セドリック・フォスターは探偵にあらず

よもぎパン

その男、探偵にあらず




「いい色だな」


 初め、その男が何を言っているのか私には分からなかった。


「ショコラとウイスキーみたいだ」


 首を傾げたままの私の手を握る、男の大きな手。私のチョコレート色の肌と混ざり合うことのない、真っ白なそれに、ああ、と思う。


 この男は、私の褐色の皮膚と、琥珀色の髪のことを言っているのだ。


 そうして、私はこの男――名をセドリック・フォスターという、この街で密かに『変人』と呼ばれているらしい、その噂が嘘ではないことを知った。

 真っ当な大人なら、こんな差別とも取られかねない発言は慎むものだろう。


「肌の色なんて、たかがメラニン色素の話だろう。くだらない」


 私を紹介した友に咎められ、そう顔をしかめて言い放つ。セドリック・フォスターはこの街一番の変わり者である。


◇◇◇


 私がその男に会ったのは、戦地から帰ってきて二ヶ月目のことだった。


 私の母は、良いとは言いがたい労働条件で働くハウスキーパーだった。おまけに父は若くして他界。なるべくして、私は軍人になったのである。

 十八で入隊し、約七年。何度か戦地にも出たし、地位も築いた。PTSDの診断を受けるまで、私の人生はそれなりに順風満帆だったのだ。


 国に帰り、おざなりなカウンセリングを受け、社会に放り出されて私は絶望した。

 いや、確かにPTSD治療歴があると次の就職で不利になるとは聞いていた。聞いていたが、これほどまでに自分が世間から必要とされないなんて、思いもしなかった。


「はぁ……」


 格安のコーヒーチェーン店。泥水みたいなコーヒーを飲みながら、赤いペンで書いたバツだらけの求人誌を見つめる。


 そんな私をオスカーが見つけたのは、ほとんど奇跡みたいな出来事だった。


「ミア? ミアだろ、お前」


 俺のこと覚えてるか、と。そう言って、ハイスクール時代の友人、オスカー・エヴァンスは相変わらずの快活そうな笑顔で私の隣の席へと滑り込む。


「軍に入ったって聞いてたけど。帰って来てたのか」

「ええ、二ヶ月くらい前に。あなたは?」

「俺は街のお巡りさん」


 今日はどうやら非番らしい。買ってきたコーヒーに口をつけ、「こりゃひどいな」と顔をしかめるオスカーの横顔は、十八の時からあまり変わっていないように思えた。明るくて、まっすぐで。羨望が卑屈を連れてくる前にとコーヒーを煽る。


「再就職、上手くないのか」


 テーブルに放り出された求人誌を見て、オスカーは幾分か低くした声で問う。


「……まぁ、上手くはないわね」


 そう、羞恥と情けなさを隠すために大袈裟に笑った私を、オスカーが難しい顔をして見つめてくる。その視線が痛い。


「職種は?」

「最初は警備とかSP関係で探してたけど、全然ダメ。PTSDの人間に銃持たせたくないみたい。ハウスキーパーとかも同じく。元軍人の精神疾患者なんて、そんなもんよね」

「他に条件は?」


 条件なんて出せる立場じゃないんだけどな……そう思いながらも、言うのはタダだと口を開いた。


「家賃払う余裕もないから、出来れば住み込みがいい」

「わかった。俺に心当たりがある」

「は……?」

「住み込みで、給料がよくて、SPとベビーシッターとハウスキーパーを組み合わせたような仕事だよ。護衛も兼ねて生活の面倒見つつ、たまに遊んでやればいい」

「オスカー、あなたってほんと最高!」

「その言葉とキスは保留にしとくな」


 そうして会わされたのが、セドリック・フォスター、その人だったのだ。


「食事の面倒と、部屋の掃除をしてくれればそれでいい。洗濯はしないでくれ。アイロンも。あと、外出時に護衛を頼むときには臨機応変に。物騒な世の中だからね」


 オスカーに連れられたのは、街の大通りに面する大きなアパートだった。

 広々としたその部屋の中で、部屋の主、セドリック・フォスターは私へと左手を差し出す。


「セドリック・フォスターだ。きみの部屋は3階にある」

「ミア・ジェファソンです」

「いい色だな。ショコラとウイスキーみたいだ」

「え……?」

「セドリック!」

「肌の色なんて、たかがメラニン色素の話だろう。くだらない」


 オスカーが咎めるのに吐き捨てるようにそう言って、セドリックはソファーに腰を下ろした。


 すらりとした長い足を包む、シワ一つないスラックスと、ゆるくウェーブした黒髪。澄んだ青い瞳。薄い唇が紡ぐキングスイングリッシュが、その神経質さを表すようだった。年齢は私とそう変わらないだろう。


 この男の面倒を、住み込みで。


 胸に広がっていく不安をそのままにオスカーを見つめれば、「大丈夫、上手く言ってやる」とウインクされた。違う、そうじゃない。


「ご職業は何を……?」

「何も。何にもしないし、何でもやる」

「はぁ……?」

「きみは戦場帰りだってね」

「ええ。うちは母子家庭で、生活のために、」

「ああ、いい。身の上話に興味はないんだ」


 そう言ってセドリックは手を振った。私を気遣っての行為ではなく、本当に他人に興味がないのだと一目でわかる仕草だった。


「こういう奴だからさ」


 私に彼を斡旋したことを多少は後ろめたく思っているのか、オスカーはそう苦笑いする。

 そんな友の言葉に、私の雇い主は「ああ、そうさ」となぜか満足げにうなづいた。


「他人とは可能な限り関わりたくないタチでね。ハウスメイドと護衛と助手をそれぞれそばに置くなんてとんでもないよ。頭痛がする。その話をしたら、全部一人でやってくれる人物に心当たりがあると言うのでね、そこの男が」

「ハウスキーパー兼SP兼ベビーシッターだと思えばいい」


 そう、けろりとした顔で言う男二人を前に痛み出した頭を押さえた、その時だった。


 ピリリリリ。ピリリリリ。


 部屋に響く電子音。「どうぞ」セドリックがそう、オスカーを促す。


 オスカーは液晶に映った名前を見るや否や顔をしかめ、それでも軽く背筋を伸ばして電話に出た。

 「上司」思わず口をついて出た言葉に、セドリックは「いい読みだ」と足を組み直す。


「ああ、悪いな」


 電話を終えたオスカーが、そう、ワントーン低くなった声で「仕事だ」と続けた。


「大変ね、警察官は」

「何を言ってるんだ、きみも行くんだよ」

「は……?」

「就職初日で初仕事。幸先がいいね」


 そう言ってセドリックは右頬をぴくぴく震わせながら口角を上げる。

 信じられないくらい、不器用な笑顔だった。


◇◇◇


「被害者はこのアパートに住む32歳女性、名前はアリス――、」

「いや、いい。名前や生い立ちは結構だ」


 大通りでタクシーを拾った私たちが降り立ったのは、郊外の小さなアパートだった。

 『キープアウト』ドラマでしか見たことのない黄色のテープに動揺する私を無視し、我が物顔で中へ入っていくオスカーとセドリックに恐る恐る続く。


 オスカーは、わかる。警察官だ。でもなぜ、たかが市民の一人でしかないセドリックが殺人事件の現場に呼ばれるんだ。


「遺体は?」

「死後十数時間という感じです。このベッドの上で、こう、こちらを頭にして」

「裸で? 出血は無しか」

「はい。絞殺で見てまず間違いないですね。抵抗したあとはありましたが、首の痣以外の外傷はありませんでした。病院で解剖中のはずですが、ご覧になりますか?」

「いや、いい。開いてるなら、もう証拠も消えてるさ」


 鑑識らしき男から説明を受けながら、セドリックは殺害現場だという寝室の中を歩き回る。


 セミダブルのベッド。真っ白なシーツはセドリックの言う通り汚れてはいなかったけれど、さっきまでここに死んだ人間が……そう思うと胃の中のものが込み上げそうだ。

 「大丈夫か?」そう、肩を叩いてくるオスカーに首を振った。


「なんで、あの人がこんな所に呼ばれるわけ」

「現代のホームズだよ。新聞読まないのか? 有名人だぞ。匿名の協力者ってのは大抵コイツのことで、」

「やめてくれよオスカー。僕は推理はしない」


 ジェファソン君、ちょっと。

 そう、至極当たり前のように呼ばれて反応が遅れた。だって、まるで何十年来の友のような響きでもって呼ばれるだなんて誰が思おうか。出会って数時間と経っていない男に。


「手袋をもらって、ゴミ箱の中身を全部出してくれ。丸まっている物は伸ばして」

「死んだ人のゴミ漁れって言うの!?」

「死人に口無し。気楽なもんさ。これは助手としての仕事だ、頑張ってくれたまえ」


 そう言って私の肩を叩いて、セドリックは鑑識に目配せをする。

 「気をしっかり」そんな言葉、慰めにもならない。鑑識から手袋を受け取り、私は渋々、ゴミ箱の中身を広げたシートへと移す作業に取り掛かった。


「他の部屋の様子はどうだい?」

「ひどい有様です。貴金属も根こそぎ行かれてました。でも証拠らしい証拠は一つも無いんです。指紋も拭き取られていました」

「上はプロの犯行と見て捜査を進めるらしい。被害者の爪の間に、わずかだが犯人の皮膚が残ってたとかで、DNA判定待ちだ。明日には前科者とのDNA照合結果が出る」

「被害者の体内に犯人の体液は?」

「残っていなかったようです。随分セーフティだったみたいで」

「ジェファソン君、そっちはどうだね」


 背後からセドリックがそう呼びかけるのを聞いて、振り返る。


「特には何も」

「避妊具は?」


 セクハラもどきの発言に一瞬喉が詰まるも、男は至極当然のことを聞いたように真顔のままだ。

 シチュエーションが講義室なら、司法試験の問題に質問したと言っても誰も疑わないだろう。


「ここには無い」

「まぁあったら警察が持って行くだろうな」


 そう言って、セドリックは私が広げ置いたガーゼや、破かれたダイレクトメール、化粧品の外装をまじまじと見つめる。

 薄汚れたガーゼに顏を近づけ、くん、と鼻を鳴らす男に悲鳴が漏れそうになった。


「なるほど。アンモニアか」

「アンモニア……?」

「尿だよ。時にジェファソン君、一般的な三十代女性は尿漏れが始まっているだろうか」

「いいかげん訴えますよ?」

「すまない、オスカー。これ持って行っていいかな」

「ああ、どうせ今回もあらかた運び出した後だ。大丈夫さ。伝えておく」


 オスカーの言葉に短く礼を言い、セドリックは呆れて物も言えない私へと「用は済んだ。帰ろう」と声をかける。

 呆けたままの私を放置し、さっさと階段を降りて行ってしまう男の背を慌てて追った。


「あっ、すいません!」


 勢いよく通りに飛び出したものだから、そこに立っていた老人にぶつかってしまう。それでも止まろうとしないセドリックに、蓄積していた怒りがついに弾けた。

 男の隣を大股で歩きながら、その綺麗な横顔を睨み上げ、叫ぶ。


「こんなことまでするなんて聞いてない!」

「ハウスメイド兼SP兼助手、でお願いしていたはずだけど」

「こんな仕事の助手だなんて思うわけないでしょ!」

「それはきみの確認不足だろう。諦めろ」


 少なくとも、今回はね。そう言って笑うセドリックの笑顔は、やっぱり気持ち悪いくらい不器用だった。


◇◇◇


「ハウスメイドとしての仕事を頼みたい」


 帰って早々、私がコートも脱がないうちにセドリックはそう言って冷蔵庫を指差した。


「何が入っているか正直全く覚えていないんだが、何か食事を」


 僕は少しこれの下処理だけ済ませてくるよ。そう言って奥の部屋へと男が消えたのを確認してから、冷蔵庫を開ける。

 卵が一つと食パンが2枚、萎びたビーツ、パッケージが凍りついたバター、水が数本。惨憺たる中身にため息を漏らさずにはいられなかった。


「きみはどう思う?」

「ひどい生活してると思う」

「僕じゃなく、アリス女史のことさ」


 セドリックがそう、ガーゼらしき何かが浮かんだ液体入りの瓶を持って戻ってきたのは、十分ほどしてからのことだ。

 私はパンをトースターに押し込み、卵とビーツをフライパンで焼いているところだった。


「強盗の仕業じゃないの。貴金属も無いって言うし」

「きみが一人で暮らしているとしよう。強盗が押し入って来て、ベッドに追い詰められた。そのまますんなりじっとしているか?」

「私なら撃つ」


 そう、腰から銃を取り出す素振りを見せれば、セドリックが「それの出番はまだ少し早いな」と軽く両手を挙げた。


「普通は暴れるものだ。なのに縛った跡がない。おかしな話だろ」

「……恋人に殺された?」

「友人関係、恋人関係は警察が最初に洗うだろう。早々に僕が呼ばれたとなれば、被害者にはおそらく恋人も、非常に親しい友人も居ないという事だ」

「じゃあ、誰が?」

「アリス女史には、ちょっとやそっとの友人には言えない秘密があったと見える」


 そう言ってセドリックが顎を撫でたのと同時に、トースターから焼きあがったパンが顔を出した。

 それに手早くバターを塗り、焼いた卵とビーツを挟んで半分に切る。


「サンドイッチか。いいね。作業の効率を落とさない」

「作業って、その瓶……何をする気なの?」

「乾燥して蛋白変性を起こしている細胞を、判別可能なレベルまで戻してる。まぁ、上手くいくだろう」

「……私に難しい話はわからないけど、一つわかることがある」


 そんな私の言葉に、セドリックはサンドイッチの乗った皿を片手に首を傾げた。


「この家には、今晩、それしか食料がない」

「ああ、心配いらないよ。僕はそんなに大食漢じゃないから」


 おやすみ、良い夢を。そう言ってセドリックは再び部屋の奥のドアへと吸い込まれていった。

 どうやら彼には、半分こ、なんていう発想自体がないらしい。


 空腹に唸る胃にため息をついて、私はコートを持って3階へと続く階段へ足を進めた。


◇◇◇


 パラララララ。ダン、ダン、ダン。


 真っ暗闇の中で、弾ける熱。一瞬の眩しさ。寒くて、熱くて、喉が焼ける。

 鳴り止まない銃声。うめき声。昨日まで一緒に笑い合っていた仲間が、力無く転がって、真っ赤な水たまりを作る。濁った目で私を見上げてくる。


 殺さなきゃ、殺される。

 引き金を引くことに迷いはなかった。


 だけど、思うのだ。私を見つめて、一瞬だけ私より引き金を引くのが遅れた、あの兵士にだって、家族はいたのだろうと。

 悲しみと恐怖に染まったあの青い瞳。あれと同じ色の、美しい目をした子供が、居たのだろう、と。


「あぁあああぁあ!」


 暴力的な力でもって、意識が浮上する。


 真っ暗な部屋。ゴォン、ゴォン、と戦闘機みたいな音が響く頭の中が、内側から破裂しそうなほどに痛む。

 寝巻きは汗でぐっしょりと濡れていた。


「他人の侵入を許すほどの深い眠りからの、睡眠パニック。絵に描いたようなPTSDだ」


 真っ暗な部屋の中、備え付けのオモチャみたいなライトを付けたデスクの上で、セドリックは何か黒い――ああ、顕微鏡か――を覗きこんだまま、私へとそう言った。


 なんで部屋に、とか。いくら雇い主と言えど人権侵害だ、とか。思うべきことは沢山あるはずなのに、頭の中はぐちゃぐちゃなままだった。


 あの日の戦場から、私はまだ戻ってこられていないのだ。


「ミア君。とりあえず、下ろしてくれないか」

「え……?」

「きみのその、相棒をさ」


 セドリックにそう言われて初めて、私は自分がピストルを構えていることに気がついた。


 まっすぐに伸ばした腕と銃口はかろうじて侵入者の方へと向いていたけれど、こんなに震えていては当たるものも当たらないだろうな、とどこか冷静な自分を取り戻す。


「……すいません」

「謝ることはない。ここで撃たれたとしても文句は言えないことをしているからね、僕は」

「確かに」


 深夜、婦女子の寝室に侵入して、顕微鏡を覗く。新手の変態だと思われても仕方のない話だ。


「PTSDだって、隠してたつもりはないんです」

「いや、オスカーから聞いてるよ。大変だったろうね、国の為に」

「……まさか。私には、愛国心なんて」


 愛国心なんて、ほとんど無かった。国のため、自由のため、そんな戦友たちの言葉を聞くたびに苦しくなった。

 だって、私は自分の生活の為に人を殺したのだ。仕方がないのだと、言い訳をして。


「あの女の人を殺した犯人も、私も……きっと、根本は同じだわ」

「それを確かめに行こうじゃないか」

「え……?」

「再生、乾燥、固定、染色。全てつつがなく終わったよ」


 犯人を探しに行こう。そう言ってセドリックは笑ったようだったけれど、暗闇に隠れたその顔は、ちっとも見えなかった。


◇◇◇◇◇


移行上皮いこうじょうひだ」


 次の日、昨日と同じく被害者のアパートに集まった私とセドリック、オスカー、それから刑事だというレストレイドさんは、セドリックが差し出した写真を見下ろし、そして首を傾げた。


「これがなんだって言うんだ、ホームズ先生」

「僕は一度だってホームズを名乗ったことはないけれど、きみのその無能っぷりは正しくレストレイドそのものだな」


 そう、頭上で長身の男二人が額でもぶつけそうな距離で言い争うのを横目に、私はセドリックがテーブルの上に広げた写真をまじまじと見つめる。


 薄い、オレンジや水色や紫の膜のようなものが大量に重なったものや、同色の、ゆで卵を輪切りにしたようなもの。

 子供の頃によく見た、カエルの卵のようなそれらに口元が歪んだ。


「移行上皮だよ。言ってみろ、被害者から採取した犯人のDNAは前科者とかすりもしなかったんだろう。そうだろうさ、こんな事そこらのゴロツキに出来るもんか」

「セドリックとレストレイドさんはウマが合わなくてね」


 初めて見るセドリックの荒っぽい態度に戸惑っていたら、オスカーがそう説明してくれた。なるほど。レストレイドさんは悔しそうに唇を噛んでいる。

 その姿に満足したのか、セドリックは歌うような軽快さで説明を始めた。


「これはベッド横のゴミ箱から回収したガーゼから分離、標本にした細胞だが、ガーゼからはわずかながらアンモニア臭がした。尿がしみ込んでいたと見て間違いないだろう。性的興奮によるものかとも考えたが、この大量の移行上皮がそれを否定してくれた。移行上皮は特殊な上皮で、人体の腎盂じんう、尿管、膀胱、尿道にしか存在しない。しかもだ、健常成人の尿からはほとんど検出されるはずがないんだよ。それがこんなにも大量に出た。これは、故意的な行為によって泌尿器から上皮が剥がれ落ちたことを意味するわけだ」

「……つまり?」

「なんらかの器具を突っ込んだんだろうね、尿道に」

「なんのために?」


 思わず非難めいた声が出た。だって、意味がわからない。なんの為にそんなことを?


「そういう性的趣向の人間も、世間には少なからず存在するってことだ」


 そう、セドリックはため息をついて肩を竦めて見せる。


 この変人の発言をイマイチ信用していない私はそのままオスカーと刑事を見上げたけれど、気まずそうに目を逸らされてしまった。

 呆然とする私をよそに、セドリックは「続けていいかな」と一枚の写真を示して口を開く。


「これを見てわかるように、ここ一帯は全て移行上皮だ。しかしだね、この鉄染色てつせんしょくの結果を見てくれ。血球反応がほとんど見られない」


 そう言ってセドリックは、一枚の写真を示す。今度のものは、全体的に薄桃色のカエルの卵がたくさん並んでいた。


「鉄はベルリンブルーによって青く染め出される。つまり、血鉄素であるヘモジデリンが存在すれば、青く見える。ミア君、青い細胞は見られるかね」

「ああ、言われてみればちらほらと青い粒が……でも、ほとんど見当たらないわ」

「おかしいのか?」

「おかしくはないさ、一般的な健常成人ならね。ただ、被害者は上皮が剥がれ落ちるほどの行為を働かれている。出血していた方が自然とも言えるだろう。これは被害者が相手に協力的だったことと、もう一つ」


 セドリックは人差し指をその薄い唇に当て、そうしてニタリと笑った。


「相手はプロだ。それも、ベテランの」

「……医者か!」

「僕はそう見るね」


 セドリックの言葉を聞いたレストレイドさんが、慌ただしく電話をかけ始める。どうやら捜査の方向性を大幅に変えるらしい。


「彼女ほどの女性なら、医療保険に入っているだろう」

「受診履歴か。なるほどな。あとは任せてくれ、セドリック」

「そのつもりさ」


 ミア君、来たまえ。

 そう、さっさと踵を返すセドリックに続いて、部屋を出る。通りでタクシーを止めるのかと思いきや、彼はその長い足でつかつかと細い路地を突き進んだ。


「どこへ行くの?」

「きみは元軍人と言うわりには随分平和ボケしているみたいだ」

「へ……?」

「つけられてる。昨日からね」


 そう、言うが早いか駆け出す男。ほとんど反射みたいにそれに続けば、後ろから数人の足音が響き出す。

 振り返れば、若い男が数人、私たちを追って走っているのが目に入った。


「えっ、え!? なん……え!?」

「気づかなかったのかい、ジェファソン君。昨日、あのアパートを出た時に老人とぶつかったろ。その時にどうやらコートに小型の盗聴器をつけられたらしい。いやはや、アリス女史は随分大物を相手にしていたようだ」

「何を呑気な! なんで教えてくれなかったんです!?」

「盗聴器を仕掛けさせるくらい神経質な男みたいだからね。こうして向こうから仕掛けて来るだろうと思ったのさ」


 昨日は忍び込んで申し訳なかったね。そう言って、セドリックは路地を抜けた。


 少しばかり広くなった通り。その向こう。もの凄いスピードで走ってくる黒塗りの車に、耳鳴りがする。

 そう思うと同時に響いた爆発音。左半身を持っていかれる。飛び散った血が、視界を舞った。左耳が熱い。撃たれたのか。


「参ったね。袋の鼠、万事休すだ」

「黙って、そこに伏せていて」

「いいのかい、あいつらにも守るべき家族が居るだろうに」

「ええ。そうね。私も同じよ」


 どんなに偏屈だろうが、変人だろうが、あなたは一人の女性の魂を救おうとしている。

 バカな私にだって分かる。あなたの代わりなんて、そうそう見つかるわけがない。


 誰にも、あなたを殺させない。


 腰から抜いたピストル。私の相棒は、昨夜の面影を消し去ったように、真っ直ぐにその口を迫り来る車へと向けている。


 生まれとか、肌の色とか、境遇とか。社会から必要とされないとか、羨望とか、嫉妬とか。全部全部、クソ喰らえだ。

 もう、自分の運命を誰かのせいにはしない。


 私はゆっくりと、引き金を引いた。


◇◇◇


「大正解だよ、セドリック。被害者が数年前に通ってた泌尿器科の医者だ。きみのハウスメイドが半殺しにした小悪党どもが雇い主の名を吐いたよ。DNAもバッチリ適合さ」


 そう、非番だというオスカーに私達が呼び出されたのは、一週間後のことだった。


 いつかのコーヒーチェーン店。泥水のような液体を啜りながら、私は右耳を傾ける。

 撃たれた左耳は下半分がごっそりえぐれたけれど、膿みもせず回復へと向かっていた。


「そこそこデカい総合病院の医者だよ。名前は――、」

「興味ないな」

「言うと思った」


 すっかり興味を失って窓の外を見つめるセドリックに呆れたようにそう言って、オスカーは私に向けて言葉を紡ぐ。ゆっくりと、聞き取りやすいスピードでもって。


「よくある話だ。不倫が拗れて、奥さんや病院にバラすって言われたから、反射的にだと」

「最低ね」

「まったくな。で、きみのサイテーな雇い主のことはどうする?」


 そう、オスカーはちらりとセドリックへと視線を向ける。ぴくりとセドリックの目尻が跳ねたのを、見逃さなかった。


「怪我が治るまでは保留かしらね」

「俺が言うのもなんだが、いいのか。ラクな仕事じゃないだろ」

「ええ。いいのよ。変わってるけど、悪くない」


 オスカーはそんな私の言葉に「じゃあ保留してたキスは今度受け取りに来るよ」なんて戯けて、この店を後にした。


 しばらくの沈黙。ぼんやりと窓の外を見つめる男のゆるい巻き髪が跳ねて、その青い瞳がこちらを見下ろす。

 そうしてセドリックは、コートのポケットから小さな箱を取り出した。


「……なに?」

「開けてみたら」


 特にサプライズを企画していたわけではないのだろう。すっかり忘れてた、とでも言わんばかりの男に眉をしかめつつ、手のひらサイズのそれを受け取る。


 手触りのいいベロアを撫で、開いた箱の中身は、キラキラと輝く紫色のピアスだった。


「わぁ、すごい!」

「だろう。いい色だ」

「片耳吹っ飛んだ女にピアスをプレゼントするその神経がすごいって言ってんのよ」


 さすが変人。されど変人。いや、これはさすがに開いた口が塞がらない。

 そんな私の言葉に、セドリックは気分でも害したように眉をしかめた。


「きみには分け合うという概念がないのか」

「はぁ?」

「半分こだ。片方はきみに」


 もう片方は僕が。そう言って、セドリックは左耳にピアスをつけて見せる。


 真っ白な肌に、控えめなアメジストがよく映えた。


「いい色だろ。きみにも僕にもよく合う」

「……ええ、そうね」


 半分こ、しましょ。


 震える指先で、ピアスをつまむ。なんでもないような顔を必死で取り繕うのに、男はそんなこと気にも止めていないようだった。

 それがどうしようもなく嬉しくて、胸がいっぱいになる。


 私はここに居ていいのだと、そう思った。


「ああ、もう……なんなの、あなたって」

「きみの雇い主で、今日からは相棒だな」


 そう言って笑うセドリック・フォスターの笑顔は、やっぱり不器用で、気持ち悪かった。




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