第35話 Epilogue2 降り積もる雪の中で

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 今日は僕の二十歳の誕生日だ。五年前の神様との契約の時に、一日だけ綿雪さんに関する記憶を返してくれると約束してもらった日でもある。

 ちらほらと、柔らかく大きな雪が舞い降り始めた。すっかり寂れたように見えなくもない、昔から見慣れた公園のベンチは無感情で冷たかった。そこに僕が座り、綿雪さんが僕の右に、並んで座る。吐く息が白い煙のように、冬の空に立ち昇っていく。

「久しぶり。中学出て以来だもんね」

「そう――ね。もう、そんなに経つんだ」

 五年ぶりに電話してみたら、彼女は僕の誘いを受けてくれた。

 首周りにファーのついた柔らかそうなコートを羽織った彼女は、もうタブレット端末を持っていない。

「なんだかんだで、卒業するまでの間もその後も、僕たち一回も喋らなかったしね」

「……喋るって言っても、何を話せばいいか分からなかった。朝日くん記憶無いし」

「……やっぱり声があっても綿雪さんってなんか素っ気無いね」

「放っといて」

 僕が苦笑すると、綿雪さんが少し膨れるような面をした。やはり雪が降るような厳しい寒さには慣れていないようで、その頬は少し赤い。

「大丈夫? 寒いなら、喫茶店とか家でも話せるけど」

「家は嫌。また二人きりで狭い空間に居て、押し倒されたらたまらない」

 うぐ。

「――喫茶店は?」

「……いい」

 少し間があった。

「話、長くなるかもよ?」

「いい」

 今度は即答。

「……分かった」

 僕の言葉に綿雪さんは無言で頷いた。

「ずっと、気になってた事があって。綿雪さんが僕と筆談だったのはどうしてなの?」

「神様と世界を滅ぼす契約を果たした代償が、〝言葉を喋る事〟だったの。あの時、もう私は日浅くんの事が好きで――ずっと、話したいって……思ってたから」

 話してる途中でばつが悪くなったのか、綿雪さんはファーを口元に寄せ、顔を埋める。

「……そっか」

 その言葉を最後に、僕たちは沈黙してしまった。粉雪が優しく、僕たちの上に積もっていく。僕は持って来ておいた傘を綿雪さんに差し出す。傘を持った右手に気付いた綿雪さんは、左手で傘を受け取って開いた後に無言で僕の方に寄って座る。

「傘、僕が持つよ」

「……じゃあ、お願い」

 結局、傘は僕の右手に握られた。

 僕たちは同じ傘の下で、しばらく黙って雪を見つめ続けた。お互いの探り合いじゃなくて、僕たちの言いたい言葉を探し続ける時間だった。話があると呼んでおきながら、僕は未だに心に何の整理もつけられていない。

 寒い。

「――ちょっと待ってて。コーヒー買ってくる」

「うん。いってらっしゃい」

 僕は傘を綿雪さんに渡して駆け足で公園を出た。すこし離れた十字路にある自販機でブラックと微糖を一本ずつ買った。戻ってきたら、微糖の方を綿雪さんに差し出す。金ぴかの缶で、ちょっとゴージャスに見えなくもない。

「微糖なら飲める?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 傘を貰った後、二人で寒空の下、黙ってコーヒーを飲み続ける。

「日浅くんって、ブラック飲んでるの似合わないね」

「似合う似合わないじゃなくて好きで飲んでるんだよ」

 僕はまたコーヒーを啜った。苦味が重たく、体のどこかに染み込んでくるのを感じた。

 僕達の会話は、また止まった。

 少しずつ、砂利の地面は雪に染められていった。

「……もう一度、訊きたい事があるの」

 とっくにコーヒーを飲み終わった沈黙を切り出したのは、綿雪さんだった。

「日浅くんは、どうして私を助けたの?」

 どこか気丈で、どこか湿り気のある声だった。

「私はさ、死んでも良いやって思ってたよ。父さんはいっつも、お前なんか生ませなきゃ良かったってこぼしてたし、友達はいなかったし、人生がつまらなかった。生きる意味なんて無くて、だから皆で死のうと思って世界を滅ぼそうとしたし、でもやっぱり日浅くんには生きていて欲しかったって気付いたから、世界を元通りにしようとしてた。日浅くんは、わざわざ私のことを助ける必要なんてなかったんだよ」

 五年前、蛍池で偶然見てしまった、綿雪さんの体にあった痣の事を思い出した。

 僕の反論は、自然に口から転がり出てきた。

「――でも、やっぱり必要だったと僕は思うよ。同じように、僕は綿雪さんに生きていて欲しかったんだよ。死んで欲しくなかった。君がいなくなった後記憶は消し飛んでたけど、心にぽっかりと穴が開いてたのが自分でよく分かった。だから、とにかく知らなくてもなんでも、助けるって決めたんだ」

「そんな――曖昧なことのために?」

「たかだか中学生なのに、ちゃんとした目標に向かって走れたりなんかしないよ。僕らの経験は決して無駄なんかじゃない」

「無駄だよ。少なくとも、私にとっては」

「そりゃ大変だ。頑張って残りの人生も生きてくれ」

「日浅くん、皮肉も言えるようになったんだね」

「元からこんな感じだったと思うよ。僕たちが、こんなことを言い合う関係じゃなかっただけ」

「……ふふっ」

 綿雪さんの頬が、ふっと緩んだ。

 微笑というよりは、笑みが我慢できず漏れてしまったみたいに。

「なんだか楽しいね」

「――これが喋るってことなんだと思う。筆談と口頭のままの僕たちじゃ、出来なかった」

「私の筆談は、文字数を出来るだけ減らしてたから。書いたり打ったりのが面倒だったのと、あんまり感情を気取られたくなかったのとで」

「感情の方はなんで? シャイだから?」

「好きだったから」

 躊躇する様子なんて全くなく、綿雪さんは告げた。

「好きだったけど、好きになってた自分は嫌いだった。どうにもならない現状も嫌いだった。理不尽な世の中も嫌いだった。動きたいのに動けない、広いのに窮屈な世界が大嫌いだった」

 私が好きのは日浅くんだけだったんだよ。と、綿雪さんは自嘲するように呟いた。

「でも、だから僕を助けてくれようとしたんでしょ?」

「……うん」

「じゃあそれでいいんじゃないかな。綿雪さんが僕を助けようとして、僕が綿雪さんを助けようとして、二人とも何とか生きてる今がある。それで、万事解決――とまではいかないかもしれないけど。大体は、多分、うまく収まったよ」

 沢山の揺らぎと葛藤を経験した。

 世界の危機とかを気付いたら乗り越えてた。

 そうして僕たちは、一つ大人になった。

 雪はとめどなく降ってきて、町を純白で満たしていく。手袋もしていない僕の手に、もうまともな感覚は何一つ残ってやしない。ベンチに置いていた空っぽのコーヒーの缶は、驚くほどに冷たくなっていた。

「これ、渡しておくね」

 唐突に綿雪さんが取り出したのは、五年前の交換日記だった。僕は目を丸くした。

 長い間、大切にしてくれていたらしい。

「たくさん書いてくれてありがとう。返事、ノートに収まりきるか心配なくらい書いちゃった」

「僕の方こそありがとう。全部、読んでくれたんだね」

 返信は……もう出来ないかな。と、僕は心の中で呟く。

 僕はそれを受けとって、膝の上にそれを置いた。続けて僕は彼女に尋ねた。

「綿雪さんはこれからやりたいことってないの? 無駄だなんだって言われると、助けた方としてもやっぱりちょっと悲しくなっちゃうよ」

「……分かんない。これまで私は空っぽのまま、目標もなく生きてきたから。――でも強いて言うなら、もう一度だけ恋がしてみたいかな。今なら私のマイナスを、ただ思うがままぶつけたりせずに済むと思うから」

 綿雪さんは、僕に笑顔でそう言って見せてくれた。

 僕の本当の思いを告げるなら、ここしか無かったと思う。けれど、それ以上に彼女の思う道を歩んで欲しいと、そう思った。だから、喉の入り口まで出かけていた言葉を静かに飲み込む。

 その笑顔が見られただけでも、五年前の僕は救われた。

 本心の君に、そうして笑って欲しかったんだ。

「応援してる」

 僕も綿雪さんに笑いかけた。

 僕たちはベンチから立ち上がった。


 綿雪さんを送り届ける間、傘も差さず僕たちはずっと無言だった。ひたすら歩いていると気付けば綿雪さんの家の前だった。冬を迎えた綿雪家の庭のさまざまな草花は、懸命に冬を乗り越えようとしていた。その一角のロウバイの木が、鮮やかな薄黄色の花を咲かせている。

「じゃあ、僕たちはここでお別れだ」

「うん。送ってくれてありがとう」

「……ここで、ばいばい、だ」

「……うん」

 別れを告げた僕たちは、そのまま俯いて動けなくなる。

 僕も綿雪さんもばいばいを伝えたのに、二人とも帰ろうとしない。なぜだろう。

 白い地面を延々と見つめた後、僕たちは帰らないままのお互いを見た。

 すると、綿雪さんがこっちに近づいてきて。

 両手を僕の顔に添えて。

「ん――」

 真っ白な時間が、何秒か続いた。

 唇を重ね終えた彼女の吐息は、とても温かかった。

 玄関に向かう綿雪さんがこちらを振り返って、笑う。

「今度こそ、ばいばい」

 呆気に取られる僕をよそに、別れを告げた綿雪さんは玄関ドアの向こう側に消えていった。

「――ふふっ」

 残された僕は吹き出した。

 このキスはどう受け取ればいいんだろう。

 まあ、明日になれば、この記憶もどうせ失われてしまう。神様に貰った五年越しの告白のチャンスを、僕はあっさりとふいにしてしまったわけだ。

 肩を揺らしてひとしきり笑った僕は、交換日記を握り締めて実家に向かって歩き始める。

 肌を刺すようだった寒さは、大して気にならなくなっていた。


 僕たちは沢山の間違いを犯す。なんなら生きることそのものが間違いでもおかしくはない。

 けれどその間違いは僕たちが僕たちである由縁でもあり、だから僕たちは僕たちで居られる。

 十人十色、千変万化、億万通りの分かれ道の一つを、僕たちは歩いて、また別れていく。

 たまにちょっとその道を振り返ったりして。

 たまたま自分の道が誰かの道と繋がってたりして。

 気付いたらまた離れ離れになって。

 それでも笑って前を向いて。

 そうして僕たちは、それぞれの今を生きる。


〈終〉

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Ending=Girl ろろろ @rrr_novel

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