最終話 僕らが射ころした猪は 作・忠臣蔵

さて、イベントも終わり一か月以上が過ぎたことをまずはお詫びしたい。本当に申し訳ない。特に今回の忠臣蔵氏の作品は一番、楽しみにしてたので本当に焦ってしまった。そんなことではあるが、この魅力ある作品を僕の稚拙な言葉で語ることをお許し頂きたい。


この作品は現実という変わらないようでいて常に変わり続ける世界に立つ僕らの物語だ。私、という現実は生老病苦によって常に食まれている。日常だと不変のように思っているものなど不安定な足場でしかない。ネットがSNSがあろうが、いやそういった情報のやり取りを加速させるものがあるからこそ、我々は幾つものレイヤーを重ねては真実に糊塗するようになっていないだろうか。


この作品における狩りは、本文にもあるように狩りという行為そのものよりも結果としての物体の固着に意味を求めている。(ところでモンハンを思い浮かべたのは僕だけだろうか) 生が行き着く先の確かな死という固着を僕らは共有する。これは原初的な本能というよりも、揺らぎ続ける存在の安定を実感したいからではないか。僕らはいつか必ず死ねるのだと。(さらに付け足すと無人称的な記録、というところはさらにモンハンでのデータ上の記録を思わせる。モンハンがしたい訳ではない、いや久しぶりにしたいのだが)


最初に触れたように我々は不変ではない。しかし、我々は不変、永久不滅なものをそれ故に求めるそれが鯨につけた銃創であり、


引用開始

僕らは突き立つ霜柱の寝台で

今も変わらずそこに彼が固着している光景を

夢想せざるをえない

引用終わり


この彼の固着した姿だ。それは同時に人が持つ死への誘惑も表しているのかもしれない。ここで詩人は猪でなく彼、と言っている。そのとき、これまでの表層的な読み方からもしかするとこれは現実におけるなんらかの加害または被害を描いていたのではなかろうかと思ってしまうのだが、それは穿った読み方だろうか。どちらにしろそれは遺された傷であり、逃れることのできない憧憬と悲しみが同居しているように感じるものだ。


この詩を読んでいると三好達治・測量船の『私と雪』を思い浮かべる。あの詩では獲物を仕留めた私がまた私の獲物となり、重なるように獲物に倒れこみ詩人の繰り返される死を持って幕が降ろされる。本当はこの二つの詩の世界を比較して論評したいのだが、残念ながら今の僕の筆力では語り得ない。


しかし、魅力的な詩であることは間違いはない。繰り返しモンハン、やってんじゃね?などと考えたことを忠臣蔵氏にお詫びして終わりたいと思います。(いや、本当、すみません)


このイベントを通して本当に自分の読解力の無さを痛感しました。しかし、それでも未知の作品を読むことの楽しさも痛感したわけで、下手な読解と感想にお付き合いくださった皆様にここで厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

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