ヒガンの指環

天地創造

彼岸人

その手紙が届いたのは、私の命があと半年を切った後だった。

 最初に私の周りで「それ」が起こったのはいつだっただろう。母曰く、私が生まれた時から私はそれを背負っていた。

 朝起きて、顔を洗ってご飯食べて、帰ったら洗濯物取り込まなくちゃな~とか考えながら。今日も同じ場所に動かず並ぶ五人の家族に「行ってきます」と告げる。

 今日でおそらく学校に行くのは最後になる。玄関で靴を履いて思い出した。

 あぁ、ついぞ私は、恋というものを知らなかったな、と。




 初めてその人に出会ったのは、お日様も眠くなるような春の昼だった。せっかく今日はお花見日和なのに、私は自分の病室からガラス越しにしょっぱい桜を眺めていた。

「初めまして。先日書類をご確認いただいたと思いますので、細かいことは省きます。私が差出人の『彼岸人』花扇一帝です」

 一度聞けば忘れないような名前の彼は、慇懃で目つきが悪くて、どこか緊張していて、少し怖かったのを覚えている。

「あぁ……。どうも。藍原蓮花です」

 若葉色の入院着はどこか幼いパジャマみたいで、少し恥ずかしかった。

 たった六畳ほどの個室に私と花扇さん、そしてその上司の浅葱さんと言うおじいさんの三人が並んでいた。

 全身を白のスーツに身を包んだ花扇さんは、結婚式に遅刻した新郎さんみたいだ。浅葱さんはそのお父さん。

「その、届いた手紙なんですけど、実はほとんど読んでなくて……。学校から帰って読もうと思ってたら、雨に打たれてボロボロに破れちゃって」

 政府からの押印があった封書を誰もいない家に放置するのも気が引けたからと、持って歩いたのが間違いだった。全身を滴る雨よりも、手紙が破れたせいで出た冷や汗の方が多かったくらい。

「問題ありません。説明用に予備を持ってきておりますので」

 花扇さんはただでさえ慇懃で緊張する顔をさらに強張らせて、慣れない手つきでカバンを漁った。

「だめでしょカセンくん。そんな眉間にしわ寄せてちゃ。緊張するのも分かるけどね、やっぱり円満な家庭に必要なのは笑顔だよ、笑顔」

「笑顔……。はい。善処します」

 無理やり口角を釣り上げて作られたその顔は、悪人が誘拐した子供に見せるそれだった。

「まだ固いけど、これから時間をかけて崩していきな。なにせ君たちは、明日から夫婦になるんだから」

 慣れないその言葉の響きに、少しだけ頬が朱くなる。花扇さんも同じだった。

 開いた窓から、短く揃えた短髪に桜が乗った。けどそんな事にも気づかないで、花扇さんは真面目な目つきで書類を確認している。

 結婚。お嫁さん。小さい頃からぼんやりと描いていた夢が、秒速五センチでやってくる。あとたった半年。でも、半年だからこそ私は花嫁になれた。

 役所が作る書類というのは、どうしてこうも文字が多いのだろう。渡されたは良いものの、内容が頭に入ってこない。花扇さんは私が読み終わるのをじっと待っているし、どうしたらいいんだろうか。

 目線で助けを求めると、浅葱さんが深いシワの刻まれた笑顔で応えてくれた。

「まずは藍原さんも公民の授業で習ったと思いますが、この制度の概要から。世界の医療が発達し、人が百年生きる時代になった今でも、若くして亡くなる人は多い。皆の心残りはさまざま。そんな中でも最も多かったのが、誰かの心に残りたいというもの。特に、家族の、恋人の。

 そこで作られた法案が特殊結婚法。通称、送り婚です。それを行う政府の役員を、人はこう呼ぶのです。『彼岸人』と。

 まぁ、こんな学校のような話は置いておきましょう。早い話が、余命半年を切った人が望めば政府が結婚相手を『彼岸人』の中から選別してくれるという制度のことです」

 二年くらい前に高校の先生が、「これは重要。最近できた法律の中で一番世間の反響が大きかった」とか語っていた。

 浅葱さんは咳払いをして、白髪交じりの長髪をかきあげた。

「政府からとは言え、『彼岸人』は適正試験を合格し、厳格な機密保持と個人情報の保護を約束した半ばボランティア。結婚生活に我々は一切干渉致しません。法律的にも本物の夫婦です。若い人には馴染みがないかもしれませんが、昔のお見合い制度と似たようなものです」

 説明を終えると、浅葱さんはさっさと書類をまとめて扉に手をかけた。

「後は一人で大丈夫だね?カセンくん。まったく、一人で行くのが恥ずかしいからって僕に頼ってどうするの。ちゃんと手を繋ぐ時はカセンくんから言いだすんだよ?ご飯の味付けが違っても文句言わないんだよ?いい?」

「早く帰ってください。奥さんに怒られますよ」

 けらけら笑う浅葱さんの背中が、花扇さんで見えなくなる。病室に静寂が戻った。

 看護師さんから、あまり病室の窓を開けないでくれと言われていたことなどすっかり忘れてしまっていた。白のシーツに春が来る。怒られるのは嫌だけど、もう少しだけこの陽気に浸らせてほしい。

「……結婚していられるんですね、浅葱さんも」

 頭に乗っていた花弁が落ちる。

「はい。送り婚だと聞いています」

「花扇さんは、『彼岸人』になって何年目くらいですか? お若いですよね?」

「自分はまだ一年目……というか、入って数ヶ月です。高校を出てすぐですので、十八です」

 その時初めて、私は自分よりも年下の人と結婚したと知った。一応事前に花扇さんに関する書類は送られて来るとの事だったが、まさかあのでろでろの封筒の中にあったんだろうか。

 関節が壊れたロボットみたいな、ぎこちない会話。油をさしてくれる浅葱さんはもういない。私たちは明日から同じ屋根の下で暮らすんだ。

「とりあえず、花扇さんじゃ素っ気ないですよね。……一帝さん」

「そうですね。蓮花さん。これからよろしくお願いします」

 誰かに名前を呼ばれるのは久しぶりだった。笑うのもいつぶりだろう。

 仮初めでも、半年だけだとしても、みんなこれが欲しいから彼岸人を呼ぶ。この制度ができて一番喜んだのは、難病を患った子を持つ親だったらしい。今ならその気持ちがわかる。肉親じゃ埋められないこの溝が、私たちには見えてしまってるんだ。

「自分の使命は、幸せな家庭を築くことです。その為に全力を尽くします」

 その言葉は、いつか本当に結婚したい人ができた時のために取っておいてください。喉につっかえた本音は、春風に吹かれて散ってしまった。

「本当に、全力ですか? 私のお願いとか、聞いてくれますか?」

「それが法律に触れない限り、彼岸人は望みを叶えます。……そうだ。その辺のシステムについても、これからお話ししようと思っていたんです」

 お日様の陽気が沈んで、少し湿った夜の風が吹くまで、私たちはお互いの話をした。

 彼岸人制度は、私たち患者側に殆どの決定権があるらしい。ずっと病室で寄り添うだけとか、たまに抜け出して街でデートとか。逢瀬は各々の病気や病状によりけりだとかも、懇切丁寧に教えてくれた。

 結婚式はいつ挙げよう。苗字はどっちのにしよう。花扇蓮花だと可愛らしすぎるから、藍原一帝にしましょうか。どっちの家に住みますか?披露宴には誰を呼ぼう。私にはもう親戚も友達もいないから、花扇さんの方から沢山出してくださいね。違う、一帝さんだ。

 初めて会った人のハズなのに、言葉遣いも見た目も堅苦しくてつまんなさそうと思ってたのに。

 一帝さんは良い人だった。だから私は最低な人間であろう。嘘をつこう。たくさん自分勝手を言おう。いつか私を忘れてもらおう。これからのあなたの八十年は、きっと私といる半年よりも満たされるハズだから。




 私は彼に嘘をついている。ずっと秘密にしている事がある。バレずに死のうと思っている。

 検査入院の三日間、一帝さんは朝病院が開いた時からお見舞いに来てくれた。一日目は私の好きなサツマイモのロールケーキを持って。二日目は一帝さんの趣味という大きなカンバスを持って。そして三日目には、保証人の浅葱さんと一緒に婚姻届を持って。

「イヤになったらいつでも言ってください。彼岸人はより良き一生を過ごすためのパートナーです。蓮花さんの人生にとって、一番良いと思った事をしてください」

 神妙な面持ちで告げたと思ったら、浅葱さんにほおをつねられていた。ざまぁみろ。

 四日目の朝、私たちはだだっ広い病院の裏庭に咲いた桜並木の下を、キャリーケースを引きながら弾んでいた。

「病院に行くときは教えてください。車出しますから」

「大丈夫です。多分来るのはあと三回くらい、それもお薬もらいに来るだけですから」

 私の病気は、この日進月歩な世界の医学でも治せない。病名は確か、後天性免疫異常過剰症候群。臨床はおろか、対症療法さえ確立されていない。

 慣れない操作の一帝さんの運転。なんでこの人はこんなに頑張れるんだろう。

「死を告げる病って言われてるんです。私の病気。ある時を境に一気に細胞が免疫反応を停止して、発症から一日経たずに死んじゃうとか」

「……それは資料にない情報です。参考にします」

「…………実はまだ、あんまり実感が湧いてないんです。潜伏中は身体に殆ど異常はないし、薬で伸ばせる分は伸ばすつもりですし」

 信号待ちのブレーキが、少しだけ強く踏み込まれた。

「でも、いつか絶対来るんですよ……。避けられない死が。それが怖いのかどうかさえ、もうあんまり分からないんです」

 目は合わせない。慰めの言葉も聞きたくない。何かして欲しいのに、何もして欲しくない。

 桜が咲いて、空に舞うまで。あなたの中に居られるのはそれくらいでいい。

 病院で買った缶コーヒーを開けると同時に、車が止まった。砂浜が広がって、その向こうには群青色。海に来るのも久しぶりだった。

 少し肌寒い春の潮風。柔らかい砂に一番乗りの証を付けながら、水際を歩く一帝さんについて行く。

「……申し訳ないが、自分にはどう答えるべきかの言葉が見つからない。だから、来たる日まで返事は保留させてもらいます。

 ですが、一つだけ言わせていただきたい。蓮花さん、自分はあなたに、ずっと笑顔を咲かせていてほしい。もちろん自分も最善を尽くします。ですが、自分は未だ未熟者ですので。二人合わせて、笑っている。そんな家庭を作りませんか?」

 差し伸べられた手は少し筋肉質で、けれど優しかった。暖かかった。満ちてきた波が足に届く。

 胸が痛む。軋む。この人の世界の片隅に、私の笑顔だけでも残したいと思ってしまう。せめて最後は、笑顔で別れよう。泣いて産まれたんだから、死ぬときは笑ってやろう。

 その日、私は初めて自分の心に嘘をついた。私は彼なんて、気になっていないと。

 潮風からの帰り道、私の住む街の市役所に婚姻届を出しに行った。十八歳と二十歳。送り婚用の書類には、保証人欄が一人分しかない。大半は彼岸人の上司が書くんだとか。

 受理されて、祝福されて、帰り道にゼクシィを買ったりなんかした。

 世の新婚さんが新たな生活の一歩を踏み出す間に、私たちは五歩進まなければならない。家は私より街寄りに住んでる一帝さん。苗字は藍原。結婚式は来月。

 助手席でうとうとしていたら、いつのまにかアパートについていた。

「明日引越しの準備を手伝いに来ます。手続きはこちらで済ませておきますので、蓮花さんは身の回りのものを片付けておいてください」

「合鍵渡しとくんで、勝手に入ってきてください。私、朝弱いんで」

 使う予定のなかったそれを手渡して、車のエンジンが遠ざかるのを聞いたまでは覚えている。今日は疲れた。

 その日私は夢を見た。十年先のこと、二十年先のこと。慣れた感じでお互いの名前を呼んでいた。一帝さんはあの不審者みたいな笑顔じゃなくなっていた。

 ヒガンが近づいてくる。「それ」がない私の世界は、笑顔が咲いていた。



 新婚生活は思っていたよりも楽しかった。私たちのそれは、子供の頃にしたおままごとみたいに平和だった。無駄に広い一帝さんの部屋は、このために新しく借りたと言っていた。

 大学を辞めて昼は暇になった。けど、一人の頃よりひと匙くらいは楽しみができた。

「それじゃ自分は報告に行ってきますので、何かあったら連絡してください」

 ほぼ毎日のように、一帝さんはどこかへ出かけている。彼岸人には結婚生活の経過を報告する義務があるんだとか。

 玄関口まで見送って、一人になると少しだけホッとした。なんとか上手くやっていけている。

 ベランダに出て洗濯物を取り込んでいると、おもてを歩く一帝さんが見えた。さりげなく手を振ると、気づいて振り返してくれた。

 春の色は落ち着いて、緑が街にやってくる。出会ってからひと月の記念日に、私たちは式を挙げる。

 気合いを入れ直して、まずは部屋の掃除から。自分の部屋は自分でやるとのことだから、私が手を出すのは共有スペースだけ。

 家の棚には、いくつもの薬箱が並んでいた。免疫疾患を抑える薬、抗生物質、アレルギーのためのインスリン注射に、果ては胃腸薬から漢方まで。私が来る前に、一帝さんが揃えてくれていた。

 空白の写真立ての埃を拭きながら、今日の献立を考える。

「あと四ヶ月。これ以上の幸せはいらない。悔いはない。気合いを入れろ、藍原蓮花!」

 私は嘘をつく。道ですれ違った若奥さんに、最近できた知り合いに、夫婦になったあの人に。

 今日も包丁を握るのが怖かった。でも、怪しまれるよりかはずっといい。

「……味がしない」

 なんだか、今日は少し気分が悪い。昨日遅くまで結婚式の打ち合わせをしていたからだろうか。横になったら治るだろうか。

 でも彼が帰ってくる前に、晩御飯だけは完成させなければ。作りかけのカレーを別の鍋に移して、洗い物を済ませておかなければ。

 全身に悪寒が走る。視界の隅が白んできて、さっきまで持っていたお玉の感覚が薄れてきた。

 まぶたの裏に母がいた。父と、祖父、祖母、まだ三つだった弟がいた。

 これはきっと報いだ。私が生まれてきた事への罰だ。

 霞みがかった頭の中で出た声は、自分のものかどうかさえ分からなかった。

「お願いです、一帝さん。あなたは私に、殺されないで」

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