中年の男に促されるがままに、椅子に座る。もちろん茶は出ない。

その代わりに中年の男は、卓上いっぱいに紙を積み上げた。



「とりあえずまずはお互いに信用だと思ってな、これは極秘だが、政界・金融界の大物のウラ情報さ」



ちらっと目を通してみる。………すごい、特に政治に興味がない俺でも知っているあの超大物政治家の名前まで載っている。正直隆盛会を野蛮な革命組織の一端だと侮ってはいたが、考えを改めてもいいのかもしれない。



「どうだ、すごいだろ。ほかの姉妹団体からの譲り受けもあるが、それでも七割はウチの情報だ」



「まあ親分、情報集めてバッカリですけどね」



奥の戸が開いて人が出てくる。小柄だが、子供っぽさはない声だった。



「やあ、こんばんわ。オイラは……ってああ、何すんだよ親分」



「馬鹿、信用できるまでは名乗るなといっただろ」



「あ、この人はじめてか。それはごめんなさい」



小柄はちょっとおどけた。中年の男は大きくため息をつく。



「まあ、君は修の紹介だ。本当はもっと時間をかけて確認したいところなんだが、かまわないだろう。名前はなんていう?」



進、と答えた。



「そうか、では、我々も名乗らなくてはな。私は正三しょうぞうという。こっちは……」



「オイラ、サチっていうんだ。あ、幸せって書いてサチな」



「二人とも、本名ではない。公安に名前を知られているから、うかつに本名はいえなくてね。偽名だよ」



「まあオイラは偽名って言ってもほとんど本みょ……あっ」



また幸が正三にこぶしをたたきつけられた。幸は不服そうに頭をさすっている。



「こいつは少々おてんばなところはあるが、これでも女なんだ。まあ、今では拾ってやった恩も忘れてこんな感じだが」



「ちょっと親分、忘れたことなんて片時もないですよ」



「すまんすまん冗談だ」



正三は高らかに笑った。幸は呆れ顔で見上げている。革命結社というものだから、どんな恐れ多い雰囲気かと思っていたが、意外にもそこには家庭の雰囲気があった。



「本当はもう少し話したいところなんだが、そろそろ帰らないとまずいのではないか」



窓を見る。東が白くなってきていた。そろそろ出ないと始業に遅れる。



「それに、どうやら連れの警戒力はゼロみたいだからな」



正三が目線をやった先を振り返ると、修が横になって寝ていた。まったく、どっちが連れなんだか。



「修はそんなところもあるが、とても頭は早くてね。計画を練る時にはなくてはならない存在なんだ」



修の頭の速さは俺にもわかってきたが、こいつはそれを無駄遣いすることが多かった。だから隆盛社のことも半分遊びだと思ってはいたが、まさかここまで本気だったとは。


俺は一礼し、は修と共に小屋を出た。



「じゃあ、次会うのは朝飯だ」



修は駆け出した。俺も走り出す。











正門前に戻ってきた。見張りもまだいない。入ってしまえば裏手を回るだけだから、特に困ることはない。左右を見て、一気に駆け込む。暗い道だ。ぬかるんでいるところもある。何箇所かで滑りそうになったが、這いつくばってなんとか耐え、部屋が目と鼻の先のところまで来た。ここには見張りもいないし、万が一起きている同僚に見つかったとしても、ここにはちくるような人間はいない。まあ、念を込めて金は渡しておくが。あと少しで終わってしまう小冒険に、少し寂しさを覚えながら、建物の影を飛び出した。しかし、ここで事故は起きる。勢いとぬかるんだ地面があいまって、顔から地面に突っ込んだ。数秒間の沈黙の中、起き上がる。口の中はジャリジャリするし、擦ったのか腕もヒリヒリする。もしかしたら服も破けているかも知れない。先ほどまで頭を沸かしてた熱気が、一気に引いていくのを感じる。まあこのどろんこでは部屋に上がれない。体を洗うために外の井戸へ向かおうとしていた、その時であった。




「あの…」




誰もいないはずの庭から声が聞こえた。流石に夢ではないはずだ。




「大丈夫ですか」




声が聞こえた方を振り向く。周囲が暗い。月明かりを頼りに周りを探る。すると、建物の所に一層影が濃くなっている所を見つけた。




「誰かいるのか、そこに」




その影がずんずん近づいてくる。声は女のものだ。しかし、この日が出る前に女中が起きていることはないはずだ。胸がばくばくなる。今まで心にあった隙間が閉じていく。









その時のことは、今でもよく覚えている。

建物から出てきた手足が月明かりに照らされ、次第に人間味を増していく。気づけば、そこには一人の女がいた。




「誰だ」



おれは警戒心をむき出しにした。女相手に情けないと思ってる場合ではない。万が一の時には、口封じも必要かもしれない。

女の顔はぼやけているが、わからないわけではない。しかし、心当たりのない顔だった。



「ただの奉仕人にございます」


「なら、名はなんという」



ここの女中なら、たいていの名はわかる。それに、後で硝子に口止めしてもらうためにも、名は知って置きたかった。




なぜか女は、一瞬口を強く結んだように見えた。




「雫といいます」





そんな名前、聞いたこともなかったが、不思議と心には、不安の錯覚のように満ち足りたものがあった。




「また、後で世話になる」





井戸を向いて、走り出す。

日が生まれんとばかりの暁に、

心に浮かんだのは口の砂でもなく、擦り傷の痛みでもなく、ただ一つ










見てもいないのに、確信していた、こっちを見てたたずむ女の姿であった。







































あかつきに、しずくははゆ。












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暁の雫(お休み中) えすかるご @kyodiesay

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