こんにちはセイロンティー
紅茶に必要な物は、何があるだろう。
優雅さや美しい茶器、素敵なお菓子やあるいは美味しく淹れるまでの難しい理論だろうか、それと良い茶葉と落ち着いた環境も加えるべきか。
「さて、ひとまず飲みたまえ。」
目の前にいる猫背気味な男はポットから流れるような所作でカップに注ぎ切るとそのまま私の前にコトリと置いた。
ほのかな湯気が立ち上り琥珀色の強い水色が静かに揺らいでいる。
先程頂いた名刺には、紅探偵事務所 所長と書かれていた。この細身で男性にしては少し長い黒髪を無造作に垂らし、爽やかさよりも陰鬱さを感じる
「あの、お話だけでも聞いてほしいのですが。」
徹夜を繰り返す研究者かのような雰囲気を醸し出す人物を前に、ビルの1室とはいえ迂闊に足を踏み入れた己のミスを
「紅茶が冷める前に口にするべきだ。話はそれから聞こう。」
どこか芝居がかった口調のまま目線だけで手つかずになっているカップを示し、自身もゆったりとカップを持ち上げてから飲み始めた。丁寧な所作が傲慢な態度にも見えるのは私の苛立ちがあるからだろうか。
「ありがとうございます、頂きます。」
ふっと短く息を吐き、カップに手を伸ばす。
少し冷めたのか熱そうには見えない。普段飲みなれない紅茶にどうすれば良いか、目の前の男をちらりと伺うが先程から無言で紅茶を飲んでいるだけであった。気まずい静寂の中で手にした紅茶を口に含むとなんとなく美味しいという漠然とした感想を抱いた。
「紅茶は好きか?」
静かに飲んでいた男は彼女が口にしたのを見てそう問いかけてきた。いつの間にか彼のカップは空だ。
「いえ、あの、そんなに飲んだことがないです。」
美味しいとは思ったものの、もしも珈琲か紅茶かと聞かれたら珈琲を頼んでいただろう。社会人になってからブラック珈琲が仕事のお供となっている。紅茶はなんとなく優雅な、あるいは手間のかかるものと認識されていた。スーパーで買ってみて淹れたティーバッグの紅茶を思い浮かべながら、おそらくそれより上等な紅茶は美味しいものなんだなと場違いにも考えた。
「普段から紅茶を飲まない、とは何か特殊な事情でも?」
心底不思議そうにそう言いながらポットからお代わりを注ごう、と手にしていたカップを置くように指示された。
「いえ、馴染みがないというか、忙しいというか。」
戸惑いながらカップを置きつつ特殊な事情というより面倒であることを濁しながら言葉を口にする。ここは探偵事務所なはずだがのんびり紅茶を頂く喫茶だったのであろうか。
「美味しそうに飲む様子が良かった、君はもっと紅茶を飲んだほうが良い。」
何気ない様子でまた注がれた紅茶を差し出される。確かに出された紅茶は美味しかった。
「いえ、余裕がないので。」
固く重い言葉が思わず溢れた。訪ねた当初から浮かべていた微笑みが強張るのを感じる。
余裕のなさ、は今の水沢素子の状態のすべてだ。ノルマに追われて上司に詰められ、必死にあちこちへ足を運ぶ営業として働いている。数字でしか評価されないシビアな世界で売り上げの為に無茶な営業をかけたり、上司や客先で怒鳴られることもよくある。迷惑だとはっきりと拒絶される度に輝かしい業績を積み上げていこうと思っていた過去の自分を恨みたくなった。嫌な思い出がたくさんある中で頑張ってきたというのに、最近では誰かに縋りついて女は楽で良いと影で同僚に言われていたことを知った怒りもある。
「あの、でもこちらはとても美味しいですね、こだわってらっしゃるようで。」
ふと沈んだ気持ちを誤魔化すように無理やり笑みを浮かべ直し、新たに注がれた紅茶を手にする。仕事中に目の前の客に対して迂闊に弱音を吐くわけにはいかない。商品を売る為には客の懐事情を知るのは大切だが、大事な金を余裕のない者に任せようと考える客はいない。失敗した、と苦々しい気持ちを押し込めて再度注がれた紅茶を飲み込む。2杯目では先程より少し渋く感じた。
「ミルク、それとも砂糖も要るか?」
小さなミルクピッチャーとシュガーボウルを勧めるように前へと押し出し、茶畑はこちらを真っ直ぐ見てきた。
「それと、今はこの通り助手を求めているので君の依頼に応えることは可能だ。」
所長の僕が紅茶を淹れないといけないくらいに人が足りない。というか誰もいない。陰鬱さは変わらず淡々とした様子で、君が紅茶を淹れる仕事を引き受けてくれるなら教えようと呟くように言う。
「え?いえ、あの、依頼とは?」
思いがけない提案に、表情が崩れた。この男はこちらを依頼者だと思っていたのだろうか。最初に名刺を交換したことに何も思わなかったのだろうか。
「話が飛躍しすぎたか。君がこれから依頼する内容についてだが。」
それとこの紅茶は君がスーパーで見かけるような安価な物だ、と棚に置かれた見覚えのあるパッケージを示される。思わずこれが!?とぎょっとして手元の紅茶を見た。以前自分で淹れた際にはこんなもんかなと美味しいとも美味しくないとも感じなかったティーバッグとは思えない味だった。
「君は営業として商品を売りに来た。おそらくノルマがあるのだろう、ヒールが擦り減っている様子から真面目に回っていると判断した。」
ちらりと少し擦り減ったヒールに視線を向けられ、観察されていたことに驚いた。営業にとっては靴は消耗品と割り切っている。
「落ち着いた態度とおよその年齢からそこそこ優秀な成績を残していそうだと感じる。その重そうな分厚い鞄には資料がたくさん入って更には付箋などで丁寧に読み込んであるのが見て取れた。」
足元に置いた鞄から少しはみ出した資料にはわかりやすいように付箋を貼って内容を分けていた。言われた通り既に新人とは言えない年齢に差し掛かっている。微笑みを貼り付けながらも見た目が老けていたかと落ち込んだ。
「そうですか、でもそれでなぜそのような依頼内容になるのでしょうか。」
まるで新しい仕事が欲しいと言いに来たかのような断言にプライドが反発した。紅茶を飲みに来たわけでもなく、当然仕事として探偵事務所に訪れたのだ。
「真面目で優秀な営業が手当たり次第に事務所を訪れる、ということは事情があるはずだ。特に新人とも思えない者が地道に歩き回っている。何らかのトラブルかノルマが課されたか。」
こんなことは言いたくないがうちは小さい事務所だからね、金になる話はよく素通りされると返された。答えにくいが確かに初めて訪れた事務所だ。自分もこんなことにならなかったらそのまま訪れなかっただろう。
「毎日を忙しく働いているはずなのに、急に飛び込み営業を手当たり次第始めるということは重いノルマかトラブルがあったのだろう。」
受け持ち先を少しでも増やさねばと必死だった。自分をよく思わない者が居たのだろう、突然成績をもっと上げるように詰められた。今まで楽をしていたのだからと言われた時に同僚の陰口を思い出した。恐らく誰かが足を引っ張ろうと吹聴したのだろう。真面目に必死に働いてきた自負があっただけに、信じてもらえないことが悔しかった。
「何らかのトラブルであればそれに対処するだけで良いが、重いノルマの場合は今回だけで終わるとは思えない。」
淡々と天気情報でも読み上げるかのように話す様子から思わず目を逸らして俯き、唇を噛み締めた。その通りだった。達成出来ても達成出来なかったとしても、1度貼られたレッテルを剥がすことが出来なければ立場は苦しいままだ。誰かの明確な悪意の中で働いている。目を逸らして仕事の忙しさで誤魔化していた感情が溢れそうになる。
「私は、どうすれば良いでしょうか。」
震えそうになる言葉を抑え、崩れてしまった微笑みを隠すことも出来ずに茶畑を見上げた。
「紅茶に必要なものはまず、たっぷりと酸素を含んだ水だ。」
我々生き物と同じく、息苦しくない環境に浸さなければならない。呟くようにそう言うと、目の前にいる茶畑は微笑んだように見えた。
全ての人類へ、紅茶を飲め。 野田枝葉 @1030chocolate
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