泣ける話1【小さな恋】3000字以内

雨間一晴

小さな恋

結衣ゆいさん、ここ全然、掃除出来てませんよ、何ですか、これは?」


 絵に書いたような、和風の、古くからある大きな家だった。

 こげ茶色の廊下のすみに、ビー玉のような灰色のほこりが転がっていた。


 今はこの家主である秋子あきこは、腰が曲がり、下から覗き込む様に、埃を指差し、廊下の先にいる結衣に言った。


 その指は水分が無く微かに震えていた、埃と同じ色の、釣糸のように硬そうな髪を、全て後ろに流し、小さい黒ゴマ団子のようにまとめていた。重みを感じる紺色の和服に、紫の帯を通している。


 今は怒りに顔自体が一つのシワになりそうな秋子も、まだ主人が生きていた頃は、きっと笑う事が多かった女性なのだろう、目尻の笑いジワが物語っていた。


 結衣の左には八枚の、襖障子ふすましょうじがあり、その部屋は二十畳はあるだろう、大人が縦に四人寝れる広さだ。障子には掃除したばかりで埃一つ無かった。


 右には縁側えんがわが大きな庭へと顔を出していた。そこから続く踏み石は、中央にある小池を囲む様に描かれており、小池には六匹の太った立派なこいが、呑気に餌を待っている。

 踏み石を囲む様に生えた雑草は、少し色が抜けてきて、夏の終わりを感じさせている。


「申し訳ありません、お義母様かあさま、すぐに片付けます」


 白いワイシャツに赤いエプロンが似合う、その女性は、秋子とは対照的に、肩まで伸びたつやのある、黒々とした髪を後ろで結び、凛とした二重の目を乗せた顔は、不思議と弓道を連想させた。


「全く、うちの子も、もう少し、ちゃんとした嫁を貰ってほしかったね」


 結衣は姑の小言には慣れてしまっているのかもしれない、今さっき掃除していたはずの場所に、そんな大きな埃がある訳ないのだが、結衣は本当に申し訳なさそうに、小走りで向かった。


「料理もまともに作れやしない、私が若い頃とは大違いだよ」


 ぶつぶつと小言は続いたまま、掃除をする結衣には見向きもせずに、秋子は縁側に腰をかけ、木の下駄を履き、池へと向かった。


「おー、よしよし。お前達は変わらないねえ」


 枯れた指先で鯉たちに餌を与える秋子は、鯉ではない、遠くを見ている様だった。


 曲がった腰のまま、池の側にある、二人がけの椅子の、左側に座った。四つの足に木の板を乗せただけの、どこにでもある様な椅子だ。


 秋子は座りながら、目を細め、今にも死ぬ子犬に触るように、椅子の表面を優しく撫でた。

 そして、目を閉じ、誰も居ない右側の空間に、そっと、体重を預ける。


 そのまま眠ってしまった事もあるからか、結衣は掃除をやり直しながら、気付かれないように見守っていた。


 結衣が掃除に集中しようと、視線を手に持つ雑巾ぞうきんに戻したとき。

 鯉たちが、激しく水面を跳ね、水の弾ける音が響いた。


「お義母様!」


 秋子が椅子から転げ落ちていた。


 夏の終わりを告げる、ひぐらしが、救急車の音に消されていった。




「先生、お義母様は大丈夫なんですか?」


 病院の個室前の廊下で、結衣は医者に待ちきれず、食いつくように聞いた。


「まことに残念なのですが、末期のがんです。今は鎮痛剤を使用しているので、痛みは無いと思いますが、普段は何か痛みを訴えたりは無かったですか?」


 結衣の体が後ろに下がり、大きな二重の目が更に広がり、鋭く息を吸った。


「そんな、嘘ですよ。私、聞いたことないです、お義母様が痛いなんて言ってるのは」


「そうですか……」


 医者は少し困った様に眼鏡を上げ、あごの白いひげを触った。


「だって、お義母様は自分で健康だから、病院なんかには絶対行かないって、私に、そう言って、それで、私だって、お義母様は元気に見えました、でも、いや、どうして」


「落ち着いて下さい、今後の事は我々に任せて下さい、最善を尽くします。何かありましたら伝えます。今は側に居てあげて下さい。薬の影響で、しばらく眠っていると思いますが、何か異常があったら、ナースコールを押して下さい」


「……分かりました」


 結衣は秋子が眠る個室に戻り、ベッドの側の椅子に座った。


 秋子にいくつかの点滴や酸素のチューブが、腕や口に伸びていた。


 結衣は、しばらく眠る秋子を真顔で見つめてから、体を動かさずに、ゆっくりと顔だけを、一つしかないドアに向けた。


 ドアから視線を秋子に戻し、その首に、ゆっくりと両手を伸ばした。


 亀の首のように皮膚が伸びた首に、結衣が少しずつ体重をかけていく。


「散々、いじわるしてくれましたね、おかあさま」


 結衣の目は見開き、ギチギチと歯の軋む音を鳴らしながら、怒りとしか形容出来ない表情になっていた。



「そのまま殺してちょうだい」


 目を閉じたまま、酸素の足りない、かすれた声で秋子が確かに言った。


 結衣は驚いて手を離し、椅子と一緒に、後ろへ倒れ込んだ。


「結衣さん、私、知っていたのよ。あなた、私の食事に何か入れてるでしょ」


 結衣は尻もちをついたまま、動けずに固まっている。白く透き通る肌が、より青白くなっていく。


「でもね、それでも良かったの。私はあなたに、もっと酷いことをしてきたのだから」


「どうして……」


 結衣がやっとの思いで、震える息を吐き出した。


「結衣さんが。うらやましかった。あの人は私を置いて、とっくに居なくなってしまったから」


 結衣からは秋子の顔は見えないが、秋子の声も震えていた。


「あの人が買ってきた小さな鯉を、あのベンチで一緒に見るのが好きだったの。あなたの旦那も、まだ小さくて、よく庭を走り回っていたのよ。私達は転ばないか、いつも見守っていたの」


 病院の個室に窓から差し込む夕日が、少しずつ薄れていった。


「私たちの子が、どんな女性を連れてくるのかって、よく話していたの。あの人は本当に楽しみにしていて、目を輝かせていたわ」


 秋子が結衣に、こんな事を話すのは初めてだったのだろう、結衣は動けないまま、ただ手を震わせて聞いていた。もしかしたら、名前すら初めて呼ばれたのかもしれない。


「あの子が結衣さんを連れてくる前に、あの人は居なくなってしまった。あの子も、もう、私たちのものではないの、私たちの家も、私のものじゃなくなるの。好きな人と一緒に居られる、あなたがうらやましくて、悔しくて仕方がなかった」


 秋子の声は震えて弱々しくも、確かに力強かった。


「あなたに優しくしたかった。仲良くして一緒に鯉を見たかったわ、でも、本当にごめんなさい。私は寂しくて仕方がなくて、幸せなあなたをねたむしか出来なかった」


「お義母さん……」


「早く、あの人の元に行きたいの。最後まで自分勝手な私を、あの人は怒るかもしれないけれど、それでも……」


 秋子の声が途中で途切れ、窓から届く光は消えた。


「お義母さん!」


 結衣が尻もちから、ベッドに急いで駆け寄り、秋子を覗き込んだ。


「……結衣さん。本当にごめんなさい、私は……」


 秋子の枯れた頬に一つの涙が流れた。


「もう無理に喋らないで!謝るのは私の方じゃない!お義母さんに嫌われてるんだって、私は、何一つ、お義母さんの気持ちに気付けず、分かろうともしないで!」


 結衣の頬には、涙が止まることなく、落ちていった。


「あの人に、こんな素敵な子が来てくれたことを、教えてあげたかったわ……」

 

 秋子の初めて見せる優しい笑顔に、結衣は抱きついて、いつまでも泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泣ける話1【小さな恋】3000字以内 雨間一晴 @AmemaHitoharu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ