黄泉路に響く妣の歌声

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黄泉路に響く妣の歌声―『古事記』黄泉国訪問神話再録―


 イザナミに逢いたい。

 イザナキはその一心で、黄泉の国へと赴いた。

 イザナミが最後に生んだ子を――イザナミを殺した我が子を殺してなおおさまらない激情が、黄泉への道行きにイザナキを駆り立てたのだ。

 大樹生い茂る山の奥に分け入り、長い長い道のりを越えて辿り着いた黄泉の国には場違いなほど立派な殿舎があった。

 その前に立ったイザナキは、殿舎のなかにイザナミがいるのだと確信し、鎖されたままの扉の向こうへ声を張り上げる。

「愛しいわが妻よ、イザナミよ! 我々が作っていた国はまだ作り終わっていないではないか。さあ、一緒に帰ろう。帰ってまた国を作ろう!」

 その声の残響が消えた頃、扉の内側から答えがあった。

「……悔しいこと。どうしてもっと早く来てくださらなかったの?」

 何も変わらない亡き妻の声と言葉に、イザナキは息を呑む。

「私はもう、この国の竈で煮炊きしたものを食べてしまいました。……とうてい、あなたと一緒に帰れるわけがありません」

 黄泉の国で煮炊きしたものを食べれば、もとの世界には戻れない。

 その掟を聞き、間に合わなかったのだとイザナキは項垂れた。

「でも」

 静かな声が、二人の間に響く。

「あなたがここまで来てくださったのは、嬉しかったのです。……私はあなたと帰りたい。これから、私があなたと帰れるように黄泉の国の神々と相談してきます」

 顔を上げたイザナキの両目には、再会への期待が宿っていた。

 手のひらに滲んだ汗を衣で拭いながら、「わかった」と応える声もどこか浮ついている。それを察したのか、ややあってイザナミは「あなた」と夫へ呼びかけた。

「私が黄泉の神々と相談している間、決して私を見てはいけませんからね」

「わかっている!」

 そのやりとりを最後に、イザナミの気配が殿舎の奥へと消えていく。

 一人残されたイザナキは殿舎の前へ座り込み、期待と不安に落ち着かない気持ちを何とか落ち着かせようと深く息を吐いた。イザナミの気配が消えた殿舎はしんと静かで、中の様子はわからない。

「……ほんとうに、私は彼女を連れて戻ることができるのか」

 二人で手を携えて戻ったときに、カグツチがいないことに気づいたら――イザナミはなんと言うだろう。彼女をなくした時の自分のように、泣きわめいて這いずり回って、心乱れて悲しむのだろうか。

 子供たちを慈しんでいたイザナミの姿を思い出しながら溜息をつき、斬り殺した我が子の血で濡れた手をじっと見つめる。もうその色も匂いも残っていないはずなのに、血の温度や匂いや感触が、ふとしたおりに蘇るようだった。

 それからどれほどの時間が経ったのか。

 イザナキは自分でも時間の感覚を見失ってしまうほど、長い時を待ち続けた。

 殿舎は不気味なほどに静まりかえったままで、イザナミは一向にあらわれない。

 黄泉の神々がどのような者かイザナキは知らないが、その神々とやらがイザナミの帰還を認めず、イザナミがあの殿舎の奥深くへと連れ去られて隠されて、二度と声すら聞けなかったとしたら。

 そう思うと、黙って座ってなどいられなくなった。

 勢いをつけて立ち上がり、左のみづらにさしていた櫛を取って、最も太い歯を折り、その突端に火を灯す。

 頼りなくも静かな灯りは、イザナキの心を勇気づけるように揺らめいた。

「……いくぞ、イザナミ」

 無理矢理にでも連れて帰ろう。黄泉の神々も掟も知ったことか。

 内心で吐き捨て、殿舎の扉に手をかける。扉はあっけないほど簡単に開き、その内側をイザナキに晒しだした。

 最初に感じたのは、言い様もないような腐臭だった。

 思わず顔を顰めながら手に持った火を掲げて殿舎の内側を見やり――絶句する。


 あの静寂はなんだったのか。

 そう思わせるように、おぞましい光景が広がっていた。


 ひとのかたちをした何かを覆い尽くすように、白い小さな粒がうごめいている。頭の先から、指の先から、血の気が引いていく感覚に支配されながらも、イザナキはそれから目をそらせなかった。

 まるまると肥えた乳白色の蛆虫が、そこら中に転がり蠢き、ひとのかたちの輪郭を作り上げている。

 頭とおぼしきあたりには、大雷が。胸らしき場所には、火雷が。腹には黒雷が、陰部には析雷が、左手には若雷が右手には土雷が左足には鳴雷が――そして右足には伏雷が。

 蛆を纏い腐臭を放つひとのかたちの何かの上に、八柱の雷神が顕現していた。

「…あ、あ」

 イザナキとイザナミは、国を、神を、生み出す神だった。

 森羅万象を生み出し続け、イザナミは火の神を産み、そのあともあらゆる神々を生じさせた。そのイザナミが最後に生んだカグツチの身体中に生じた神のことを、イザナキは思い出す。それとぴったり重なり合うように顕現したこの雷神は――雷神を生じさせたこの肉体の持ち主は、いったいだれなのか。

 思い当たるものなど、ひとつしかなかった。

「イザナミ」

 それら全てを認識したときには、畏怖の心がイザナミの全てを満たしていた。

 踵を返した意識もなかった。

 気づけば腐臭を振り払うように殿舎を転がり出ていた。

 もと来た方向へと駆けだしていた。帰らなければならない、と。ただその一念だけがイザナキを埋め尽くす。


「わたしに、恥を……かかせましたね」


 氷のような、青い炎のような声が、イザナキの鼓膜を震わせた。

「黄泉の醜女よ、あの人を追いなさいな」

 振り返ることもできずに走る速度を増した夫の背中を見送りながら、イザナミは背後へと声をかける。肉片が顎のあたりからぼたりと落ちた。

 それを合図にしたかのように、かつてのイザナミならば見るに堪えなかっただろう姿をした女たちが大挙してイザナキを追い始めた。

 麻痺した鼻では自分の腐臭すらわからないけれど、イザナミは、醜女たちに輪をかけて醜く悍ましい姿を得た自分を自覚している。イザナキが逃げるのももっともだと思う一方で、それでも、約束を破って自分を見て――そうして怯えた顔で踵を返した夫を許せるような心など、もはや持ち合わせてはいなかった。

 黄泉の国に来た自分は、もうかつての自分とは違うのだとぼんやり思う。

「……期待させて、裏切って。……そんなあなたを許せるものなら……いったい、どれほど」

 ぽろりと目尻から零れ落ちたのは、澄んだ涙などではなく白く濁った蛆虫だ。

 もはや遠く姿すら見えなくなったイザナキの消えた方向に視線をやって、それから、イザナミは静かに殿舎を出た。


             *    *    *


 荒く乱れた呼吸の音が響いている。

 枯れた土を蹴る足音と一緒に、腰に下げた剣の鞘が身体へぶつかる音もした。

 それを押しつぶすように、背後からは何か得体の知れない大群が追いかけてきているような、地鳴りめいた音がしていた。

 意を決してちらりと背後を振り返ったイザナキの目に飛び込んできたのは、言葉に出せないような醜悪な姿をした女たちの群れだった。

 脳裏をよぎったイザナミの姿を掻き消して、歯を食いしばる。

 愛しいイザナミが遣わした追っ手なのだということはもはや疑いない。

愛情深く明るく活発だった妻の思い出が、じわりと浮いた涙と一緒にこぼれ落ちて黄泉の土へと染みこみ、消える。

「ここで、終わるわけにはいかないのだ…ッ」

 イザナキは髪を結っていた黒い蔓を解き、それを背後へと投げ捨てた。たちまちに生い育った山葡萄は黄泉の醜女たちを遮るように壁を成し、イザナキは足を緩めることなくさらに強く一歩を踏み出す。

 山葡萄を貪り食った醜女はなおイザナキを追い、イザナキはさらに右のみづらに刺していた櫛の歯を折って背後へ投げ捨てる。今度はその櫛の歯が見渡す限り一面に、笋となって生え拡がった。

 醜女たちがその笋を貪り食らう間も、イザナキは走り続ける。

 走っても走っても葦原中国へ辿り着かないことに焦りが生じた頃、背後にはおびただしい黄泉の軍勢が迫っていた。先導するのはイザナミの身体に顕現していた八柱の雷神たちだ。

 イザナミの恨みの気持ちそのもののような雷神と軍勢とが背後に迫るなか、イザナキは腰に佩いていた剣を抜き放ち、後ろ手に振り払いながら走り続けた。

 時折、剣が何かを斬る手応えがあっても、後ろは振り向かなかった。風のような呻き声のような何かが自分を呼んだように聞こえても、走り続けた。

 そうしてようやく黄泉比良坂に辿り着いたとき、そこに生えていた桃の実を三っつ掴み取り、祈りを込めて軍勢に向かって投げつければ、黄泉と現世との境界に触れることができず、軍勢は歩を止めて、踵を返した。

 警戒を解かずに異形の軍勢を凝視し続けるイザナキのことなどもはや構うことなく、イザナミの追っ手はすべて不気味なほどの静けさで消えてしまった。

あとに残されたイザナキは、ふっとめまいを起こして座り込む。

 汗でぐっしょりと濡れた衣が身体にまとわりつく気持ちの悪さに苦く笑って、それから命の恩人となった桃の木を振り仰いだ。

「――……おまえは、私をこうして助けたように、葦原中国の命ある人々が苦境に陥ったときに助けてやってくれ」

 願いを込めてオホカムヅミと名づけた桃樹の下でしばしの休憩を取り、葦原中国へ帰ろうと立ち上がったとき、イザナキの背筋をひやりとした何かが撫でつけた。

 場違いに穏やかな風に乗って漂った腐臭に、嘔吐くのを堪えて生唾を飲む。

「……イザナミか」

「わたしの遣いは、追い返してしまわれたのね」

 残念、と濁った声で腐肉は笑った。

「これ以上、こちらへ来てはならぬ!」

 ぼたりぼたりと赤黒い肉片を垂れながらやってきた妻の姿に、イザナキはきつく瞼を閉ざす。見てはならないものを見て、聞いてはならないものを聞いた。

 あれは、もはや相容れぬものなのだ。

 その実感が、イザナキを突き動かした。

 大きな岩石で黄泉比良坂を塞ぎ、黄泉の国と葦原中国とを分かつ。分厚く大きな岩で塞いでしまえば、もはや黄泉の国の気配は掻き消えた。

 ただ、その向こう側にいるであろうイザナミを想えば、言いようのない気持ちが胸のあたりで蟠り、イザナキの足に見えない重石を括るようだった。

「いとしい、あなた」

 岩の前で立ち尽くすイザナキに、小さな声が届く。

「あなたがこのようにするなら、わたしは、あなたの国の民草を――一日に千人、縊り殺してさしあげましょう」

 声だけを聞けばかつてのイザナミそのものでしかなかったが、イザナキはすでに変わり果てたその姿を見てしまった。

 そして、かつてのイザナミとはもはや別物の心性も。

 かつて手を携えて笑い合った妻は、もういないのだ。

「――……いとしい、愛しい、わが妻よ。おまえがそうするというならば、私は、私の国で一日に千五百の産屋を建てて、民草を繁栄させよう」

 それ以上、ふたりが言葉を交わすことはなかった。

 イザナキは唇のなかで小さく小さく妻の名を呼び、そうして生死の理を二度と違えぬように、今度こそ振り返らずにその国を立ち去った。

 黄泉の国に残されたイザナミは、今、黄泉の大神として彼の地に鎮まっている。

 そして、黄泉の国と葦原中国との境である黄泉比良坂は、今の出雲国にある伊賦夜坂であると伝えられている。



 その後。

 たくさんの人間たちが、黄泉の国に訪れることになる。

 愛した夫の行く末をイザナミは知らないが、たくさんの人間たちを黄泉へと迎え入れているうちに、二人でかつて愛し育んだ世界はきっと、順風満帆に育っているのだろうと思うようになっていった。

 満ち足りた者がいれば、悲しみや恨みに心を支配された者もいる。

 それでも、夫が言ったように葦原中国では一日に千五百の産屋が建ち、死者を上回るほどの命が生まれ、次の代へ次の代へと続いているのだろう。

 かつてイザナミがイザナキとともに生んだ、たくさんの子神たちのいる世界で。

 そうであるなら、自分もイザナキも――きっと、しあわせに違いなかった。

 

「――あの子は、今……どうしているのかしらね」


 かわいい、かわいいわたしの子。いとしいひととの、さいごの子供。

 子守歌を歌うように呟いて、イザナミはそっと瞼を閉じた。

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