出ても、祖父は何も言わない。自分の孫が高校生であることすら忘れていたのだ。飯が出ればそれでいいらしい。
波が荒い。空が重い。風が強くなってきた。
脳裏に浮かぶのは幼なじみの彼女が――昔の見る影もない、高校生になって、若者めいて洒落けに満ちていった粉だらけの顔が――考えるな、振り払え。
「とぷっ……」
ウキが沈んだ。しかし、逃した。
釣りは趣味じゃない。手段だ。僕の目的はこうして――祖父に――あの祖父にさえ、高校生を演じつつ、崖の上から刺さる目をなるべく避けながら、ここに逃げ居座ることが使命だ。そうするしかない。今更考え出したところで、答えがあるならもうとっくに出ているはずだ。
僕は彼女と違って『外』に興味はない。
島を出る必要がなかった僕には、『外の世界』のことはよくわからない。新聞とラジオでのみ知る外界はモノトーンだった。
島を出ることが出来なかった僕には、ここ以外を想像することが困難だ。僕には家族がいるから。
今僕はこの島を出ることも出来ないし、出たいとも思えない。さながら、呪われているようだった。ここ以外に有り得ないのに、ここでさえ苦しい。
しかし祖父は、いずれ死ぬだろう。近い将来の話。
でもそのとき、僕は『外』に出られるのだろうか。島を覆うこの暗い天蓋を自ら破る自信はなかった。『外』から来る『違うもの』に流され揉まれてしまった僕が、果たして『外』の奔流に抗えるのだろうか。
じゃあ、僕はこの島で死ぬのか。
どちらにしても早く死にたい。生きづらいから。
晴れてなくたって学校に行く気は起きない。
死んでいなくなれば楽だ。死にたい。
悪魔の体現のような黒い波が、普段より近く見える。僕を新たな人生へと妖艶に誘っているように見えた。今降りれば、多分死ねる。
……何を馬鹿なことを。僕は臆病者なんだ。死ぬ勇気なんてあれば、とっくに祖父を見殺しにして逃げている。動けないから僕は僕なんだ――考えたって無駄だ。
思考の潮汐に飲まれないためだけに見つめているウキが、その波に揉まれて時折見えなくなるけど……そもそも本当に釣りをしに来ているわけではなかったので気にしなかった。とりあえずは今日も夕方まで、ここで――と、そこでひと吹き、一際大きな風が起こった。
そして――不意に僕は、光を浴びる。
どうやら、強風に煽られてか、雲間が開いて日脚が僕に直撃したらしい。珍しいこともあるんだなと、緑色が残るその網膜で光の元を見遣ると、上空は晴れていた。雲の上だから、晴れていた。
「……あ」
そして、その窓からは、月が見えた。昼間の白く光る月が滲んでいる。
白球は僕のほぼ真上からスポットライトを照らす。
やめて欲しい、注目されてしまう、と危惧したが、
「……いやまぁ、誰も見ないか」
『下』には人が少ないのだ。
そう、自意識過剰だったと、反省した。気分が晴れないのはいつものことだけれど、今日は一段と――いつもは、晴れ空に皮肉を言われているような気がしてならなかったものだけど、曇っていたら尚更だった。
しかし、ただ、熱い。直射日光というわけでもないのに。干物の気分だ。強めの風も、涼しいわけではなく、ただ僕から水分を奪っていくだけの存在に感じる。徐々にこの巨大なコンクリート塊にへばりついていくような錯覚さえ覚えた。僕の、この島への呪縛をさらに強めるように――
ぺちっ。
突然、軽妙な音を立てて頬に何かが当たった。風で飛ばされてきたゴミだろうか――いや、それにしては――当たった何かは防潮堤の下に落ちていったようだ。頬を拭って臭いを嗅ぐと、生臭い。
後ろに乗り出して目を凝らしてみると、それは小魚のようだった。
「……魚……?」
風に乗って飛ばされてきた……? 竜巻に巻き込まれた小魚が空から飛んで来る事件を知っている。
僕の頬と、地面に打ち付けられてなお、絶命していない様子だったが、僕は小魚のために十メートルを降り、また登る気力はなかった。自分のことで手一杯なのだ。せめて竿に掴まっていようとするだけで両手が塞がっているのだ。僕は何も出来ない。僕は動けない。
それに、僕が暇潰しのために釣ってしまった魚じゃない、勝手に煽られて飛んできた魚だ。
知らない。
文字通り、どういう風の吹き回しか、雲間はまだ開いたままで、下に落ちた小魚は僕と同様に、炎天に
「……お前も僕と同じようにゆっくり干からびていくんだよ」
へばりついて絆されるんだ。
それでも助ける気にはなれなかった。風が強かったから。
そして、なるべくもう気にしないようにしながら、体勢を起こした――ら、誰かいた。
遠くの方で、片手をメガホンの形にしながら叫んでる声が、風の間に途切れ途切れで聞こえてくる。見覚えのあるシルエット。
「おい! セータ!」
叫ばれたのは、僕の名前だった。
「…………あ、アマネ――」
そこには――向こう側にいるはずの幼なじみがいた。もう片方でペットボトルを持っていた。青いパッケージの、スポーツドリンク。
どうしてだ。まだ学校は終わってない――それに、ここはバレていなかったはず。いやバレていても、今まで誰からも何の音沙汰もないんだ――というか、なぜ彼女が――
ぼうっとしていた間に、次第に強まっていた風は、僕の思考も途切れさせる。
「お前何してんだ! そんなとこいたら危ないぞ!」
……何を今更、心配するようなことを。
「……ふ」
突然、数ヶ月ぶりに顔を見たショックで頭が狂ったか、僕はそんな皮肉混じりな微笑さえ浮かべられた。
「今日台風だって知らないのか!? 島内放送聞いてるんだろ! ラジオで!」
え?
何か忘れたかと思っていたら、ラジオを持ってき忘れていたのだ。いつも暇つぶしに聞いていた。今更どうでもいい話だけど。
「早く! 早く上がってこい!」
その必死な形相は、数年ぶりだった。昔海で友達が溺れたときの顔が、あんなんだったっけ――
とにかく、身を案じられている。数ヶ月間見向きもされなかった人間に。
台風……? ラジオを忘れた――いや、今日の朝のラジオだけは聞いた、確かに聞いたけど、憶えてない。暗い空しか憶えていない。頭がゴチャゴチャになって、二の句が継げなかった。
「あっ! セータ! 後ろ!」
「!」
一際大きく彼女は叫んだ。
振り返った僕の目の前には――黒い壁があった。
「な――」
暗闇に飲まれた。
あっ。死ねるかも。
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