サイモンは支配されている(3/3)

 約五時間にも及ぶ長い見世物小屋の見物を終え、サイモンとシバカドはようやっと家路についた。その帰り道、サイモンとシバカドは熟した蜜柑のような色の空を見ながら寄り道をする。

 朝から見世物小屋を回りへとへとだったが、サイモンはこの寄り道が嫌いではなく、その熟した蜜柑色の空はサイモンが育った繁殖工場で見た最後の景色を彷彿とさせた。


 サイモンは、山と川に囲まれた自然豊かな場所で育った。サイモンは、〈サイモンたち〉の中では比較的恵まれた生活をしており、田舎町ではあるが、敷地五四〇坪の広い繁殖工場の中でたっぷり運動をしながら幼少期を過ごした。

 その頃、サイモンにはまだ名前がなかった。

 同じ地で育った五人の血のつながったきょうだいと、他の親から生まれた七人のきょうだいは、体躯の差はあれどどれも自分と似たような容姿をしており、月日が経つにつれ、一人また一人と出荷されていく。きょうだい達の半数が出荷されたある日、ついにサイモンも出荷されることとなった。

「今日からお前はサイモンだ」

 サイモンを引き取った男――シバカドは、彼に『サイモン』という名をつけると、首輪をつけた。サイモンの隷属生活の始まりである。

 その瞬間、サイモンがいったい何を思ったか覚えていないが、『サイモン』と名付けられた時に見た柔らかい光を帯びたシバカドと、悲しいほどに熟した蜜柑色の空だけが鮮烈にサイモンの海馬に焼き付いている。

 そんな、蜜柑色の夕暮れ時、事件が起こった。


 サイモンは、前述した通りネオテニー化した一族だ。そしてシバカドも『支配者』の中ではネオテニ―が進んだ血族である。幼い顔立ちの血族の中でもとりわけ幼い顔をしたシバカドは、昨今ではベビーフェイスに類される顔立ちをしており――つまり、シバカドは非常に童顔なのだ。

 もう三十路のおっさんであるが、シバカドより年若い者たちに虐げられることも少なくない。今、この瞬間のように。

「やめてくれ。こんなことをしてタダで済むと思っているのか」

「ママに言いつけるってか? ガキの癖に生意気な目だ」

「俺はこう見えて三十二で、君たちより遥かに年上だ!」

「まじかよ、じゃあより金持ってそうだな。ラッキー」

「なっ……」

 弱きものは強き者に搾取される。『支配者』達はこの世界の『支配者』になるだけでは満足できなかったらしく、このような小競り合いは日常茶飯だった。

 主人を守ると決めたサイモンだが、そのよく通る声で叫び声をあげても誰も助けには来ない。ならば実力行使しかない。サイモンは渾身の力で突進したが、若者に辿り着く前に腹に重い蹴りを入れられてしまった。一度だけでは飽き足らず、むしろサイモンを痛めつけることに愉しさを見出した若者達は、サイモンを罵倒しながら何度も蹴り上げた。

 暴虐的な混沌がサイモンを襲う。まだ世界は熟した蜜柑色の世界のはずだが、目の前にある自らの手すら見えなくなり、茫洋な暗がりが広がった。打ち所が悪く、目が見えなくなってしまったらしい。それは未知の恐怖だった。殴られ、蹴られ、体は熱くてたまらない。ここでしいされるかもしれない恐怖が、目の見えない暗黒の恐怖が――無音の橙色が、体温を吸い込んでいくように感じた。

「サイモンに手を出すな、やめてくれ!」

 シバカドの声にサイモンははっとする。意識が遠のいていたが、サイモンの愛すべき主人の声でこの世界に帰ってくることができた。黒に塗りつぶされた視界に色が戻ると、それは極彩色にきらめく。シバカドはなおも叫び続けたが、サイモンへの暴行はやまなかった。

「ご主人、この隙に逃げてくれ。僕はあなたを守りたい。なに、僕には『猟犬』としての血が色濃く残っている。心配することはない」

「やめろ! サイモンから離れろ! 金ならいくらでもやるから!」

 しかし、シバカドはパニックのせいかサイモンの言葉を理解することができない。シバカドは地面に頭を擦り付け、懇願した。サイモンはそんなシバカドの姿を見たくなかった。奴隷なんかの為に、泣いて頭を叫ぶシバカドが情けなく思い、そうさせている自らがひどく腹立たしかった。サイモンがそんなことするなと何度糾弾しても、シバカドは聞く耳を持たず頭を地面にこすり続ける。

 若者たちはシバカドをせせら笑いながら、数枚の紙幣を手に取り立ち去っていった。突然の奇襲からやっと解放されると、シバカドはサイモンに駆け寄り、横たわるサイモンの頭を優しくなでる。

「サイモン、俺のこと守ろうとしてくれてありがとな。嬉しかった」

「でも、僕は何もできなかった。あなたに、あんなみっともない真似をさせてしまった」

「お前が無事で本当に良かった、すぐ病院連れてってやるかな。ああ、でも財布を取りにいったん家に帰らないといけないけれど」

「ご主人……」

 シバカドは、サイモンの嘆きには何も答えず、イテテと蹴られた箇所をさすりながらサイモンの体躯を抱き上げた。

「はは、いや、流石にでかいなあお前」

 辛そうに眉間に皺寄せるが、その顔はとても嬉しそうだ。

「大丈夫だ、自分で歩ける」

「自分で歩くのか? ごめんな、サイモン」

 シバカドはよたよたと立ち上がるサイモンを心配そうに見届け、無事立ち上がったサイモンの頭を優しく撫でる。サイモンに合わせた、ゆったりとした足取りだった。シバカドの顔、主に額は、こすりつけた土で汚れており、少し血が滲んでいる。ただでさえブサイクな顔がさらにブサイクになっていた。

 下げたくもない頭を下げ、あまつさえ地面に擦り付けるという行為は並々ならぬ汚辱であったに違いないが、シバカドはケロリとしていた。

「どうしたサイモン。……やっぱり痛むか。抱えて帰るから無理すんな」

「いや、そうではない。ご主人は、どうして」

 どうして、奴隷の僕なんかの為にあんなことを。

 続く言葉は、サイモンの喉の奥で溶けて消えた。それを言うと、シバカドはとても悲しそうな顔をするのだ。サイモンは、大切な家族だと。

 シバカドはただただ心配そうにサイモンの瞳を見つめている。

「あ、俺のこと心配してる? 俺はさ、サイモンが無事なら何でもいいんだ」

 その瞳の奥に、サイモンを傷つけられた悔しさや憤りこそあれ、自らに対する行動に対しては何とも思っていないようだった。思っていないというか、サイモンのことで自らに対するあれこれはすべて塗りつぶされているらしい。

「今日はいっとうおいしいメシにするからな、サイモン!」

 ウォーキング中であろう若い女性のイヤホンからは、雑音のような音楽が漏れている。サイモンは鼻が良いが、耳も良い。速足で遠ざかるその洋楽か邦楽かもわからない音楽を聞きながら、疲労と痛みに打ち震える体を押し、今度こそ家路についた。

 熟した蜜柑色の空には濃紺が滲みだしている。腐りかけの蜜柑のようだが、蜜柑は腐りかけが一番美味しいとも聞く。シバカドも同じことを思ったのか、その日のデザートには蜜柑が出た。

 サイモンは、腐りかけの蜜柑のような空も好きになった。


 翌朝、サイモンの小麦色の明るい髪は、今日も堂々と太陽の光を受けている。思わず大きく欠伸をすると、それにつられてシバカドも欠伸をした。額の真ん中にわんぱく坊主さながらに絆創膏を張り付けたシバカドは、ニイと歯をむき出して笑う。

「なあサイモン、やっぱりインコ飼わないか? あ、もちろん一番好きなのはお前だよ? でも、俺が仕事に行っている間、お前も一人で寂しそうだしさ」

 シバカドは、まるで恋人に言い訳をするようにサイモンの機嫌を伺いながら言葉を続ける。

「本当はサイモンと同じシバか、あとお前オオカミが好きっぽいからシェパードとかもいいなあって思ったんだけど、俺の収入じゃ犬二匹はキツくてさ。どうかな。俺、お前に寂しい思いさせたくないんだ。だからせめて、動物園に居たカワセミにそっくりな、青い羽根のインコを迎えようかなって」

「ご主人と二人だけの生活に僕は満足している。寂しくなんてない」

「そうかそうか! よーし、どこに買いに行こうかなあ」

「ご主人、そういうとこあるぞ。都合が悪いと、僕の言葉が分からないフリをする」

 シバカドは鼻歌を歌い、たまに屁をこきながらペットショップを検索する。そして、思い出したように写真を数枚SNSに投稿した。投稿者名は『柴門shibakado@サイモン』。

「ふふ、やっぱりお前が一番かわいいよ。サイモン」

 シバカドがアップロードした写真は、遠吠えをする居丈高なオオカミが一枚、美しい青い翼を大きく広げたカワセミが一枚、そして動物園で買ったクッキーをおいしそうに食べるサイモンが一枚と、ポートレート風に撮った決め顔のサイモンが三枚投稿されている。

 三十路の主人は結婚もしていないが彼女もおらず、写真家として名前が売れているわけでもない。SNSのフォロワーも少なく、『いいね』は翌日になっても一桁しかつかない。都合が悪くなると、すぐにサイモンの言葉がわからないフリをする。それでも、サイモンにとっては最高の主人だった。


 サイモンは人間に支配されている。

 その支配は暖かく、柔らかい。サイモンのもふもふな毛より、ふわふわなしっぽよりも気持ちの良いそんな何かで――。サイモンはそれをなんと形容してよいのかわからないが、今ならサイモンの祖先でもる、あのしわがれたオオカミに即座に答えることができるだろう。

「僕は、人間に支配されて幸福だ」


fin

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サイモンは支配されている いましめ @rebuke228

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