影に咲く花、陽に舞う涙
唯月希
第1話(完結)
戦火。
軍人が決死の覚悟で立ち向かう戦場に飛び交うそれは、容赦なく命の灯火を消していく。
命を奪う炎。
私が行きてきた大半の時間は、そんな戦火とは遠かったが、それでも戦場に従事して国を守護する、戦争の中にあった。
そんな極限状態で命のやりとりがなされる仕事を任される軍人という職業は、修練すれば誰でもなれるというものではない。選ばれたものだけがつくことのできる非常に名誉な立場であり、それが、守るべき祖国に選ばれるということになる。それは光栄なことに違いはない。
そう、違いはない。確かにそれに違いはないが、私は疲れてしまっていた。
ある冬のことだ。
私は久しぶりの長い休みを、生まれ育った町ではなく以前より戦火から一番遠いとされているとある港町で過ごすことにした。
以前から訪れたいと思っていた街だ。
周囲をそう高くはない綺麗な山々に囲まれながらも、その街の北側は大きく海岸になっている。田舎町と言って差し支えない規模の町でありながら、多くの船が貿易や、最近では観光で訪れる人も多いのだという。戦時中だというのに、上陸されていないとなると国内の様子はそこまで激変しないようだ。幸い、我が国は優勢で、物資や経済にも恵まれている状態が保てていた。指導者が優秀であれば、戦時中でも貴族は遊ぶ。
初めて訪れた時、私は特に下調べもしていなかった。出立の際に手渡された案内を兼ねた新聞も特に目を通さず、ほとんなにも知らずに街に向かった。
観光客のような先入観を持たずに楽しみたかったからだ。
到着した私は、まず船着き場の桟橋にほど近いレストランに入った。
軽食とコーヒーを注文したが、これが想像以上の出来栄えで驚いてしまい、店員に一言礼を言って店を後にした。
しばらく街の中を回っていると、やや高台に行き着いた。そこでようやく、周囲を囲んでいる山のほとりの一角に瀟洒な城があることに気づいた。しばらく眺めていると、先ほどのレストランで応対してくれた店員の女性も何用かやってきたらしく、声をかけてくれた。
それが、最初の出会いだった。
「あら、お客さん」
「ん?…あ、ああ!さっきのレストランの!奇遇だね。また会えるとは」
「そうですわね。とはいえ、またお店に来ていただければお会いできますよ…あの、お伺いしてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「見たところこの街の人ではないと思うのですけど…」
「ああ。首都の方から来たんだ。仕事は長めの休みを取って、少し気分転換とでも言うのかな」
「ああ、そうだったんですね。どうですか?この町は」
「いいところだ。以前こちらに友人が静養にきていたことがあるんだが、戻ってきた時に聞いた話で、一度は訪れたいと思っていたんだが、思った以上に素敵なところだね」
「お気に召しましたか?」
「ああ、とっても」
「それはよかったです。ここで生まれ育った者としては、とても嬉しい言葉です。あの、もしお嫌でなければ、ご案内しましょうか?」
「いいのかい!?あ、いや、でもレストランの仕事は…」
「この後は夜からなんです。なので、もしよろしければ……」
「願ってもないよ!まさかここで生まれ育った人と初日に知り合えるなんて!では、差し替えのない範囲で、案内をお願いしたい」
「ええ、喜んで」
「ああ、申し訳ない。申し遅れた。私はシュルツ。シュルツ・ド・ヴァインヘーゲンと申します」
「エミリーです。エミリア・スフォルツァと申します」
「よろしく、エミリアさん」
「エミリーでいいですよ」
「では私のこともシュルツと呼んでくれ」
「はい、シュルツさん」
それから彼女、エミリーは懇切丁寧に街の中を案内してくれた。それはとても丁寧で、きめ細やかで、この街を本当に愛していて、好んでいて、大切にしているという思いが伝わってきた。
加えて言えば道中、ほとんどが知り合いであろう街の住人に声をかけられ、にこやかに挨拶を返す彼女は、理想的な人物に見えた。
もしかしたら私は、この時すでに、思いを抱いていたのかもしれない。
軍人は、そうやすやすと他人に自分の身分を明かすことが禁じられている。
もちろん、家族や友人ならば別だが、現在は戦時中だ。わが国は上陸戦が行われているわけではないが、情報部の分析で、敵勢力の諜報部員が首都近辺に潜伏している可能性は否定できないという報告もある。
戦時下では、情報統制というのは非常に重要だ。私は階級上、暗殺でもされればそれなりに影響を及ぼしてしまう立場にある。軍から箝口令を敷かれるのは致し方のないことだった。
そんな事情もあり、エミリーに本当のことを伝えるわけにはいかなかった。
初めてあの町を訪れた逢瀬の時は、職業上の事由であるため、特に後ろめたさを感じることもなかった。
なかったはず、なのだが。
「あら、シュルツさん。こんばんは。また来てくださったんですね」
「やあ、エミリー。こんばんは。昨日はありがとう。おかげで今日も楽しく過ごせたよ」
「それは良かったですわ。ささ、どうぞこちらへ」
「ありがとう」
「今日は何になさいますか?」
「そうだな…まずはビールと…それからソーセージのアラカルトをお願いしようかな」
「ビールのサイズはいかがします?」
「1パイントでよろしく」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
昨日の昼間に訪れた時はそこそこ賑わっていたが、今夜はそうでもない店内を何気なく見回していると、すぐにビールが届いた。
「はい、まずはこちらを。アラカルトはもう少々お待ちくださいね」
「ああ、ありがとう。早いね」
「今日はお客さん少なくって、厨房も結構手持ち無沙汰なんです」
「どこかで催しでもあるのかい?」
「いえ。ただ、なんでも今日の夜は冷え込むという話があって。雪も少し強くなるみたいなんですって」
「おや、そうなのかい?そんな日に遅くまで大変だね」
「仕事ですもの。ただまあ、お客さんもほとんどいませんし、そんな事情もありますから、普段より早めに店じまいしようと先ほど話していました」
「そうだね。体を冷やしてしまって、風邪などひいてしまったら大変だ」
「ありがとうございます。あ、アラカルトもできたみたいですね。今お持ちしますね」
「ありがとう」
エミリーが運んできてくれるのを待ちつつ、ビールを一口いただく。
寒い日に冷たいものを飲む、というと体を冷やしてしまいそうだが、せっかくの休暇だ。楽しまなくては。
「はい、お持ちしました」
「ありがとう。おや!ヴァイスブルストもあるのかい!」
「ええ。こんな日に来てくれたお客さんに、厨房からサービスですって」
「ありがたい。私はこれが結構好きでね」
「二種類ありますが、片方は私のオススメです。ハーブお嫌いですか?」
「いや?ああ!この緑に見えるのはハーブが練りこんであるのか」
「ええ。そうなんです。でも、よかった。選んだものの、男性はあまり好みでないかもと思ってしまったものでして」
「そんなことは。ではそのオススメからいただこうかな」
私はエミリーの推薦というハーブ入りのヴァイスブルストをひとかじりする。とてもパリッとした皮に見えたが非常に柔らかく、これぞ、という歯ごたえ。
程よく熱の通った仔羊のひき肉から熱く滲み出る脂が肉の香りを鼻まで通し、さらに咀嚼すると奥からハーブが香ってくる。
なんとも絶妙なバランスに感じられた。
ソーセージにはビールだが、ここで飲んでしまってはせっかくの風味がもったいないとすら思える、絶品だった。
「これは素晴らしい。実にいいものだね。ありがとう、エミリー」
「いーえ。喜んでいただけたのであれば光栄ですわ」
私は満面の笑みで食らいついていたのだろう。そんな様子を見てか、エミリーも少しおどけて返してくれた。
その他のソーセージも絶品で、さらにハーフパイントの地ビールを開けてから店内を見渡すと、私以外の最後の客が帰るところだった。
今日はこの辺にしておこう。夜分は雪も降るそうだ。もしかしたら吹雪くかもしれない。
「エミリー、私もお会計をお願いするよ」
「あら、もうお帰りです?」
「冷えると聞いたしね。君も早く帰れたほうがいいだろう?」
「そんな、お気遣いただかなくてもいいですのに」
「いや、まだしばらくこの街にいるからね。風邪でも引かれて、このヴァイスブルストが滞在中に食べられなくなっては、私が困る」
「あら、そんなにお気に召しましたか。ありがとうございます」
「こちらこそ。絶品だったよ。ありがとう。厨房の皆さんにも、感謝を伝えておいてくれ」
「はい。みんな喜びます。ありがとうございます」
そう言って、私はチップも兼ねて少し多めの会計を済ませたあと、一度手洗いを借りてから店を出る。
すると、すでに粉雪がちらついていた。店を出るときに見た時計の時刻は、20時30分を少々回ったところだったはずだ。
これは遅くなったら本降りになるかもしれない。
吐く息が白い。
粉雪に逆らうように舞い上がって行く息を少しの感傷を持って見上げる。
戦場にも雪は降る。でも、白い息を見上げる感傷は持てないだろうな。それより、攻撃による爆発の黒煙を観測しなければならない。
そんなことを思い、ゆっくり歩き出すと。
「シュルツさん」
数歩離れたところで声をかけられた。
「おや、エミリー。もう店じまいは良いのかい?」
コートを着たエミリーが立っていた。
見るからに帰宅するための出で立ちだった。
「ええ。後片付けは厨房の俺たちでやるから女の子は早く帰れって、追い出されました」
「良かったじゃないか。本降りになる前に帰れて」
「ええ。とても優しい人たちで、私は恵まれています。あ、あと、シュルツさんがからの言伝を、お伝えしたら、とても喜んでいました。ぜひまた来てくれ、サービスするから、って」
「そんなことを言われたら、毎日でも行くしかないじゃないか」
「ぜひいらしてください。毎日でも」
「いいのかい」
「もちろんですよ。毎日シュルツさんにお会いできますし」
「…エミリー?」
「あ、いえ、あの、すみません」
「…送るよ」
「え、でも遠いですよ!昨日お会いした丘の向こうなので!け、結構です大丈夫です!この街は治安も悪くないですし」
「それは分かっているよ。ただ、こんな静かで穏やかで、時間の流れを遅く感じる夜を過ごせることはなかなかない。君を家の近くまで送ることは、君と話しながら歩くことの言い訳には、ならないかな?」
「え…あ、あの、えっと…シュ、シュルツさんの宿はどちらなんですか?」
「…丘の手前に、小さな宿があるじゃないか。あそこだ」
「あ、そうなんですね。アルメリアさんのところなんだ。なら、そこまでご一緒してもらっていいですか?」
「強情だな君も」
「シュルツさんこそ」
そうして私たちは粉雪がゆっくりと降り、うっすらと雪の積もる石畳みの道を、並んで歩き出した。
なにか、奇妙な緊張感が否めない。
「お酒、お強いんですね」
「まぁ、商人をやっているとね。客先と席を設ける機会も多くて。自然とそうなってしまったよ」
「昨日の昼間思ったんだが、君は人気者なんだね。思えば、みんな名前を呼んでいた記憶がある」
「単純に、あのお店で給仕している女が私だけっていうこともあります。休みの日は男の方が入ってるんですよ」
そんな、他愛もない会話をしながら、何かを惜しむように、お互いの歩調が落ちて行く。
雪は少し強くなって来たようだ。風も先ほどより心なしか強い。やはり吹雪くか、などと考えていると、丘が、見え始めた。
「…そ、そろそろお別れ、ですね」
「ああ。また明日、レストランに行くよ」
「あ、あの。実は」
「ん?」
「明日は、私、お休みで」
「おや、それは残念。隠し味がない日か」
「シュ、シュルツさん!からかってるんですか!?」
「いやいや、すまない。少しふざけてみただけだよ」
「…街の外から来た人に、ここの寒さはこたえます。宿に戻って、ゆっくり温まってください」
それまでリラックスするように下げられていたエミリーの腕が、急に両手を握り出す。
「…エミリー。僕は、一つ嘘をついてしまった」
「…知ってます」
「ごめん」
「いいんです。それは、優しい嘘です。ありがとうございます、シュルツさん」
「あ、いや…」
「シュルツさん。私明日お休みなんですよ。もしよかったら…その…お嫌でなければ」
「この寒い中、もう少し付き合ってもらうことになるけど、いいのかい?」
「…あ、温めていただけるのなら」
「戻ろう」
固く握られたエミリーの両手を握ると、それは震えていた。
寒さか。
緊張か。
どちらにしろ、私は自分の境遇を理由に、見ないふりをするところだった。
エミリーの左手を握る僕の右手が温まっていくのがわかる。他人の温もりなど、ほとんど忘れてしまっていた。
自分の都合ばかりで狡いけれど、それでも、僕は。
宿に着く頃には、雪が本降りになっていた。視界は良好とは言い難い。風が弱い分は救いだった。
この雪が、僕の自己嫌悪を増幅する。
この雪が、僕に彼女の肩を抱かせてしまう。
この雪なら、ぼくらを、僕を、許してくれる気がしていた。
僕は、見知らぬ地からの来訪者だ。
いずれは離れてしまう。
ただ。
でも、だからこそ。
寂しさを共にしてでも、彼女の気持ちを今だけでも汲んであげられるなら。
高まる気持ちと乖離する罪悪感。
膨れ上がる想いが押しつぶすようにしていく罪悪感。
自己嫌悪に苛まれながらも、それも失礼だと感じる。
凍えているのかもしれない彼女の想いを、少しでも温めてほぐしてあげられるなら。
僕は、自責の念くらい、喜んで受け入れよう。
そして、僕の罪が始まる。
朝起きると彼女はおらず、書き置きがあった。
"ごめんなさい。今日お休みとお伝えしたのは、嘘だったんです。
あなたと、居たくて、嘘つきになっちゃました。
おあいこですね。
でも、ごめんなさい。
先に失礼します。
こんな私でもよければ、またお店に来てくださいね。"
私は、初めてのその街への滞在期間中、毎日その店に通った。
昼だったり夜だったり、時間はまちまちだったけれど。
ほかの店の料理も楽しみながら、その店が居心地が良くなっていったからだろう。
それは、エミリーが休みでも関係なかった。
そして、幾度か、エミリーとの逢瀬も重ねていった。
私は人目をはばかる必要はなかったし、エミリーも隠すそぶりはなかった。
そして、休暇が開けるため、私は街を出る。
その日も、彼女は見送りに来てくれた。
必ずまた来るという約束をして。
しばらくして。
我が軍の優勢が決定的になって来たタイミングで、また少しの休暇をもらえることになった。
季節は秋にさしかかろうかという頃だった。
私は早速あの街に向かう。
エミリーは、元気にしているだろうか。
手紙は送り合っていたから、近況はわからないということはなかったけれど。
そのなかで、いろいろなことを知った。
天涯孤独の身であること。
国外に留学していた兄弟が、今の戦争で亡くなったこと。
母親は病気で亡くなったこと。
無くした両親の何らかの負債で、人の倍働かなければならないこと。
趣味のこと。
街のこと。
昔の恋の話。
様々な彼女を知ることができた。
そこに対する僕の返事が、嘘であることは、やりとりを重ねるほど言えなくなっていく。
戦争が終わったら、いっそ全部話して、首都に来て欲しいと申し入れようか、とも考えた。
ただ。
兄弟を殺した戦争は憎いはずだ。
その戦争を行う軍属である私に、彼女はうなづいてくれるのだろうか。
命令が私の現実と僕の現実を歪ませて、いびつな世界を作り出していく。
「いらっしゃ…」
街についた私は、宿に荷物を置いて、真っ先にレストランに行く。
案の定、エミリーがそこにいた。
「…お久しぶりです、シュルツさん」
「ああ、久しぶり、エミリー」
溢れそうな満面の笑みに、僕の胸が、ギシリ、と、音を立てて、軋む。
数時間後、私の部屋に、エミリーはいた。
対面した時に感じた印象を、肯定せざるを得なかった。
彼女は、見るからに痩せていた。
何かあったのかもしれない。
私が、僕が踏み込んでいいのかわからないけれど、それでも気丈に談笑している彼女の方が、笑うたびに骨の影を浮き立たせる。
「やっぱり、どんな人も素敵だね。この街は」
「ええ…また来てくれて嬉しいわ。シュルツ」
二人きりになると、そう呼び、語尾も砕ける。
素敵な癖だった。
「エミリー。なにか、困ってることはないかい?」
「…困っていること?」
「ああ。手紙に書いてくれたいろいろが、僕にはまるで別の世界のように感じられてしまってね。とても申し訳ないことなんだけど。
そんな世界で生きている…その…愛している君を、何か助けたり、支えたりすることはできないかと思って。ぼくではその、世界を変えることはできないから」
「……」
「何でもいいんだよ。僕の前で、繕わなくて今のように、そのままのきみでいいんだ」
「……」
「ごめん…少し踏み入ったことを聞くよ。手紙に、お父さんのことが何も書かれなかったことが、何か関係あるのかな?」
「…そ、それは…」
抱いていた彼女の肩が、少し跳ねた。
そうして、彼女は泣きじゃくりながら、悔しそうに、話し出した。
彼女の父親は軍属だった。
しかし一部の、志を違える者たちの策略にはまってしまい、多額の賠償金を背負わされ、軍を追われた。
幼くに母親を亡くしている彼女は、兄弟も戦火で失い、いよいよ身寄りが父親のみになった時、その事件が起きた。
それからの父親は悲惨だった。
自暴自棄になり、しばらくは何もしなくなっていた。
ある日、エミリーが部屋に食事を持っていくと、消えていた。
数ヶ月後、父が賞金首になっていることを知る。
多額の賠償金には及ばないが、かなりの額だったそうだ。
軍にいた経験が、彼を有能な犯罪者に仕立て上げて行った。
そして、彼女がそれを知った翌日の朝。
目覚めると、手が血で濡れていた。
何事か、と思うと、ベッドの下で父親が絶命していたのだ。
私は、娘によって葬られたというメッセージを残して。
そうして賞金は彼女の元に入り、賠償金の大半を返すことになる。
しかし、足りなかった。
大部分を返したことにより一旦は穏やかになったその催促が再開され、その支払いを続けているがために、彼女はやせ細って行ったのだろう。
今彼女が住んでいる家の一室に、父親の血痕はいまだ残されているそうだ。
頭がクラクラした。
なぜそんなことが、こんな彼女を襲うのか。
そして彼女は、口にする。
「だから私は軍人が大嫌いだ」
と。
残して行ってしまった。
権力争いでひどいことをした。
それが、残された者に何をもたらすかは、軍内部での自分たちの立場に比べればゴミ程度にしか考えていない。
と。
だから、私は、軍属が大嫌いだ。あんなもの、滅べばいいのに。
と。
その夜。
泣き疲れて眠るエミリーの横で、私は、呪いのようなその彼女の言葉の力に負けて、眠ることができなかった。
翌日。
いつかの朝のように、目覚めると彼女の温もりはなかった。
残り香も、ない。
机の上に、ひとこと。
ごめんなさい、とだけ書き置きが残されていた。
謝るのは、僕の方だと思って、私はそれを丁寧に畳んでカバンにしまう。
今回の休暇は短い。
明日にはここを発つ。
今日は、会ってくれるだろうか。
レストランに行くと、彼女の姿がない。
厨房のコックが給仕も担当しており、かなり多忙な様子だった。
時間をずらしても問題ないと思い、一度エミリーのことを伺って、今日は本当に珍しく昼を休みにして欲しいということだった、夜は来てくれるってことになった、と聞く。
私は、丘の向こうにあるという彼女の家を探した。
周囲の民家に聞くと、やはりみんなエミリーのことは知っているらしく、すぐにわかった。
古いが大きい木造の邸宅だった。
その玄関のドアをノックする。
「はい。どちら様ですか?」
と、扉が開く。
扉越しでは私の声と分からなかったのだろう。
訪ねてきたのが私であることを、顔を見て認識すると、大層気まずそうにしながら俯いてしまう。
「…シュルツさん」
「やぁ、エミリー」
「ど、どうしたんですか?」
「お店に行ったら、昼は休みにしたと聞いてね。今は書き入れ時だし、時間をずらそうと思って、どうせなら君と過ごそうかと思って」
「あ、えっと…その…あ!どうぞ!入ってください!」
「え?良いのかい?」
「は、はい。あんな話をした後でも、よければ」
「私は構わないよ」
「で、では、どうぞ…」
「ありがとう」
入ると、少しの廊下の奥にリビングがあった。
季節は秋めいたきたと言えるくらいの夏の終わりだが、この街は少し寒い。
そのせいか、薪ストーブが弱く焚かれていて、とても柔らかい暖かさがある。
この手の温もりは、香りもいい。
ダイニングテーブルの椅子を促されて、そこに座る。
程なくして、紅茶がサーブされた。
「こんな。気を使わなくていいんだよ」
「いえ。お客様ですし」
「…エミリー。もう前のようには、話してくれないのかな」
対面に座って、同じように紅茶のカップを置く彼女の片手に、ゆっくりと触れる。
ぴく、と少し動くが、それだけだ。
「…あんなことを、泣きじゃくって、ぶちまけて。あなたには、関係のないことなのに」
「もう、僕には会いたくなかった?」
「そんな!…そんな、こと。ただ、誰にも話したことのないことを、あんな風に、よりにもよって初めてあなたに話して、あんなに喚いてしまって。その…幻滅されただろうな…って」
「初めて、話したのかい」
「ええ」
「なら、こちらこそすまない。もっと君を、ちゃんと温めてあげるべきだったね」
「……どうして?」
「何がだい?」
「どうしてあなたはそんなに、優しくできるの?どうしてそんなに、優しくしてくれるの?」
「信じられないかい?」
「そ、そうじゃなくて。私はそんなこと、されたことがない、から。分からないの。
朝、よく先に部屋を出るのは、あなたに起こされたら、どんな顔をすればいいのか分からないの。
たぶん、その、きっと……すごく、すごく、幸せなんだろうなって思うけれど。
昨日、愛してるって言ってくれて、その時みたいにきっと、何もかもが抱きしめられそうになったって感じるくらいきっと幸せで、満ち足りるんじゃないかって。
でも、今までの私に、そんなことはなかった。あなたは明日この街をまた去るわ。
その時に行かないでって、言ってしまいそうで。本心が暴れてしまいそうで。でも、それは、だめよ。
いくら本心でもそれはだめ。きっとまた会えるから、また会いにきてくれるって、そう思ってるから。
でも、私は…」
「なら、試してみようか」
「なにを?」
「君がよければ、今晩は、ここに帰ろう。そこで夕飯を一緒に食べて、一緒に話して、眠って、明日の朝は、僕が起こすよ。どんな気持ちになるか、試してみようよ」
「え…でも明日戻るなら宿に」
「大丈夫。船は昼過ぎだから」
「……シュルツ」
「ん?」
「…ありがとう。こんなに嬉しくて、安心できて、優しくて、暖かいの、初めてだわ」
「ぼくもだよ、エミリー。あ、でも、その…」
「え?」
「あ、愛してるって…言ったのは….一回忘れて欲しいなって…」
「…も、もしかして、恥ずかしいの?」
「い、いや!そんなことは!本当だし!」
「なら、絶対に忘れないわ。愛している人に、愛されてることなんか、忘れようとしてもできるわけないじゃない」
まっすぐに僕の目を見てそんなことを言うエミリーの心が、まるで綿毛のように優しく僕の心を撫でていくけれど。
それが僕の、どうしようもなく抗えない強烈な痛みであることを、僕はまだ君に伝えていない。
君が呪った、その相手は、僕でもあるんだよ。
押し寄せる自責の念から逃げるように、僕はエミリーとの時間に身を委ねた。
…いや違うな。自分はこれでいいのだと言い聞かせ続けた。
今は。
今だけは。
僕らがそのままダイニングテーブルで向かい合って話していると、時刻は夕刻になった。
「あ、そろそろお店に行かなくちゃ」
「あ、なら僕もいくよ。もしよかったら、ここの鍵を借りてもいいかな?」
「鍵?いいけど、どうして?」
「一杯だけビールをいただいたら、食材を確保して帰ってきて、夕飯を作りながら君を待ちたいと思ってね」
「…そんな」
「僕のわがままだけど、聞いてくれるかい?」
「…本当に、ありがとう」
その後僕らは彼女の勤めるレストランへ赴き、ヴァイスビアを一杯と、結局ヴァイスブルストを2本ほどいただいて、彼女との夕食をもてなすために店をでた。
時刻は、夜6時を回ったところだ。この後、彼女は夜10時に店を終えて帰路につくとのこと。
今日は迎えに来れたら来ようかなと考えつつ、私はメニューを考える。
近くにいいパン屋があると聞いて、シチューと決めた。精肉店で少しの牛肉。生鮮店で野菜を買いこみ、雑貨店で調味料も確保して、彼女の家に向かう。
預かった鍵についているのは革製の細い紐。
もうだいぶ古くなっている。
僕は思いついて、一旦引き返した。
シチューを仕込み、バゲットをオーブンに入れられるサイズに切り落とす。
煮込んでいる間に、思いつきのアイディアに取り掛かる。
人生で、感じたことのない、なんとも言えない時間だ。
そんな時間を過ごしていると、彼女の仕事が終了する時間が近づいてきた。
私はコートを着込んで、マフラーを巻いて、玄関を出、鍵をかける。
なんとも奇妙な感じがした。
店に着くと、ちょうどエミリーが出てきた。
うっすらと北風が吹いていて、それになびく彼女の髪が、まるで羽のようだった。
「やあ、エミリー。迎えにきたよ」
「シュルツさん」
なんだか、まるで。
戦争なんて、起こっていないような気すらしていた。
僕が軍人だなんて、想像もしないだろう。
僕も自分が軍人だなという事実を、この時ばかりは否定したかった。
自宅に到着して、シチューを再度温め、オーブンでパンを温める。
バターとクラッシュガーリックを少々塗った、バゲットだ。
ほどなくして出来上がり、二人で食卓につく。
そこで僕は、先ほどの思いつきを手に取る。
「食べながらで構わないんだけど、聞いてくれるかい?」
「何?」
「これを」
「…これは?」
「鍵を借りたじゃないか。その鍵についていた紐が少し古くなっていたと思って。思い入れのあるものなら壊してはいけないし、と思って、もし代わりに使えれば受け取ってくれないかな」
僕は、あの時、雑貨屋に引き返して、牛革の素材を買ってきて、シチューを煮込みながら加工していたのだった。
「…私に?」
「あ、ああ。迷惑じゃなかったかな」
「……すごく嬉しい。ありがとう。あの紐は、毛糸を編み込んで作ってあるから、あまり丈夫じゃなかったの。だからすぐ切れそうになっちゃって。こんなに立派なものをいただけるなんて。ありがとう」
「材料を買ってきて見様見真似で作ったから、ちょっとイビツなんだ。ごめん。ま、まあ、食べようか。冷めてしまう」
「…え?」
「ん?何だい?」
恥ずかしさがちょっと込み上げてきた僕が照れ隠しにシチューをスプーンでひとさじ口にした時に、エミリーからそんな声が飛んできた。
「……」
「ど、どうしたんだい?やっぱり気に入らないかい?」
「…これ、売っていたんじゃ…」
「あ、ご、ごめん。材料を買ってきて作ったんだ。ほんとちょっと縫い合わせただけなんだけど、裁縫なんてろくにやったことがなくて。下手くそですまないね」
「………」
ギョッとした。
エミリーの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれはじめたのだ。
「!ど、どうしたんだい!どこか痛むのかい?!体調が悪いとか!?」
「………本当に、あなたを愛しています」
「え………」
「本当に本当に、愛しています。すごく愛してる。愛おしくてたまらないわ。ありがとう。どうしたらこの恩を、私はあなたに返せるのか……」
「恩だなんてそんな。た、ただの皮の紐じゃないか」
「…私にとっては、どんな高価な石よりも、金塊よりも…いいえ。命より大切なものなの。あなたの次に大切な、宝物をありがとう。ありがとう、ありがとう………」
まさかそんな言葉を言われるとは思ってもいなかった僕は、困惑してしまって。
言葉を失ってしまった僕は、彼女に触れることを選んだ。
「……シュルツ……」
「エミリー。大丈夫だよ。僕は、君と共にある」
「……もう、なんて言っていいか……」
「いいんだ。言葉なんて、今はいい。大丈夫だよ」
それから、エミリーがもう少し落ち着くのを待って、今度は楽しい夕食が始まった。
「そしたら厨房のアルフレッドが苦手だって言ってた掃除をはじめてね」
「それはいいことじゃないか」
「でも、その掃除、気になってたから見てたんだけど、なんか恐る恐るで、小さい子供が初めてやる掃除みたいだったの」
「それは、失礼だけど面白いね」
「でしょう?もうおかしくって」
「そうなんだ。そんなことが。幸せな時間だね。と、そういえば、似たようなことがあったよ」
「本当に?」
「僕の父親がね。母に気を利かせて結婚記念日のプレゼントを買ってきたんだ。僕が20才の時だから、21年目なのかな。その時に、買ってきたネックレスが、実は何年も前に渡したことのあるものだったんだって」
「えぇ!?それは、お母様にとっては少し残念ね」
「そうかもね。でも母は、笑いながら言ってたよ。そんな昔にもらったものをまたもらえるなんて、私の美しさはあの時と比べて衰えてないってことかしら?って」
「へぇ。それで、お父様はなんて?」
「自分でもなんか感づいていたらしくて、昔に渡したことを思い出したんだろうね。その通りさ、君はあの時の何もかわらないよって言って、バラの花束を差し出したんだ。用意してたんだ」
「素敵!」
「まさか息子に見られているとは思いもしなかっただろうけどね」
「なんか、シュルツはお父様に似てるわね」
そんな他愛ない会話を交わした後で。
僕らは食事の後片付けを済ませた後でそれぞれシャワーを浴びて。
一杯のホットミルクをそれぞれの手元に置いて。
「ねえ、エミリー」
「なあに、シュルツ」
「暖かいね」
「…ええ」
「僕は明日、この街を去ってしまう」
「……ええ」
「これから冬が来る。帰る僕は君を一人にしてしまう。それでも、僕は君に暖かく暮らしてほしい。だから、渡したいものがある」
僕は立ち上がり、自分のボストンバッグから、一通の封筒を取り出す。
「これを、中身を見た上で、受け取ってほしい」
「…なに」
「君の手助けがしたいだけなんだ。君の震えた肩に触れる回数は少ない方が、僕が嬉しい」
エミリーは封筒からゆっくりと一枚の紙を取り出す。
「……小切手」
「露骨で済まない。そして、それが、君の個人的な事情に対して、不躾に踏み込んでいくことになってしまうことを許してほしい」
「……でも、これは……」
「エミリー。君はちゃんと頑張っているよ。ちゃんと生きているよ。大丈夫。それをただ、支えたいだけなんだ。
……愛している人が苦しんでいる姿を、僕が放っておけないだけだから。でも、今は、ずっとそばにいることができない。だから、僕のわがままを聞いてやるくらいのつもりで受け取ってほしい。
何も言わないでいてくれたら、僕は本望だよ」
「………」
その夜。
それきり、その話はなかった。
甘えてくれたんだろう。それが素直に、純粋に、掛け値なく、嬉しかった。
翌朝。
僕は、エミリーのベッドで、隣で起きた。
初めて、じゃないだろうか。
熟睡している彼女の寝顔。
起こさないようにゆっくりと抜け出して、ケトルに水を注ぎ、火にかける。
そうして、声をかけた。
「エミリー」
「……」
「エミリー?」
「……ん……お……うさ……ん……」
「………」
やはり、疲れているのだろう。
僕はもう少し彼女を寝かせておくことにして、蒸気を吹き出し始めるケトルの火を止め、コーヒーを一人分作る。
あとで起きたら、淹れてあげよう。
朝日の差し込む窓際で、薪ストーブに少しだけ火をくべて、リビングを温めておくようにして、寝室の窓辺でコーヒーを飲む。
そして、想う人の、目覚めを、ゆっくりと待つ。
「ん…」
「おや、お目覚めかな?」
彼女はゆっくりとなぜか両手を確認するように見てから、また布団に潜り込む。目しか見えない。
「なに?どうしたの、エミリー?」
「…シュルツ…見た?」
「なにを?」
「….私の寝顔」
「見てないよ。君の頬に反射する朝日なら見たけど」
「〜〜〜〜!!!」
顔を真っ赤にして布団に潜り込むエミリー。
「ごめんごめん。意地悪をしたね。うそだよ。寝顔は見てない。君を見てた」
「そ、そっちの方が!」
「あはははははは」
「もう!笑い事じゃないです!」
「可愛いなぁ君は。可憐だなぁ君は。君に会えて、僕は幸せ者だね」
「………」
「ん?」
「こ、こちらこそ、です」
ほおを真っ赤に染めて恥じらいながら言う彼女に、僕は胸を締め付けられる。
そして締め付けるのは、無数の、鋭利な、棘だ。
痛い。
苦しい。
自分で選んだ自分を包む嘘が、僕の喉元に剣を、頭上に大剣を、かざしてくる。
でも、僕にはその時、その痛みに、その刃に立ち向かう勇気はなくて。
ただただ、ひたすらに愛しい彼女のことだけを、笑って見ていた。
あの冬に始まった僕の罪は、罰を纏いつつあった。
その翌日、私は首都に帰還した。
戻っても、戦況に大きな変化はない。
我が軍の優勢は決定的であり、もはや終戦は時間の問題だった。
終わったら、また長めにあの街に滞在できないだろうか、などと考える。
そしてその間に、私が軍属であり、今回の戦争に大きく関わっていたことを伝えよう。
もう、どうにもならないくらいに、僕の自責の念は膨らみ、肩の荷ともいえないほどに、それは足にくくりつけられた枷のように重く重く、心にのしかかっていた。
ただ、告白を考えると、つい臆病になってしまう。裏切っていたとか、嘘をついていたと言われるのは仕方ない。しかし。
僕の心は、重みをなるたけ軽くするべく、どんどん狡く、臆病になる。
まだ何度かだけだけれども、抱いた肩の感触が手のひらに蘇って消えていく。
暖かさと罪悪が、キスをしながら首を絞める。
そんな夜が幾晩も続いて。
そして、初雪の日。
去年のあの街の雪を思わせるように雪が舞い降りた日。
終戦が告げられた。
冬がやって来る。
それはたぶん、僕の罰も連れて来る。
終戦の後の方が忙しかった。
戦後処理というやつだ。
戦時中から準備はしていたものの、各国に飛び回らねばならず、加えて国内での業務もある。
幸い我が国は上陸されていなかったために復興という作業がまるでなく、その点では幸運と言えた。
そして、気づけば白鳥が飛来するほどに寒さが強まってきた頃、私はようやくまとまった休暇を獲得して、港へ向かっていた。
「シュルツ中佐」
あの街へ向かうため、港に着いた時に声をかけられた。
聞き覚えの少ない声。
しかし、聞き覚えのある声。
情報将校か。
「休暇中、申し訳ございません。急遽辞令が下ったため、お伝えに上がりました」
「敬礼、は、休暇中はいいか。ヴェルレンストレム少尉。ご苦労」
「はっ。とんでもありません」
「辞令を」
「こちらです」
私は、糸で閉じられた茶封筒を受け取り、それを解いて中身を確認する。二枚程度の、簡単な書類。
「…承諾した。命令を遂行する」
「了解であります。期限に間に合うようであれば休暇は予定通りでも問題ないとのことです。では、私はこれで失礼いたします」
将校はそういうと、きっちり180度反転して、きびきびと戻っていく。
やれやれ、だ。
私は書類をボストンバッグの奥にしまい込む。
自分が軍属であることをエミリーに告白するにしても、この書類を見られるわけにはいかなかった。
しかし、まさかこんなことになろうとは。
街に着いた私は、荷物を置いて、レストランへ向かう。
時刻はもう夜だ。道に沿う窓から中を軽くのぞいてみると、まだ若干空席があった。
それに、一人で訪れている人も多い。
僕はそれだけ確認して僕は入店する。
「……シュルツさん」
給仕がや会計、案内、いわゆるフロアが彼女の主な仕事なので当たり前なのだが、真っ先に迎えてくれたのが嬉しかった。何か、感慨を抱かずにはいられない。
それくらいに。
「やあ、エミリー。久しぶり」
「ええ。終戦のニュースを耳にしてから、もしかしたら近いうちって思ってはいましたけれど、本当になるなんて。さ、こちらへどうぞ」
「お?エミリーちゃんの恋人さんか?」
他にいた、僕でもよく目にする壮年の男性が一人で訪れていた。もう幾許か飲んでいるらしく、明るい声で陽気にエミリーをからかう。
「ち、違います!」
「え?違うの?」
とは、僕だ。いい機会なので少しふざけてみる。
「も、もう!シュルツさんまで!知ってるでしょう!」
「え?恋人じゃないの僕?」
「………そうです……」
「アッハッハ!!」
からかった男性が豪快に笑う。
「も、もう!今ビールお持ちしますね!まったく!」
エミリーが厨房へ下がっていく。
僕は案内された先の背もたれにコートをかけていたが、腰をかけそうになって、ふと声をかけられる。
「おう若いの。もし良かったら、こっちにこんか?」
「え?いいんですか!喜んで!」
僕はその正面の席に移動する。
そのすぐ後にエミリーがビールを運んできて、少し驚いたようにした後、がっくりと肩を落とし。
「もう、なんで一緒なんですか……」
「誘っていただいたんだ。ありがたいことだし、断る理由もないしね」
「はぁ…でも、なんか嬉しいです。シュルツさんが、この町でこういう風に誰かとお食事してるの、初めて見ますし」
「そうだね。ラッキーだったよ」
「おう若いの、ビールもきたことだし飲もうじゃないか!」
「ええ。それでは、乾杯」
「乾杯!」
楽しい食事が始まった。
僕はゆっくりとグラスを傾けながら、相席を誘ってくれた紳士との話に花を咲かせて、閉店まで過ごした。
紳士は一足先に帰路に着いたので、僕が最後の退店客だった。
「シュルツさん」
会計を終えた後で出ようとすると、エミリーにまだ大丈夫ですからと留められ、最後のビールを傾けていると、エミリーは荷物を持って、隣に座った。
「おや?どうしたんだい?」
「もし良かったら、みんなのお食事に少し、付き合っていただけませんか?」
「みんな?」
「はい」
すると、厨房のコック達が、両手にビールと料理を持って続々と4名、僕らの目の前のテーブルに置いて、過去こむように座る。
するとその中の一人が声を上げる。
今日もお疲れ様でした!そして、エミリーの幸せを願って、乾杯、と。
とても心地いい空間が、流れていく。
ひとしきりみんなで食事を楽しんだ後、ご馳走になった礼をと、後片付けの手伝いを申し出たものの、いいから、と僕とエミリーはまるで追い出されるような形で店を後にした。
寒空。
僕がエミリーと初めて出会った時のような、空。
そして、そっと繋がれる手。
「あの…お部屋、お邪魔してもいいですか?」
「あ、ああ。歓迎するよ」
この街での滞在中は、まるで当たり前となったことのように彼女を部屋に招く。
荷物を簡単に整理して、私は先にシャワーを浴びる。
暖かい。真冬にもかかわらず、これだけの温水の出る設備が、行き渡っているというのはありがたい、と、以前の冬も思ったなと思う。
エミリーにすぐにでも譲ってあげなければ、と、早々に切り上げて部屋に戻ると、エミリーが立って何かをしている。
「エミリー?どうしたんだい」
「…どういうこと?」
「ん?なにが…」
なにをしてるのかと覗き込んだところにあったのは、絶望だった。
「これ…軍の命令書よね」
「…ああ」
「しかもこんなに。お願い。教えてシュルツ。これはなに?あなたはだれ?」
「僕は…私は、国軍中央統制府の、シュルツ・ド・ヴァインハーゲン中佐だ」
「……」
「エミリー。僕は君に、伝えなければいけないことがある。今から話そうと思う。いいかな?」
「…ええ」
「じゃあ、座ってくれ」
「はい…」
「ありがとう。僕も失礼する」
「……」
「僕は、軍属だ。隠していて申し訳ない。戦時中は、身分をあかせない立場にいたせいで君にも本当のことを伝えることができなかった。本当にすまない」
「…嘘を、ついたの」
「…そうだね。そうなってしまうね」
「なんで?」
「命令だ。戦時下では、その時点で知るもの以外にその身分は秘匿しなければならない」
「商いをしているっていうのは?」
「ごめん。仮の身分だ」
「……あのお金は、何人の人を殺して手に入れたもの?」
「…それは…」
「私が、軍を、軍人を、憎んでいるのを知って、それでもこうして今まで会ってきた。二人で、抱き合った。手を繋いだ。私は、きっとまだたぶん愛してる。もし…もしあなたが自分の口からこれをきちんと伝えてくれれば、私は、そんな軍人に対する嫌悪も憎しみも、克服できたかもしれなかった!いいえ!できたわ!その自信はあるもの!でも、でも…やっぱりまた…裏切られた」
「エミリー。僕は」
「私がスパイだとでも思った?!あなたが私に身分を明かしたら、戦争が不利になるとでも?そうでないとしても、やっぱり私より軍の命令が優先なの?そうよね。だから今、私はこんなことを、こんな声を荒げてあなたに言わなければ正気も保てなくなってる。こんなに、まだこんなに、とめどなく、愛しているのに…」
「…すまない。終戦したら、伝えないととは思っていたんだけど」
「ほらやっぱり。私より軍規が優先なのよ。私の軍に対する思いも知っていて、あなたはそうすることを選んだのよね。
「エミリー」
「やめて。エミリアよ」
「…エミリア。僕は、君に伝えなければならないことが、他にもう一つある」
「なに?まだ嘘をついていたの?」
「違う」
私は震える体を奮い立たせ、自分のバッグから、彼女が真実を知ってしまった封筒を取り出して、その書類を取り出して戻り、僕らが挟んでいるテーブルの上に、それを置く。
「…なに、これ」
「エミリア。僕は一つ、任務を帯びてしまってここにいる。
ジュドー・スフォルツァ、ならびに・スフォルツァ両名は、君の兄弟で間違いないね?」
「ええ。二人とも戦死したわ」
「そして3階級特進した。これは、エミリアも知っているよね」
「ええ。それが何か?」
「…実は、二人が戦死した作戦は、僕のいる中央統制府の認可を受けていない命令だったことが判明した。前線の指揮官が、自らの功績をあげようと、勝手に実施した、無謀な作戦だったんだ。そのせいで、お二人は…」
「…え?」
「すまない、と私が謝っても意味はないのかもしれないけど。本当にすまない」
「……」
「この書類は、そのために通常2階級特進であるところを3階級特進としたことを改めて伝えるものでもあり、また、軍の内部でイレギュラーが発生したとはいえ、軍の不手際だ。それに対する賠償金を支払う用意があり、それを受領するかどうかの意思を伝えて欲しいという書類だ。受け取りに同意ならサインをしてほしい」
「…そんな」
「こんな時に、本当にすまない…けれど」
「…命令だから?」
「…いや、こんなことを招いてしまったから。もう、会うことはできなくなると思って…」
「そう…わかった。秋に頂いたお金は、必ず返します」
そうして、彼女は、私の置いたペンを取り、書類にサインをし、無言で、部屋を後にした。
「……エミリー。本当に…」
独り言も続かない。
愛してる。
なのか。
ごめん。
なのか。
どちらが、今の僕の心なのか。
静かに、窓の向こうに雪が降る。
ゆっくりと優しく、世界を白く染めて行く。
エミリー。
僕は、罪人だったよ。
翌朝。
予定より早く、その日の朝の船で町を去ることにした。
もう、あのレストランにも行くことはできない。
宿の小さなビュッフェで朝食を済ませて、宿をチェックアウトする。
道は、積もった雪の上に足跡が目立つ。
予定では一週間で、一泊に変更したが予約通りの料金を支払い、私は港に向かった。
第一便は、人が少なかった。
チケットを買って。
桟橋に出る。
風が冷たい。
昨夜の雪は止んだようだ。
空に雲はない。
近くの湖に宿っているのだろう、白鳥が空を飛んでいる。
綺麗な編隊を組んでいる。
もうこの街に来ることは、ないかもしれない。
惜しいな。あのヴァイスブルストは、またいつか食べたいと思うけれど。
程なくして出航時間が近づき、私は船に移る。
やはり、人は少ない。
採算がとれるのか心配になりそうな旅客を乗せた船が、汽笛を鳴らす。
とうとう、僕はここを去る。
デッキに出て、最愛の人の住む大好きな町を最後まで見送ることにした。
すると。
白鳥を眺めた桟橋に、エミリーがいた。
長い髪が、少しの風に揺れている。
いつかのように、羽のように。
「……(嗚咽)」
僕は、見送られてもいいのかい?
君の目に、また触れられてもいいのかい?
遠ざかる彼女の姿が、どうしようもなく、ただ、どうしようもなくて。
なにを、思っても、彼女を、どれだけあいしても、もう。
喉が感情に締め付けられて痛む。
なにも、僕は、君になにも。
君の呪いを深めただけだった。
「やっぱり、おしまい、なんだよね、エミリー」
独り言のはずだ。
でも遠ざかる彼女がうなづいたように見える。
そして、口が動く。
それは、短い、奇跡のような言葉。
僕も同じだ。
同じ想いだよ、エミリー。
でも。
だからこそ。
とうとう人が見えなくなって来た。
とはいえ、僕の視界も涙で歪んでいる。
見えているのかもしれないけど、わからない。
君の姿も、わからなくなってしまった。
また頭上を白鳥が飛んでいって。
その声が、死にゆく恋を見送る譜に聴こえてしまって。
僕はデッキ膝をついてしまった。
さようなら、エミリー。
僕の、最愛の君よ。
影に咲く花、陽に舞う涙 唯月希 @yuduki_starcage000
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます