第8話
いつものカフェの、いつものテラス。
いつものように間違っておかれたグラスを、マルテナ嬢は取り替えなかった。
「……なんじゃ」
「偶には私だって、胸焼けしそうなクリームに溺れていたい時だってありますわ?」
そう言ってスプーンを取る面持ちは些か悲愴で、目の前のパフェにはどうにも似つかわしくない。翁は仕方ないと言ったように溜息をついて、2杯目のカプチーノに口をつけた。
「あぁ……やっぱり、重いですわ。良くこんなのをお召し上がりになりますのね」
ようやく半分ほど無理やり口に運んだところで、マルテナ嬢はグラスを投げ出した。翁がそれを素早くひったくり、瞬く間に空にしてしまう。
「鍛え方が違うんじゃよ。お嬢さん」
「おじさまのようになりたいわけでは、ありませんわ……」
本当に胸が焼けているのだろう、呻くように呟いて、水を煽る。パイプに火をつけかけた翁だったが、その様を見てか、渋面を作りマッチを消した。
「なんじゃなんじゃ、いったいなんじゃお嬢さん。随分らしくないじゃないか。この老いぼれで良ければ話してみるがいい」
「いいえ。おじさまには話しません」
まんまるな瞳を真っ直ぐに翁に向け、唇を尖らせてそう言い切る。戯けて見せていた翁はその向けどころを失い、しばし呆けた表情を隠せずにいた。
「……なんじゃ、おかしな娘子じゃな」
「おじさまにはわからないんですわ。私の気持ちなんて」
淡い金色の長い髪が乱れるのも厭わず、マルテナ嬢がテーブルに伏せる。細い背中に、悲しい風が吹く。
翁はしばしその様を見ていたが、飽きでもしたのか、パイプを燻らせ始めた。二度三度煙を吐き、給仕にブラックコーヒーを運ばせた。チップはマルテナ嬢が握らせた。
「……ねぇ、おじさま」
「なんじゃ、話す気になったか」
「いいえ?でも、伺いたいの」
顔だけ上げて、上目遣いに翁を見遣る。すました顔をすれば正に当世一の令嬢然とした目鼻立ちなのだが、こうしていると年相応に少女のそれ。
「おじさまはどうして、身体に悪いと分かっていてお辞めにならないの?」
「……何をじゃ、これか?」
軽く掲げて見せたパイプに、マルテナ嬢はこくんと頷いた。それにあのパフェも、と付け加えて。
「もうこの歳じゃからなぁ。今更何に気をつけたところで、老い先短い老いぼれよ」
「でもおじさまはもっとお若い時から嗜まれているでしょう?きっともっと長生きできたのに」
言い終わるより前に翁が笑い出したので、マルテナ嬢は驚いたように起き上がり、不満げな顔で抗議をした。
「いや、おかしいだろうよ。これ以上長生きをしろじゃと?大老卿のようであったなら意味もあったかも知れんが、ワシのようなものには既に長すぎるくらいじゃ」
「そんなことおっしゃらないで?私はおじさまのこと好きなんですのよ」
「……そりゃあどうも。こんな美しいお嬢さんの話し相手に選んでもらえて光栄じゃよ」
「お話し相手なら、他を探しますわよ?おじさま」
テーブルに肘をつき、組んだ手にほっそりとした顎を乗せて翁を見つめるマルテナ嬢。どこか挑発的にさえ見える視線にも翁は全く動じなかった。
「ならそうするとええ。ワシも短い時間をな、ただ美しいモノを眺めて過ごしているつもりはないんじゃ」
「うふふふ、だからなんですのよおじさま」
そう言ってマルテナ嬢が取り出した小さな包みには、金と銀の継ぎ細工が丁寧に納められていた。包みを解く指先に、何処か迷いがあった。
「ただ綺麗なだけじゃないモノを、たくさん教えていただきたいの」
「ほぅ……?」
マルテナ嬢の手の中で輝く継ぎ細工に惹かれ、翁が片眼鏡を持ち上げる。
「こいつはご婦人が付けるモノではないな」
「えぇ、そうなんですの」
「ただの飾りにしては随分と手が混んでいる。まるで呪符じゃな。お嬢さんこんなモノを何処で」
「頂き物ですの」
今度は翁が上目遣い。マルテナ嬢の困惑を見透かして、煙の輪に潜らせた。
「確かにモチーフは可愛らしいですけれど、なんだか……」
「なんじゃ、そんなことか」
興味を失ったのか、翁は仰反るように浅く腰掛け直し盛んに煙を吹き上げ始めた
「そんなこと?」
「そんなことじゃ。どうせ大方見た目にしか目を向けんかったんじゃろう」
「あの方はそんな」
「そんな?なんじゃ、話さないんじゃなかったのか?」
はっと息を飲むマルテナ嬢。翁は右の口角を吊り上げてにやりと笑った。
「えぇ、話しません」
「それはただ綺麗なだけのものじゃよ」「話しませんからね?」「なんじゃつまらん、ワシはもっと」「もうっ、言いませんったら!」
傾きかけた日差しが、マルテナ嬢の頬に差した。翁の皺に深い影。華やかな嬌声は、大通りの喧騒に溶けていった。
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