ミスタ・クロック・ムッシュウ

きゅうご

ミスタ・クロック・ムッシュウ

 眠れない夜半、パン屋でクロックムッシューを買っていたことを思い出した。

 焼きたてのぺらぺらした札がついたトレーに乗っていたそれは恐らく冷えているだろうが、それを齧りながらルシアの小説を読もうと思い立つ。なんて素晴らしい思いつきか。

 わたしは部屋のドアを開けて犬の寝ているキッチンで四角いクロックムッシューの紙袋を探した。それは見つけた時にはーー父が冷蔵庫に入れていたらしく冷え切っていた。

 少し落胆してからトースターの電源を入れる。

 ここでムッシューのお出ましを待つのも悪くはない。

 ムッシュ・クロックムッシュー。

 いやルシアは多分英語圏の人のはずだ。それならミスタ、ミスタ・クロック・ムッシュウはどうだろう。彼の為にタイマーを二分半にセットしてぼんやりと明るくなるトースターの庫内を眺めた。暗闇からぼんやり浮き出るミスタ・クロック・ムッシュウ。

 なかなか気に入った。

 犬のいびきとともにあたため終了の合図。

 わたしはミスタを元の紙袋に入れて部屋に戻る。ルシアの出番だ。

 そしてわたしは彼女の世界とミスタの味に心を割り振りながらベッドの上で文字を読む。文字は文になり文章になりルシアの声が聞こえる。短編を二編旅し、わたしは心地いい文字の中にいる。

 ミスタの後味も心地よいのに、わたしは小さく声をあげそうになった。

 現代文教師(別段いい教師でも悪い教師でもなかった)。課題文に書かれた彼の評、いや評ではなく彼としては親しみを込め学生をたしなめたつもりだったのだろうと思う。

 冗談じゃねえや、と言ってしまうのは子供じみている(わたしは子供っぽいことをしてはいけないという呪いにかかっていて)(その呪いそのものが子供っぽいゆえにがんじがらめだ)

 学生の書いた幼い文章への、これまた幼い私の感想文だった。

 丁寧な表現の大切さを書いたその文章に、わたしはほんのすこうし反発したのだ。適当に、そう学校の課題なんて大学に入るまでは魂を削るべきではないのに。

 単純な言葉の方が心に迫ることもある。当時のわたしはそう思ったし今もそう思う(子供じみているので呪いにより私の心は少し削れた)彼はそうは思わなかったようだ、優しい遠回しな言葉で諌められた。

 手の甲に刺さった柔らかなトゲ。魚の骨が喉につかえたまま他の理由で死ぬ。赤ん坊の泣き声、そういうもの。彼の言葉はわたしにとってそういうもの。

 だんだんと朧にはなってきた記憶をたどっていたら朝の四時半。寝てもいいがトゲを抜きたくて私はまたミスタによる五感の刺激とルシアの声を思い出す。

 だってわたしには、こうするしかないのです、ミスタ。

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