002

 その日、机越しの窓から臨む海は黒々としていた。

 空が暗かったから。

〔――内放送です。ただいま、八――で、――〕

 曇空は珍しい。北寄りの向きだから太陽は見えないけど、普段なら今の季節、晴れていればお昼にはちょうど、家の屋根の影が、海岸沿いの防潮堤と重なるのが見える。

〔――の――気は曇りですが、午後からは――が急速な――〕

 うちにテレビなんてないので、ラジオを聞く。朝起きてからの日課だ。

 でも今日は、どういうわけかラジオの音は耳に入ってこなかった。黒い海とその向こうに霞む対岸、曇り空との曖昧な境ばかりが気になる。焦点に集まる白黒つけられない灰色が苦しみながら鳴動しているように見えた。

 部屋は、いつにも増して暑かった。

「……」

「ガタガタガタガタ……」

 立て付けの悪い木枠の小さい窓が風に震えている。

〔――なお、――号は現在――湾を通過――り――〕

「……あ、時間」

 普段通りに起きたはずなのに、身支度を整えていたらかなり時間が過ぎてしまったようで、急いで一階へ降りる。

〔――に注意してください。警報が――〕

 調子の悪いラジオは窓の前でずっと独り言ちていた。


 僕はいつもと変わらずキッチンの前に立っていた。

 同時に自分の口の中に押し込みながら、二食分の簡単な朝食を作る。それから、昼食用の弁当も――同じ家で暮らす祖父のために。

 祖父は痴呆だ。

 詳しいことは知らない。診断書を目の前にして、認めてしまうのが怖かった。唯一の肉親である祖父が、遠くへ行ってしまうような気がしたから。

 だからといって、特段祖父と仲がいいわけじゃない。

 元々お互い口下手なのが拍車をかけて、上手くコミュニケーションは取れていなかった。

 祖父は、昔気質むかしかたぎな人間で――昔を知るほど僕は生きてはいないけれど――しかし幼い頃に両親を亡くした僕がきちんとこの歳まで生きてこられるくらいの助けはくれた。とてもしっかりしていた、数年前までは。地元の農家であり、痴呆でも長年続けてきた仕事は中々抜け落ちないようで、今もしているけれど、しかしその活動は、普遍的な農業の衰退に加えて、本人の仕事の粗が多くなるに比例して年々零細になっていく一方だった。

 ちなみに食事の用意は昔から僕の役目だった。

 幸い――か、まだ孫のことを忘れてはいないようだったが、それも時間の問題かもしれない。孫より長く付き合った農業を忘却しかけているのだから。

「じーちゃん、飯作ったから……昼飯はこれ」

「……おう」

 返事は来るか来ないか、まちまちだ。昨日までの三日は連続して、なかった。

「……」

「……」

 いつもは日焼けしている祖父を見ると、とても病気には見えなかったけれど、今日の曇天のせいか、電気を点けていない居間は薄暗く、祖父のくたびれたシャツの襟口から力ない老人の像を見るのはそう難しくはなかった。

 何か声をかけようとしたが、やめた。

 無言で食べる。頭を突き合わせて食べる。


 その他、朝にやるべきあれこれを済ました。

「じゃあ、行ってくるから」

「……あ、おい、セイタ、どこ行くんだ」

 玄関で一応の挨拶をしたところで、急に引き止められる。

「どこって……学校だよ。高校」

「どこだ」

八百やつも階段降りたとこだよ。みなかみ高校」

「……ああ……そうか、学校か……もう高校生になったんだな」

「…………じゃ、いってきます」

「出かけるときは神棚に手合わせてから行け。特に今日は――」

「さっきやったよ」

 言下に答えた。

 もちろんやっていない。祖父は神様に執着する節がある。痴呆のせいだろうか、単なる、老人ゆえの古い習慣だろうか。

「そうか」

 これも毎日のやりとりだ。慣れた。

 最近ではもう、祖父が変わってしまった当初の、家をあとにする不安はなかった。

 多分、大丈夫だから。今までも。

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