ほどけてゆく

時雨薫

ほどけてゆく

 人類が同一性の危機にさらされ始めたのはいつからだろう?20世紀、フロイトの登場から?いや、あるいはそのずっと前に地中海の北岸で白いひげを蓄えたおじいさんたちがそんな議論に到達していたかもしれない。

 そうはいっても、この問題が現実離れしたもの、あるいは一部の障害を抱えた人々だけのものでなくなったのはつい最近、ここ半世紀の話といっていいだろう。一つ目は計算機への意識の移し替え。情報は手紙じゃない。いつだってコピーだ。写し取られた私は本当に私?二つ目はテレポーテーション。再構成された私は私かしら?三つ目、これが問題。だって、これは個人の問題じゃない。時間論理学の応用による方法。ある時点において矛盾した事象―たとえば、ここには時計が存在していて、かつ存在しない―が発生すると、その時点からあらゆる宇宙が発生する。時間遡行の技術が実用化された今、矛盾を発生させることはとても容易だ。もしかすると既に発生しているかもしれない。そして私たちには今のところ、過去に矛盾が発生したかを知るすべがない。これは少なくとも私にとっては不快なことだ。誰かが過去へ干渉して、私を、無数に存在する私(らしきもの)の中の一つにしてしまうことができる。いいや、きっともうそうなっているのだ。時間遡行は国際条約で禁止されているけれど、その技術が確かに確立されたのだから誰かはやっている。ただ私たちはそのことを知らないだけ。私は唯一の私ではなくて、無限にほどけていく可能性の中の一つ。もし数えることができるのならだけど。

 だけど誰もそんなことを気にしてはいないみたい。パパもママもいつも通りの時間に起きてきて、いつも通りの朝食をとって、いつも通り仕事へ行った。私もいつも通り退屈な窓際の席。こうしている間にも、私は突然無数の私へほどけていくかもしれない。それはとても怖い。校庭を蝶が飛んでいる。遠くに竜巻が見える。この街ではよく起こるんだ。私はうとうとして鉛筆を落とした。鉛筆の芯は【折れていた。】【折れていなかった。】

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ほどけてゆく 時雨薫 @akaiyume2

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