黄昏

楠瀬スミレ

大丈夫。心配するな。

 目覚まし時計のアラームが遠くに聞こえた。寝返りを打ち、止めようとしたが、次の瞬間ハッとして飛び起きた。


「仕事!」


 しかし、その恐怖からはすぐに開放された。今日は休みだ。毎日必ず6時にアラームが鳴る。セットの仕方を忘れたため、時刻を変えることが出来ず、そのままにしているためだ。


 また苦い朝が始まった。


 どうも、この生活時間に慣れない。定年退職して1年。新たな職についたが、前より出勤時間が早くなったし、休みも土日ではなくなったからだ。


 隣の「ベッド」に挨拶をした。妻のベッドだ。


「おはよう」


 ホテルのベッドのようにしわひとつなく整っており、冷たさすら感じた。


 妻の洋子は忙しい女だった。少し雑なところがあったから、整えたつもりのベッドもしわがあったり、布団が斜めになったりしていたものだ。洋子が入院した日、このベッドは僕が整えた。男というのはこだわるから、きちんとしなくては気が済まない。しわを伸ばし、まっすぐに布団をかけた。それ以来、このベッドはそのままの姿でここにある。あの日から朝を苦いと感じるようになった。


 僕が朝起きて最初にする仕事は、仏壇を開ける事だ。以前は洋子の仕事だった。今日もいつもと同じように花の水を変えて、炊き立てのご飯を供えた。


「おはよう。洋子、今日もよろしく。僕は大丈夫。そっちで幸せに暮らせよ」


 洋子は生前、自分が死んでも仏壇には絶対写真は飾るなと言っていた。僕が思い出してはくよくよすると思っていたからか、もしくは洋子が写真に写るのが嫌いだったからかもしれない。だから、言われた通り、仏壇には写真を飾っていない。しかし、仏壇の前に座ると、僕は死んだおやじやおふくろはそっちのけで、洋子に話しかけてしまう。


「なあ、なんで検診受けんかったんか? なんぼ医者が嫌いじゃゆうても、早う診てもらえば助かったかもしれんのに」


 洋子が医者に診てもらった時にはガンは既にステージⅣだった。


 我が家は郊外に建つ5LDKの古い一戸建てだ。結婚した時には既に親父は亡くなっていた。おふくろと一緒に暮らすために、少し大きめの家が欲しくて、中古の家を買った。そのおふくろを見送って、もう17年になる。今はこの家には僕一人だ。娘の舞は、大学から東京に出てそのまま向こうで結婚してしまった。おふくろの部屋はさすがに片付けたが、舞の部屋も、他のすべての部屋も、時が止まったまま今に至っている。


 朝はいつも4人用のダイニングテーブルに、一人分の食事を用意する。僕はどちらかというとまめな方で、おいしく食べるために労力をいとわない。しかし、それは相手があってのことだ。自分一人なら、お湯で作る味噌汁で十分だ。洋子がよく言っていた。舞が学校に行っている間の自分一人のお昼ご飯は「エサ」だと。今その意味がよくわかる。僕は今、命をつなぐために自分に食事を与えている。


 僕の向かいの席は洋子の席だ。今は空気だけがそこにいる。「いただきます」という僕ひとりの声が響いた。


 昨日の夜、洗濯機のタイマーをかけておいたので、洗濯物が洗いあがっていた。洋子がやっていたから僕もそうしている。一人分の洗濯物なんてあっという間に干せる。洋子は時々パートに遅れると言って洗濯物をほったらかして出かけてしまう事があった。そんな時は僕が干していたから、こんなことは朝飯前だ。


 洋子が元気なころは、どこへ行くのも洋子と行った。大きな旅行は定年退職後にとっておこうと、近場にドライブに行っていた。それも年に2回程度。僕には、すぐに誘える友人は、残念ながらいない。そもそも気を使うのが嫌だから洋子と出かけていたのだから、別に今だって何ともない。大丈夫だ。以前と同じように、休日は、たまったテレビの録画を見ればいい。それが一番気楽な楽しみだから。特にお笑い番組はいい。笑っている瞬間は純粋にストレスから解放されると何かで聞いたことがある。本当にそう思う。そして、ドラマは別の世界に入れるから、好きだ。いつも洋子と舞が見ていたリビングの大きなテレビは、今なら見たい放題なのに、僕は使っていない。どうしても以前と同じように寝室の小さなテレビを見てしまう。今日もいつも通り、寝室だ。


 ごろごろしていても、腹は減る。もうすぐ昼になる。会社員生活が規則正しかったせいか、昼飯は時間通りに食わないと気が済まない。今日もラーメンにしよう。いつだってそうだった。舞の教育費の為に洋子が働きはじめると、僕は、休日家に一人になることが多かった。そんな時はいつもラーメンだったから、何も変わらない。だから、僕は大丈夫だ。以前と同じだ。洋子が作るラーメンよりずっと豪華だから。ネギはもちろん、半熟卵もチャーシューも玉ねぎもモヤシもメンマも入れる。洋子が作るラーメンはネギとモヤシだけだったから僕が作る方がいい。食器を洗うのも僕の方が早いし手際がいい。僕の方が家事はうまいと自負していた。だから、洋子は「私が先に死んでも大丈夫だね」と言っていた。


 しかし、洋子が入院した後、とても驚いたことがあった。みるみるうちに、家の周りが草ぼうぼうになっていったのだ。そして、トイレの匂いがきつくなり、毎日ちゃんと茶碗を洗って空っぽにしている台所のシンクが曇って白くなり、カビが生えてしまった。実は洋子が頑張ってくれていたのだと知った。


 何よりつらかったのは食事だ。洋子は料理は決してうまい方ではなかったが、買って来たものを食卓に並べることは、体調が悪い時以外ほとんどなかった。そのせいか、コンビニ弁当は二日目でうんざりしてしまった。野菜炒めでいいから洋子が作ったものを食べたかった。ラーメンと肉炒めしか作れなかった僕は料理を覚えた。洋子の存在の大きさをいやというほど感じた。


 今は僕が草むしりをしているし、トイレもシンクも毎日そうじをすればいいとわかったから、きちんとやっている。だから大丈夫だ。心配ない。


 食後、スーパーに行った。主に明日のための買い出しだ。洋子が好きだったワインとチョコとシュークリームと生ハムとチーズを買った。そして、僕のための、豚の耳とすなずり。これは僕が飲むときは、絶対はずせない大好物。洋子は匂いが嫌いだと言って一口も食べなかった。すまない、洋子。明日だけはこの匂い、許してくれ。


 帰りに花屋にも寄って、仏壇用にいつもより奮発していい花を買った。


 家に帰ると宅急便の不在連絡票がポストに入っていた。すぐに電話を掛けると、早々に持ってきてくれた。送り主は舞だった。送り状にお菓子と書いてあった。きっと、バナナ味のあれだ。洋子はいつも舞が帰省するとき、買ってきてと頼んでいたから。開けてみると、やっぱりそうだった。すぐに舞に電話をかけた。


「父さん? 届いた?」

「ああ、今届いた。ありがとう。母さん、喜ぶよ」

「お花の方がいいのかもしれないけど、お水やったりとか、後から父さんが大変だから、お菓子にした」

「正解。母さんも父さんも花に興味がないけえ、その方がええわ」

ゆうちゃんと代わるね」

「じいじ~、ぼくね、ようちえんにいっぱいおともだちがいるんだよ。おなまえかけるようになったんだよ」

「すごいのう~、悠ちゃんは。じいじ、早う悠ちゃんに会いたいのう」


 そう言ってしまって気が付いた。東京生まれの悠斗ゆうとには言葉が変に聞こえるかもしれない。孫とはいえ、あの東京なまりはどうも苦手だ。ぞびぞびっとくる。


 電話は舞の声になった。


「明日行けなくてごめんね」


 舞も今では東京なまりになってしまった。


「ええよ。お前も忙しいんじゃけえ、無理するなよ」


 舞とこんな風に話せるようになったのは洋子のおかげだ。洋子が入院するまでは、ほとんど話ができなかった。僕は厳しい父親だったし、子育てをまかせっきりにしていたせいだ。しかし、皮肉にも、洋子の入院を通して、舞と助け合い、励ましあったことで、家族がひとつになれた。洋子、ありがとう。だから、僕は大丈夫だ。心配するな。


 僕はまた寝室でテレビをつけた。基本的にテレビはすべて録画で見ることにしている。1週間ためているから、まだ見るものはあった。


 ふと気づくと、テレビの画面は録画ではなく、いまやっている番組が流れていた。どうやら眠ってしまったようだ。洗濯物を早く入れなくてはいけない。ベランダに出た。


 ここは山の上の団地だから、遠くに瀬戸内海がほんの少し見える。本当に少しだけだが、洋子は、海が見えると喜んでいた。


 黄昏の空は、紫のようなピンクのようなオレンジのような色が層になっていて、バブルの頃にショットバーで飲んだカクテルのようだった。洋子の病院から見た空の色と同じだ。


 あの日……小さくなってしまった洋子は、か細い声で、「きれい」と言った。黄昏の空が、忘れたくて奥深くしまっている僕の感情を、記憶の倉庫の中から勝手に引っ張り出してきた。


 少し早いが風呂に入った。シャワーで何もかも流したかった。


 風呂から出たら、ビールが飲みたくなったが、そこはぐっと我慢して夕食の準備を始めた。


 自分で料理を始めて、もう2年になる。包丁さばきも板についたし、正直、洋子よりうまいかもしれない。大したものは作らないが結構満足している。だから、大丈夫だ。洋子、心配するな。


 夕食はいつも寝室のテレビ前のテーブルで食べる。夕食をあのダイニングでは食べる気がしないし、ゆっくり酒を飲みながらテレビが見たいからだ。食事、というより、酒の肴ばかりだ。男なんてそんなもんだ。僕は自由に好きなように暮らしている。


 そういえば、洋子が一度だけ友人と旅行に出かけて家を空けたことがあった。あの時は家で一人になることが珍しくて、まるで映画「ホームアローン」のように好き放題やって満喫した。今だって好き放題だ。だから大丈夫。心配するな。そう、僕は大丈夫。ごらんのとおり、元気にやっているし、何もかもきちんとできる。洋子、お前がいた頃より、この家は整っているだろう? 大丈夫だ。


 けれど、1年の365日のうち、1日だけ。1日だけ許してくれないだろうか? なあ、洋子。明日だけは……君の命日だけは、君を思って泣くことを許してほしい。ワインを開けて、君の写真に話しかけながら飲みたいんだ。いいだろう?


 おっと、もうこんな時間だ。明日になる前に寝てしまおう。日付が変わったら、僕はどうなってしまうかわからないから。


 おやすみ。洋子。また明日な。

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黄昏 楠瀬スミレ @sumire_130

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