第9話

いつものカフェの、いつものテラス。を通り過ぎて、マルテナ嬢は乗合馬車に揺られていた。

淡い金色の髪。オフホワイトのブラウスに、臙脂のロングスカートはアシンメトリ。すらりと脚を組み替えると、膝頭が露わになる。揺られながらページを繰る姿さえ、誰もを惹きつける。しかし御者だけは。そんな姿を訝しんでいた。

貴族街の前から乗ってきた、見目麗しい少女。所作も、風態も、おおよそこんな馬車に乗るようなものではないからだ。貴賓用の一頭馬車で良いはずなのに。何かあるのではないかと内心穏やかではなかった。決して稼ぎは多くはないが、彼はこの仕事に誇りを持っていた。貴族令嬢の機嫌を損ねて、失うにはあまりに惜しい。どうか早く降りてくれ。そう思ううちに、馬車は終着の停留所に着いてしまった。市壁西南門前。この都でも屈指の繁華街だった。

「……あのぉ、お嬢さま?」

書に没頭するあまりか、すっかり誰もが降りた後もじっと座ったままの少女に、御者の男は意を決しそう声をかけたのだ。

「あら……!もう着いていましたのね、ごめんなさい。果てまで乗れば良いとだけ伺っていましたから、何処まで行くのか知らなくて」

「いいえお嬢さま、結構でございますよ。時間の定めのない乗合でございますから……」

「そうなんですの?お急ぎかと思いましたのに。それで──」

恐縮して揉み手をする御者。マルテナ嬢はその手に運賃として、手持ちから一番小さなコインを握らせた。

「お代はこれで足りるのかしら」


普段滅多に見ることのない金貨に目を白黒させ、しきりに頭を下げる男ににこやかに手を振ると、マルテナ嬢は大通りを歩き始めた。背筋をピンと伸ばし、しなやかな脚を交互に出すだけなのに道行く誰もの目を惹く。何処か雑然とした街並みに似つかわしくない麗しき令嬢の行方を目で追う者は後をたたなかった。来た道を少し戻って、四つ目の角で立ち止まると、小さなバッグから、丁寧に折り畳まれたメモを取り出した。簡単な地図と、数行の走り書き。それでも流麗な文字は書き手の品格を表していた。

「確か……一つ向こうかしら」

一つ向こうの角を覗き、マルテナ嬢はそのまま引き返してきて四つ目の角を入って行った。縦貫道こそ人通りは多いが、一つ角を曲がるとそこは市街でも下層。市壁の影で薄暗く、狭い路地は決して清潔とは言えない。薄汚れた男が、蹲るようにして眠っていた。

「おやぁ、どうしたんだいお嬢さん」

反対側から若い男の声。下卑た笑いを浮かべた三人の若者が割れた石段に座り込んでいた。

「流行のブティックなら反対の路地だよ。それとも」

「オレらに用かい?ひひひ……」

マルテナ嬢はさっと彼らを見渡した。眉を潜めるでもなく、目を逸らすでもなく。ただ、見渡して、そうね。と言った。

二人が顔を見合わせながら立ち上がった。何処か不気味な笑い声を響かせながら、のそのそと近づく。

「へぇ、こんないいとこのお嬢さんがオレらに?なんだろうなぁ……?」

「折角おいでくださったんだ、たっぷりもてなして差し上げなきゃ──」

腕を掴もうと伸ばした指先を炎が焦がす。年長格の男が静止するよりも早く、そっと摘み上げたスカートの裾から、理力の炎が吹き上がった。

「このアマ……!」

「あら、ごめんなさいね。暗いところは苦手ですの」

「テメェ!」

振り上げた拳を年長格の男が黙って掴んだ。つんのめった男の鼻先を熱気が掠め、気圧された男は派手に尻餅をついて転んだ。

「術師か。いや、式符?」

「あなたはご存知なのね?話が分かる方が居て下さって助かりましたわ」

レイヤードのスカートの裏に、式符の刺繍が施されている。使い切りの紙符と違い、何度も使うことができる仕掛けだ。ただ、式符ごと燃えてしまわないように制御しなくてはならない。

「道をお尋ねしたいの。よろしいかしら」

常に吹き出す熱気に、二人の男はすっかり竦み上がってしまった。年長格の男だけが前に出て、マルテナ嬢からメモを受け取った。

「……確かにこの先だ。突き当たりを右に行った3軒目、二階の奥だ」

「ありがとう。助かりましたわ。お代は──」

「そんなものはいいから、さっさと行ってくれ。寒気がする」

「あら……」

この男は術式を使うようだ。と言っても、子供が遊ぶ程度のものなのだろう。格の違いを見せつけられて、やはり竦んでいるのだ。

「ごめんなさい。用が済んだら、すぐにお暇いたしますわ」

マルテナ嬢が通り過ぎた後、男達は互いに顔を見合わせ足早に路地を出て行った。一人などは、心底恐ろしいと言った顔を隠せずに。

足元を照らしながら、マルテナ嬢は路地を奥まで進んだ。途中子猫を見かけて、しばし戯れた。

突き当たりを右に行った3軒目。襤褸いアパートの二階の奥。古びた扉に、ドアノブだけが磨かれて黄色い真鍮が鈍く光っていた。人の出入りがある。メモに書かれた通りの銘板もある。

「ここかしら。おじさまの宝物がある場所」

ドアノブに手をかけようとして、二度、ノックした。

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ある令嬢と老紳士の日常 @reznov1945

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