呪いの子
最後に人を好きになったのはいつだったんだろう。夢を見ていると気付いても、目は覚めなかった。
検査入院の三日間、一帝さんはずっとキャンバスの前にいた。結局見せてくれなかったけど、アレは何を描いていたんだろう。
ずっと自分の背中にいたはずの死神が、いつのまにか目の前にいた。小さな石塚がたくさんある河原の水際で、大きな鎌が喉に触れる。
夢の時間は終わった。漂うカレーの香りに誘われ、目を開けるとクリーム色の天井があった。
「起きてくれましたか。帰ってきたときは驚きましたが、安心してください。ただの貧血です。……最近は少し、無理をさせすぎましたね。申し訳ない」
自分は彼岸人失格です。口には出してないが顔に出てる。本当に、嘘をつけない人だ。
一帝さんは台所で作りかけのカレーを混ぜていた。その背後の薬棚から鉄剤を取り出して、白湯で一気に流し込む。
「……一応味は薄めにしておきます。それと、治らないようでしたら言ってください。夜中でも朝方でも、自分がなんとかします」
胸の奥に棘が刺さる。一帝さんはいつだって私を幸せにしようとしてくれる。
この間買い物に行った時は、私の行きたい店を回ってくれた。雑誌で見たレストランで、私の食べたかったパンケーキを食べた。
もう、いいだろうか。隠し事はしなくても。
「……一帝さん、晩御飯が終わったらお話いいですか?」
鉄剤が効いてきて、ようやく視界が冴えてくる。台所でお玉をにぎる一帝さんを見ると、新婚の実感が湧いてくる。
「はい。では、最後に味見だけしておきます。一応、蓮花さんのいつも作っている手順通りにやったのですが、なにぶん不器用ですので」
取り皿にルーを少し入れ、子供みたいに息を吹きかける。瞬間、言葉よりも先に手が動いていた。私の使った取り皿。何十分か前に、私が口をつけた。もうこれ以上、悪い夢は見たくない。
「…………っ!」
身体が地面に当たる鈍い音と、陶器が割れる乾いた音が響いた。一帝さんに覆いかぶさるように、私は倒れ込んでいた。
「……なっ!? だ、大丈夫ですか? 蓮花さん?」
大丈夫なんかじゃない。必死だった。バカみたいだった。隠してきた嘘の塗装が、錆びたように剥がれ落ちる。こんな事をしたら、さすがの一帝さんも気づくだろう。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい……」
右手から血が出ていた。皿の破片が食い込んで、神経が悲鳴をあげる。でも痛くなかった。
初めての涙は、少しスパイスの味がした。
「幸いでした。切れたのが太い血管じゃなくて。もう痛くありませんか?」
「……はい。一帝さんが応急処置してくれたおかげで、もう平気です」
「しばらくの間キズは残るそうですが、最近は人の皮膚と変わらない色や感触の人工樹脂膜がありますから。ヤケドとか、手術痕とかも隠せるようなやつです」
病院からの帰り道、車の中はこの三言しか出てこなかった。
家までの最後の曲がり角、いつもは右に行く道を、一帝さんは左に行った。
「少し海に行きませんか? たまに無性に、夜の潮騒を聞きたくなるんです」
絵を描く以外の一帝さんを見るのは初めてだった。知れば知るほど、この人はおもしろい。堅苦しいかと思えばネクタイを忘れることはしょっちゅうだし、冗談が通じないかと思っていたら、お笑い番組を一緒に見ようと誘ってくる。
心の鍵を一つずつ借りて、天守閣にいるその人を迎えに行く。お箸の持ち方から、歩幅まで。時間をかけて鍵を交換しあうのが結婚なんだろうか。
五月の潮風は湿り気が多くて、緊張の汗を誤魔化してくれる。少しやんちゃな波が、余計な音を消してくれる。
朧な月の下、ブルーシートに缶コーヒー。ホットとアイスを二人で買った。
「……昔よく、一人で夜中に抜け出してたんです。眠たくなるまで砂浜に絵を描いていました。それを見た祖父が、カンバスと筆を買ってくれたんです」
一帝さんは、これまでのことを語ってくれた。生まれた場所。たくさん引越して、同年代の友達がいなかったから勉強したこと。
この一月で、私たちは昔のことをほとんど話さなかった。高校時代も、その前も。家族が居ないと言ったら、一帝さんは自分もですと答えた。
未来を話して、夢を話して。見たくないものから目を背けていた。
でも、それももう打ち止めだ。話してくれたんだから、私も言おう。彼岸人のあなたにとって、それは鎖になるだけだけれど。
「自分には、まだまだ話してないことがあります。小学校の時に一度もプールに参加しなかったせいでいまだに泳げないことや、実はニンジンが苦手なことなど。
ですが、正直自分は自分のことを語るのが苦手です。だから自分は、なんでも言い合える夫婦よりも、何も言わなくていい夫婦になりたいんです。……この間から、押し付けてばかりで申し訳ないですが……」
嘘や隠し事は良くないなんて、どこの誰が言い出したんだろう。
心の鍵は、全部渡さなくてもいい。嫌なところも隠し事も、忌むべき過去も虚ろな未来も。全部含めて今の私だ。
「一帝さんは、いい人ですね。でも一つだけそれに付け加えさせてください。なんでも言い合って、何も言わなくて、そして、何でもじゃんけん一回勝負。そんな夫婦がいいです」
「……わかりました。彼岸人の規定に沿う限りは必ず約束を守ります」
彼岸人は、私が願えば叶えてくれてしまう。それがこのシステムの功罪。ましてや一帝さんなんて、言えばこの時期の海にも飛び込みかねない。
「じゃあ最初の一回です。ずるは無しですからね」
記念すべき一帝さんとの一歩目は、私が勝った。
「これから話すことを、すぐに忘れてください。いろんな学校とか、街とかに伝わるおとぎ話です。だから信じないで、二十歳になった時に肴にしてください」
海が凪ぐ。空に雲がさす。やぼったい奴め。
「一帝さんは、呪いって信じますか?」
それは、一人の女の子の話。まだ彼女が生まれてすぐの、人だった頃のおとぎ話。
女の子が生まれた時、両親も祖父母もそれを祝福した。七年に渡る不妊治療の末の、最後の希望として授かったコウノトリからの贈り物は、果てなき愛で育てられた。
曰く、最初に気がついたのは母親だった。そして最初の犠牲は祖父だった。なんの変哲も無い、老衰ゆえの病死だった。
三年経って、彼女に弟が生まれた。同時に、祖母が呪われた。一緒にバケツアイスを食べていたら心臓発作が起こり、その一月後に亡くなった。
家族は貧しくとも、仲良く慎ましく暮らしていた。彼女と仲の良かった弟が、半年後に事故にあった。回復に向かう途中で、彼は息を引き取った。
母が娘の呪いを疑った時には、幼稚園の友達が夭逝し、母の妹が逝去した。三人になった家族は、それでも共に旅をした。
弟が死んだ日、初めて娘は父の胸で泣いた。それはもう、一晩中くっついて。息もできなくなるほど顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
両親は呪いを悟られぬように検証をした。看護師だった母が採血をし病院へ行き、写真家だった父はツテの占い師や霊媒師に相談した。
きっかけは、ほんの些細な日常から。たまたま飴を舐めていて、それを庭に落として、黒糖かと見まごうほどの蟻がたかった。次の日父は、芝生の上で動かぬ黒い塊を見た。
「……唇に触れたのが鍵だったんです。直接でも、間接でも」
祖父と弟は、ほおにキスをされて。祖母は一緒にアイスを食べて。少女のキスは命の炎を吹き消した。
「一番短かったのが祖母。長かったのは父です。呪いを受けて、一年耐えました」
思い出す事は辛くない。語るのもイヤじゃない。けど、この人に教えてしまうと言うことが、この先を生きる一帝さんの魂に、私の名前を刻んでしまうのが怖かった。
地球と鼓動と、私の心臓の音が重なった。波が少し荒れる。足元にまで潮が満ちてきていた。
永い長い物語が終わるまで、一帝さんは缶コーヒーをちびちび飲んでいた。三本目だった。
今も目に焼き付いている。母が居なくなった日の事が。
世界でふたりぼっちになった親子は、海に行った。暑い夏の始まりで、凍えてしまった娘を暖めるために。
少女の病気がそこで初めて現れた。心臓発作が起こり、溺れ、母が助けた。救急車が来るまでの十分間、母は誰一人として娘に触らせなかった。心肺蘇生を行い、人工呼吸で気道をこじ開けた。
「……一年以内に死ぬと分かった母の行動は早かったです。いろんな保険に加入して、お金を全部娘が使えるようにして。半年を過ぎた頃に、娘が母の死に巻き込まれないよう家を出ました。連絡が来たのが一週間後、ニュースを見たのがその三日後です」
「自分もそのことについては存じています。結婚する前に調べましたから」
「はい。これで終わりです。タイトルは未定です。ずっと前に聞いた昔話です。童話です」
すっかり冷えた缶をぐいっと飲み干して、重たい腰を上げた。
早く帰って、ご飯食べて寝たい。お風呂に入りたい。潮風で肌が気持ち悪い。特に顔がひどい。こんなに湿って、ベタついていたらまるで私が泣いたみたいじゃないか。
甘いものは苦手だった。ずっと飲んでいたくなるから。変わらないで欲しいと思ってしまうから。
「……蓮花さん」
どうする、花扇一帝。抱きしめて「自分はそれでも蓮花さんが好きだ」と言う? 手を引いて「愛してる」? それとも、このまま何もせず、聞かず言わずに帰る?
今のが私の秘密の全てだ。それは間違いない。間違っていたのは、私が一帝さんの全部を知ってるって思ってたこと。
「泳ぎましょう」
「…………は?」
聞き返すより早く、一帝さんの服が宙を舞った。まるで私にキャッチしろと言わんばかりに脱ぎ捨てて、春終わりの海に飛沫が上がった。
「さ、寒くないんですか?」
「寒いです!」
はしゃいでいるのも、大声を上げているのも初めてだ。この人は、どれだけ初めてを教えてくれるんだろう。
「絵を描いても、どれだけ一人で過ごしても、時間が解決してくれないことはあります。そんな時は、たまに思い切り暴れましょう。厳格で無口な藍原一帝でもなく、大人ぶって暗い藍原蓮花でもなく、ただの夫婦として」
一帝さんの言う、なんでも言えてなんにも言わなくていい家族がわかった気がした。
持っていた服を投げ捨てて、シャツのボタンを急いで外す。スカートは諦めよう。肌を見られるのは少しだけ恥ずかしかった。
五月も暮れだというのに、海は私たちを拒んでくる。紫色の唇で、湿った息で、桜色の声を上げる。
「さっきのは聞き捨てなりません。暗いのは一帝さんの方です!」
「寡黙な方が好かれると、昔祖父に教わったんです!」
いつか報いが来るんじゃないかって思っていた。幸せに生きる権利がないだとか、誰とも関わらずに死のうとか、そんな事は一通り考えた。
眠れなくても、ご飯が喉を通らなくても、たとえ空を見なくとも。明日が来るのが怖かった。
この感謝を誰に伝えたらいいんだろう。どう捧げればいいんだろう。
夜風に湿った肌が冷えていた。ベタつく髪をあったかいシャワーで流した。たまに温泉に行くからにバスタオルを車に置いておいてよかった。季節外れの肉まんを帰り道で買って、家で埃をかぶっていたゲーム機を引っ張り出した。
ヒガンが近づいてくる。ありがとうを、私はうまく伝えられただろうか。
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