私たちのヒガン

「僕としてはね、一帝くんが頼ってくれた時はとても嬉しかったんだ。でも、まさかこんな形とは予想外だったよ」

 今日は午後から晴れる、なんて嘘くさい天気予報を聴きながら、二人で仲良くベッドの上にいた。

 そりゃそうだ。まだお盆もあけてないのに海に浸かって、夜遅くまで遊んでいたんだから。

 結婚式まであと三日。式場の準備諸々は彼岸人がやってくれる。だからと言って、当の本人たちがこれでは、浅葱さんから降ってくる小言も受け流せない。

「いいじゃない。仲が良さそうで。あなたが毎日心配してた事、二人に話してもいいのよ?」

「勘弁しておくれよ、すみさん。あぁ……、もうお酒は控えないとね」

 風邪をひいた状態でなんとか昨日一日は過ごせたけど、さすがに二人とも倒れたら色々無理が生じた。そこで彼岸人システムを使って私のわがままを他の人に叶えてもらうはずだったのに。

 一時間前に一帝さんも玄関で焦っていた。なにせ看病に来てくれたのが、浅葱さん夫妻だったのだから。

 作ってもらったお粥は、いつもの私の手料理とは格が違った。使ってるお米が違うんじゃないかってくらい。

 浅葱さんがきたからか、やたらと張り切る一帝さんを部屋に閉じ込めて、三人でリビングに戻る。

 窓の外の雨と、灰色の空を眺めながら。

「良い人であるから良い家庭を築けるわけじゃない。大さじ三杯の愛情と優しさ。それに一杯の幸せやお金を加えて、最後にひとつまみの秘密とけんか。それが良き家庭の秘訣だと思うんだ」

「一帝さんは、ぜんぜんわかんない人です。ひとつまみかと思ったら大さじ十杯はあるし。……でも、海に行った日に約束したんです。だからもう大丈夫です」

「よかった。君も、君を好きな人も、それぞれが幸せになれそうで」

「いろいろ、お世話になりました」

「何言ってるの。まだまだやる事は残ってるよ。さ、僕は一帝くんで遊ぼうかな。女の子同士の会話に参加する勇気はないからね」

 雨音の中、ドアを閉める音が重く響いた。

「ごめんなさいね、あんな亭主で。でも、ほんとにいつも二人のことを気にかけてたわ」

 隣で微笑む初老の婦人。浅葱すみさん。六十五歳。病名はガンで、余命三ヶ月。彼岸人の対象になって初めて同じ人に出会った。私はこの人の鍵をどこまで開けられるんだろう。

「六十年ちょっと生きてきたけれど、まだやり残したことが多いのよね。海外へ行くのも、お店で一番大きなパフェを食べるのも、結婚だってできたけれど。まだ横綱に持ち上げられてもいないし、船で地球一周も、砂漠で野宿もできてない。蓮花さんはどう? なにかやりたい事はある?」

 すみさんのシワだらけの笑顔で、少し掠れた声で、おばあちゃんを思い出す。ぜんぜん似てないのに、勝手に鍵が開いてゆく。

「一帝さんと沖縄へ行ってダイビングしたいです。一緒に海外旅行に行って、私が英語喋れるって自慢もしたいし、田舎の街をゆったり歩いたりもしたいです」

 去年まで心残りは恋くらいだったのに。広い世界を知れば知るほど、もっと外を見たくなってしまう。

 私の話を、すみさんは「いいわねぇ」と頷きながら聞いてくれた。私もすみさんの話を聞いた。

「いついなくなってしまうか分からないからこそ、明日を生きましょう。生きるっていうのは、きっと、明日を信じるって事だと思うから」

 少しだけ、空が晴れた気がした。




 六月の湿り気もだいぶおさまった午後、私たちは海沿いの道を、街へ向かって歩いていた。私は塀の上を、一帝さんはその下でいつでも私を受け止められる体制で。

「結婚式、楽しかったですね。興味なかったウエディングドレスも、着てみるとけっこうよかったです」

「自分は大勢の人の前に立つのは慣れていなかったので、なんとも……。ですが、いい思い出になりました」

 ジューンブライド。ケーキ入刀。ブーケトスにブライダルリング。これで私も普通になれたんだろうか。

「誓いの言葉の時、一帝さんめっちゃ緊張してましたもんね。般若みたいな笑顔で」

「蓮花さんこそ、指輪交換の時まともに目を合わせてくれなかったじゃないですか。なんですか。姫と騎士みたいでしたよ」

 人生最後の式典には、あまり人は呼ばなかった。お世話になった主治医の先生と、浅葱さんたちや他の彼岸人を三十人くらい。そんな事までやってくれるとは。彼岸人システムはどこまで私たちに思い出をくれるんだろう。

 左手を陽にかざして、薬指の眩さに目を細める。駅で買った麦らわ帽子が少し蒸し暑くて、リュックに入っている果物なんかが少し心配になる。磯の風に吹かれたシャツが、汗で肌に張り付いた。

 ここは私が最後に家族で過ごした街。五人の笑い声と、少女の涙が残っている故郷。

「静かな、いい街ですね」

「……子供の頃は、なにもなくてあんまり好きじゃなかったんです。でも、やっぱり帰ってきたら思い出しちゃいますね」

 昔よく行った定食屋は、主人が変わっていた。公園はマンションの建設が始まっていて、家はご近所ごと病院になっていた。

「一帝さんスケッチブック持ってますよね? いい場所あるんです。行きませんか?」

 はい、とだけ言って横を歩いてくれる。でも、今日はなんだか様子が変だ。やたらとこっちを見てくるというか、近い。

「……その、誰も見てないですし……。手を繋ぎませんか?」

 中学生の放課後みたいなことで悩んでいた一帝さんは、やっぱり年下だった。

 その場所は、若干五歳の藍原蓮花の隠れ家だった。叱られたり、ヘコんだりした時は決まって家から走って十分。疲れた頃に茂みに入って、まっすぐ海岸を目指す。最後に来たのは十年も前なのに、道は残っていた。

 鳥居が一つだけあるその場所は、たまに近所の子供が同じように使っているのか、草が刈り取られていた。

 私と同じ、人に忘れられた場所。鳥居の向こうには日本海が広がっている。

「社がないんですね。なかなかいい景色です」

「私が生まれるより前に、大雨で崩れちゃったらしいですよ。もともと子供たちの秘密基地的な感じだったっぽかったですけど」

 苔を払って石垣に座る。大人になって見る、子供の時の目線。波と雲と、少し気が早いおバカな蝉。

 ポケットからハーモニカを取り出して、パッヘルベルのカノンを奏でる。泣いていたあの頃の、嗚咽の代わりに。どれだけ大きな音を出しても、ここなら誰にも叱られない。

「……もしかして、私描いてます?」

「はい。あんまり動かないでください。この景色を、自分の中に切り取っておきたいので」

「できたら見せてくださいね。帰ったら他の作品も。初めて一帝さんが私をモデルにしたんだから、見る権利くらいはあるはずです」

「はい。……いつか、蓮花さんにも見てもらおうと思ってましたから」

 耳に届く音色に、鉛筆のはしる音が加わった。初夏のオーケストラは、一時間ほど凪いだ心に波を立てた。

「完成しました。会心の出来です」

「ほんとですか? なら、帰って額縁に飾りますね」

「はい。……早く帰りましょうか。見せるのはそれからです」

 立ち上がった瞬間、潮風が麦わら帽子をさらっていった。反射的に手を伸ばして、足を出す。

 木々より上に目線がいっていた。編み込まれたムギの隙間から溢れる陽光に目が眩んだ。一帝さんが、鉛筆を片付けていることも忘れて。

 世界が反転して、鼻先が熱くなる。一帝さんに躓いて転んだと気づいたのは、熱さが痛さに変わったくらいの時。

「あ………………」

 刹那、全身の血が氷に変わった。海水をかけられたみたいに頭が冷たくなって、波よりも鼓動が早くなる。

 麦わら帽子の向こう側。ほんの数センチ先に、一帝さんの顔があった。目が合った。

「すみません。咄嗟だったので、手を庇ってしまいました……」

「わ、私こそ……。なんてことを……」

 身を起こすと、少し血の味がした。でもそれもすぐ溶けて消える。

 今、確かに触れてしまった。この帽子越しに、一帝さんの唇に。

「立てますか?せっかくの新しい服に土がついてますよ。早く帰って洗いましょう」

「あ、あの……、私いま……」

「大丈夫です。直接ではなかったですし、急所は外してましたから」

 掴んだ一帝さんの手は、少し熱かった。震えていた。

 途中寄った道の駅も、汽車の窓からのぞく水田も、全部がモノクロだった。一帝さんがしきりに食べ物やらを勧めてくれたが、なんて返事したかも覚えてない。

 ふと目を開けると、家の玄関で靴を脱いでいた。お揃いで買ったスリッパと歯ブラシ。どんな色だったんだろう。

「展覧会は夜ごはんの後に。さぁ、今日は奮発して牛肉を買ってきたことですし、すぐに作りましょう」

「あ……はい」

 あぁ、なんで一帝さんが懐かしいかわかった。今のこの人は同じだ。呪いが発覚した時の父と、キスをした後の母と。

 間に何かを挟んだ実験はしていなかった。これで防げるんなら、サランラップでも巻いていれば良かった話じゃないか。この間使った皮膚樹脂膜をずっと貼っていれば、誰も死ななかったんじゃないか。

 香ばしい香りと野菜の青臭さが妙に気になった。背後で牛乳を飲む一帝さんから目を離せなかった。

「後は任せていいですか?一応、準備しておきますので」

「出来たら呼びますから、ゆっくりしててください」

 一人になった部屋は、二ヶ月前よりも狭く感じた。壁も天井も、全部に詰め寄られているみたいな。

 無心でサラダを盛り付けて、肉の味見をする。ちゃんと乳臭い。

 一帝さんを二度呼んだ。開かずの扉の向こうから返事は来なかった。

「一帝さん? 開けますよ?」

 どこかの誰かがダメだと言った。金属製のドアノブが、冷房のせいでやけに冷たかった。開け放たれた一帝さんの部屋からは、絵具と炭と、鉄の香りがした。

 その時のことは、きっと死ぬまで覚えてる。所狭しと並べられたカンバスに、四季があったこと。いつ描いたのか、桜と花火と紅葉と雪と。男の子の部屋というよりは、高校の美術室みたいだった。

「…………起きて下さい、一帝さん……」

 何度も見た、二日酔いで倒れた父。それと同じ体勢で、一帝さんは床に寝ていた。右手に今日描いたスケッチブックの一枚を持って。

 床一面に、吐血したどす黒い紅を残して。

「早く起きてくれないと、冷めちゃいますよ? 楽しみだって、言ってくれたじゃないですか」

 ヒガンが近づいてくる。床に拡がるシミが、花みたいに見えた。




「精密検査は明日からだけど、とりあえず命に別状はないって。気胸だったみたいだね。……カセンくんなら、お腹が空けば起きるよ。だから、顔を上げな」

「…………善処します」

 救急車を呼ぶときも、浅葱さんに連絡を入れるときも。自分でも驚くほど冷静だった。この日が来るのをずっと前からわかっていたように。

 町一番の大病院、私が入院したのと同じ病棟で、一帝さんは眠っている。お医者さんが言うんなら、たぶん明日には起きるんだろう。そして気づく。自分が長くとも、あと一年しか生きられないことに。

「今日は故郷に行ってきたんだってね。昨日カセンくんが嬉しそうに話してたよ。ようやく蓮花さんに認めてもらえた気がした、って」

「……浅葱さん。絶対あと一年しか生きられないってわかったら、何しますか?その原因が目の前にいたら、それから逃げますか?」

 時間はたっぷりあった。時計の針が日をまたぐまで、浅葱さんは私の話に頷いてくれた。思ったよりも彼岸人は、呪いとかを受け入れてくれる。

「そうだね……。僕なら明日を生きることを今日考えるよ。最後の時には、明日釣りに行きたかったとでも言って笑いたいね」

 大人になったら、同じことを言えるんだろうか。もし仕事につけて、後輩や部下なんかが出来た時、欲しい言葉を与えられるだろうか。

 枯れた涙腺を拭いながら、星の賛歌をのぞき見る。

「……明日を生きる目的ですか……」

 あと半年も経たずに死ぬのに、何を考えなければいけないんだ。充分悩んだ。幸せになろうとありったけ努力した。もういいじゃないか。

 浮かれた花柄シャツの裾を、折り目が残るくらい強く握りしめた。

 気を落ち着けるためにお茶でも飲もうとリュックを拡げると、見覚えのないノートがあった。裏表紙に『花扇一帝』の名が記されたそれは、今日一帝さんが使っていたのとは別のスケッチブックだった。

「あぁ、それカセンくんが昔使ってたヤツだよ。持ってきてあげたのかい?」

「……いや。でも、なんで私のリュックに……?」

 使い古されて、鉛筆の炭ですっかり黒くなったページの端。しっかりとした画用紙を、一枚ずつ操っていく。

 最初は桜だった。病院の庭の花と、いろんなところから見た景色。夜の街、昼の海、朝の空。一帝さんの目に写っていた世界は、真面目で頑固で、どこか懐かしい二色刷りだった。

「たぶん、最後のページに描き残しておきたかったんだね」

「…………はい」

 最初の日付は三月の終わり。五十頁の白黒世界の締めは、四階の病室から外を眺める女の子を、外から見上げて描いたものだった。

「なんでこんなところ……。笑ってないし、髪も整えてないし、何よりこの時私……」

 明日を生きることを、目的をどこかに忘れてきてしまっていた。

「……一つだけ、内緒の話をしよう。実はカセンくん、君に会う前に君のことを知ってたみたいなんだ。たぶんこれが最初に見た時なんだろうね。だから彼岸人の相手が君だとわかった時、僕にぽろっと言ってたんだ」

『僕が彼女の、明日を生きる理由になれたらいい』。私と出会う前から、一帝さんは変わらない。年下で、無愛想で、無口で暗くて頑固者で……。

「一帝さんが私の明日になってくれるんなら、私も一帝さんの明日になります」

 ヒガンが近づいてくるだって? 知るかそんなこと。私がいつ死ぬかは私が決める。私は死ぬまで生きてやる。

「……もし一帝さんが起きたら伝えてください。まだ試してないことがあったから、私はそれを確かめに行ったって」

「……僕にはそれを止める権利はない。それが彼岸人としての、僕のできることだから」

 ありがとうございます。それだけ告げて、廊下を走った。財布の中身なんて気にせずタクシーに乗って、家に帰って車に乗った。

 免許を取ったのは二年も前だったせいで、途中何度か信号無視をした。捕まろうがどうなろうが、あと半年で死ぬなら関係ない。藍原蓮花は、今だけ世界で一番自由に生きている。

 いろんな場所に立ち寄った。二人で行った映画館だとか、初めてのディナーのレストランだとか。

 病室を出てから二時間後、気がつけば砂浜の轍の上に降り立っていた。あの時の同じ潮の香り。別の時間、別の場所で、私たちは同じ景色を見る。

 一帝さんが砂浜に絵を描くんなら、こっちは奏でよう。最後を一緒に迎えるのは、ハーモニカでいい。

 誰もいない夜の浜辺に、カントリーロードの音が響く。海に帰っていくように、波と音楽が混じり合う。

「まだ寒いや……」

 足だけつけて時が止まる。けれどすぐに動きだした。

 呪いは自分に効かない。他人につけた呪いは祓えない。でもそれは、全部一つの前提があっての話。

 腰まで海に帰る。まとわりつく服が邪魔だ。止まれない。こうしている間に、いつ一帝さんが死ぬかわからない。

 息を止めた。音が消えた。全身が波に包まれた。

 昔から呪いの断ち方なんて決まってる。元凶を断てばいい。

 何人も殺したから、きっと天国なんかには行けないだろう。地獄の方が気が楽だ。家族にあったら気まずいどころじゃない。

 誰も赦してくれなくていい。人魚姫もたぶんこんな気持ちだった。違いない。

 寒さが消えてきて、水面が遠ざかるのが見えた。来月か、またその次か。外国に着くなら、行ったことのない島がいい。楽園みたいに静かで美味しそうな果物があって、誰もいない所がいい。

「………………さん!」

 ほんとうに、最後だと思っていた。だからその声も、海が見せてくれた幻だと。

 月が水面を照らし出し、白い泡が一面に浮かび上がった。手を掴まれて、水の抵抗で髪が引っ張られた。

「バカですか、あなたは!」

 聞き覚えのある声に、魂が引っ張られた。同時に息苦しさとしょっぱさが戻ってくる。人に見られるのが憚られるくらい激しくえずいた。

 見えたのは月と星と、人を飲み込むような黒い海。それと、初めての怒った顔。

「…………ぇ?」

 回らない頭で、握られた手に力を込めた。そのままぐいぐい進んでいった。ほおを切る風がやたら冷たくて、掴まれた腕が妙に熱かった。

 砂浜に着いても、疲れのせいかさっきの後遺症のせいか、腰が上がらない。一帝さんがずぶ濡れの服を脱ぎ捨てて、月下に少し痩せた身体が映える。

「……まずは理由を聞かせてください。自分には言えないことですか?自分では頼りないですか?」

 息を切らしたあなたを見るのが嫌だから。衰えていく姿を見るのが怖いから。そう言ったら、きっと眉間のシワがもっと深くなる。

「……まだこれだけは試してなかったからです。成功すれば呪いが解けるかもしれません。私は、あなたの明日になりたかったんです」

 顔を見れなかった。滴り落ちる海水が冷たくて、夜凪が身体を冷やしてくる。

 こんな事をしなくても、どうせ半年後に死ぬ。けれどそれより前に呪いが動き出してしまったら。もう悔いはない。私の全部の明日を、一帝さんにあげていい。

「……自分は、蓮花さんの言ったことを信じます。きっと一年後かそれより早く、自分は死ぬんでしょう。けど……」

 冷えた肩に、熱い掌の感覚が降りてきた。強引な一帝さんも悪くない。最後に見るあなたの顔は、どんなんだろう。怒ってるんだろうか。失望してるんだろうか。

「自分は…………いえ。自分たちは、死ぬまで生きましょう!」

 ずっと一人だと思っていた。死ぬときも、その後も。でもこの人は、それすら私たちに変えてしまう。

 白と黒の世界に色が落ちる。私とその他だった世界が、私とあなたと、他のみんなに変わってゆく。

 窓の外にも、桜の木の下にも、海の底にもなかった。ヒガンが近づいてきたから。あなたが来てくれたから始めて気づいた。

 私が今まで生きてきた意味は、ここにあったんだ。

 …………でも、もう遅い。

「ダメです。私に明日はいりません。どうせあと数ヶ月しか生きられないんなら、早くなっても一緒です。一帝さんに会えて、幸せとか家族とか思い出せました。あと心残りはひとつくらい」

 なんだ、案外熱いところもあるじゃないか。それならきっと、もっと沢山の人の明日になれる。

「明日生きることよりも、明日を生かすことを今日考えます」

「…………目を閉じてください、蓮花さん」

 固く目を閉じて、全身を強張らせる。亭主関白は予習済みだ。けれど、いつまで経っても痛みは来なかった。

 目を開けようとした瞬間、熱が重なった。ほんの一点に集ったそれは、全身を駆け巡り、顔を朱く染め上げる。二秒か三秒か、はたまたそれ以下か。頭が回らなくなって、時間が止まっていた。

 一帝さんの息遣いが少し遠のく。汐風に吹かれた唇が熱かった。

「…………あなたは……」

「いつかの質問への答えです。蓮花さんは自分に訊ねました。いつ死ぬのかが決まってるのは怖くないかと」

 まるで皮膚をこれから剥がすかのように、一帝さんは肩をかいた。それは見覚えのあるもの。最新の医療技術の結晶。

 ほとんど誰も知らないその医療器具を彼は知っていた。応急処置もできた。薬も多かったし、なによりインスリン注射があるなんて変だと思っていた。

 一帝さんは、上半身を覆っていた皮膚樹脂膜を剥ぎ取った。

「自分は、一年も生きられれば悔いはない」

 手を切った時、病院で言われたことを思い出した。絆創膏や包帯の上位として使われている合成皮膚樹脂膜は、元々は火傷や刺青、切り傷やかぶれ、それと手術痕を隠すために造られたんだ、と。

 白い肌の下に、無数の傷跡があった。縫合されて間もない痕もあれば、ミミズ腫れみたいなものもある。

 どこから見ても、誰から見ても。一帝さんは誰よりも彼岸の近くに立っている。

「生まれた時から、自分の命は半年でした。学校も友達も青春も、自分にはありません。ですが、彼岸人はつねにいてくれました」

 出会って、わがままを言う度に一帝さんは言っていた。彼岸人は患者の願いを全力で叶える。それが法律や掟に反しない限り、どんな悲願にも添い遂げると。

「半年前、結婚できる年になってから、自分は彼岸人になったんです。自分と同じ人の明日になりたくて」

「……私でよかったんですか? 一帝さんは私といて楽しかったですか?」

 目をそらす。ため息を吐いたのが聞こえた。

「よかったです。楽しかったです。……言わせないでください。さ、帰りましょう」

 差し伸ばされた手を、躊躇いがちに握り返す。一帝さんはちゃんと暖かかった。

 帰り道に、一帝さんの昔を知った。毎日出かけてたのは病院で検査だったとか、子供の頃に色んなところに居たのは病院を転々としてたからだとか。

 誰よりも辛くて、誰よりも痛いはずなのに。一帝さんはそれを言わないために、あの約束をした。病気のことも、余命があと数ヶ月ってことも、全部を幸せで溶かすために。

 退院の手続きは浅葱さんがしてくれた。彼は一帝さんの彼岸人でもあるらしい。

 二ヶ月と少し住んだ家は、救急車が来た時と同じまま残っていた。並んだカンバスをどかして、二人で血を拭き取る。

 改めて入る一帝さんの部屋は、さっきとは違って狭く見えた。どこを見ても違う世界と目が合う。

「いつか動けなくなった時、これで世界中を旅したかったんです。全部実際見に行ってきたやつですから」

 生まれた時から彼岸にいるのはどんな気持ちなんだろう。最初の世界は、一帝さんの目にどんな風に映ったんだろう。

「一番最初に描いた絵とか残ってないんですか? 私も練習したら、これだけ上手くなります?」

 聞くより先に、一帝さんは一冊のノートを差し出した。

「それは、自分の原点です。もう随分と昔のことなので、モデルが誰なのかも覚えていませんが」

 黄ばんだスケッチブックの一ページ。そこでは見覚えのある女の子が、見覚えのある病院の病室から外を眺めていた。

 覚えてないのも当然だ。なにせこの時一帝さんは五歳で、私は七歳だったのだから。

「その人をモデルに描いた絵がコンクールで賞を取ったんです。どこか物憂げで、昨日を見てる瞳が幼い記憶に焼き付いています」

「……一帝さんは、この子の明日になりたいって思ったんですか?」

「……はい。あ、もちろん今は蓮花さんが一番ですよ?だから、その……」

 あー、ちくしょう。目に汗が沁みる。もう夏だからか。絶対そうだ。

 出会った時から私は一帝さんの、一帝さんは私の未来だった。ヒガンの先を、お互い知らないままに歩いていた。

「蓮花さん?どうしたんですか?ご飯食べますか?お風呂沸かしましょうか?」

 朝起きて、顔を洗ってご飯を食べて、帰ったら洗濯ものを片付けないとなー、とか思いながら。きっといつまでも覚えている。

 ついに私は、恋というものを知ったんだと。

「一帝さん、ありがとうございます。私に明日をくれて。……ちょっと目を瞑ってください」




 蝉の鳴き声がこだまする昼下がり、クーラー代の節約だとか言って熱帯の部屋に汗だくな二人がいた。

「蓮花さん、急いでください。空港までのバスに遅れます」

「分かってます! でも指輪ないんですよ? 一帝さんどっかで見てません?」

「昨日外して机の上に置いてたじゃないですか! 帰ってきてから探しましょう! ほら、早く」

 今日はこれから一帝さんが描いた絵の世界を、実際に海外で見て回る。

 さぁ、明日は何をしよう。海へ行こうか。山を登ろうか。まぁ、なんでもいい。

 これからの私たちの数ヶ月は、ぼんやりと過ごすはずだった何十年よりも、きっと楽しいはずだから。

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