黄昏

文月(ふづき)詩織

黄昏

 とうに覚醒している意識を抱え込むようにして体を丸め、目覚めへの義務感から逃避する。忌まわしき朝の、日課である。


「朝ですよ、起きて下さい」


 懐かしい声と温かな手が意識を覚醒へと誘い、会社への忠義と責任感が微睡まどろみを組み伏せて目覚めを為す。


 そんな朝が二度と来ないことは知っている。それでも往生際悪く、私は狸寝入りを決め込んでいた。


  *


 シンクにはカップラーメンの空容器が乱雑に積み上げられている。冷めきった茶色の汁が、冷たい化学調味料の香りを放っていた。知らず背を丸めてキッチンに足を踏み入れると、パックに封入された米をレンジに入れる。


 顔を洗う。無精が育んだ髭が掌に刺さる。


 顔から落ちた水滴がカップラーメンの残り汁に波紋を広げるのを眺めるうちに、電子レンジが音を立てた。食器棚から引っ張り出した薄桃色の小さな茶碗は淵が欠けていて、焼き固められた土が顔を覗かせていた。


 リビングの一角を占拠する巨大な仏壇に供えられた昨日の米を、電子レンジにかけたばかりの米と交換する。乾燥した米はシンクに落ちて、排水口に溜まった生ごみの一部を為す。


 仏壇の中心に置かれた写真立ての中で、妻が眩いほどの笑顔を浮かべていた。


 妻の遺影と向き合って、ぬるい茶漬けを胃に流し込む。


 もう二年になる。その歳月に直面して、空虚な驚きを覚えた。


 彼女の死はあまりにも突然で受け入れがたく、それでいて世にありふれたものだった。ほんの僅かな不注意が現代文明の利器と絶妙に噛み合って、彼女の命を奪い去った。いわゆる交通事故である。


 四十年来そうしてきたように、私はその日、仕事をしていた。出がけに交わしたのが妻との最後の会話であるが、内容はさっぱり思い出せない。他愛ないものだったのだろう。


 食事を終え、茶碗をカップラーメンの空容器に重ねると、リビングの窓を開けた。枠が歪んでいるのか、窓は不快に軋むばかりで、なかなか開こうとはしない。


 歪んだ窓枠の向こう側には、枯れ果てた植木鉢の転がる小さな庭がある。細胞壁の名残によってのみ形を残す植物は、根の残骸を固い土に未練がましく絡ませていた。


 妻が手を入れていた花壇には幾多の植物が繁茂して、かつての名残を覆い隠していた。


 部屋に吹き込む外の風が、うっすら積もった埃を揺らす。絡み合って塊になった埃が、部屋の隅に溜まっていた。


 テレビのスイッチを入れ、リモコンをってチャンネルを切り替える。番組が二巡したところでリモコンを置いた。そのタイミングで偶々たまたま点いていたバラエティー番組の空虚な音声のみが、この空間の音源となる。


 新聞を広げた。灰色の紙に印字された黒い文字を追ううち、視線は滑ってあらぬかたへと向かう。


 テレビは軽く、新聞は薄い。昔はこんなではなかった。テレビも新聞も、質の低下が著しい。


 批判を口にする度に困ったような笑顔で相槌を打っていた妻は、遺影の中で満面に笑っている。


  *


 腹が減るとコンビニまで歩いて出かける。


 田んぼのあぜ道を広げてできた細い道路の両脇には側溝が走っている。コンクリの切れ目から顔を出した雑草が、瑞々しく風に揺られていた。


 この周辺には複数の大学がある。多くの学生アパートが立ち並び、多くの学生が暮らしている。


 歩道一杯に広がって走る自転車の群れがすれ違いざまに編隊を変えて、すぐ脇をすり抜けていった。マナーの悪い学生たちだ。最近の若者はこれだから……。


 コンビニに到着するなり、ビールとつまみを確保した。カップラーメンには食傷気味であるので、弁当を購入した。


「ありがとうございました!」


 判で押したような店員の声を背にコンビニの外に出ると、一匹の野良猫が私の前に立ち塞がった。野良猫は大きな丸い目でこちらを見上げ、愛らしい声と共に足に頭をり寄せて来る。


 ついついほだされて、つまみをいくらか地面に置いた。途端に店員が飛んできた。


「お客様、困ります。野良猫に餌を与えないでください!」


 学生のアルバイトと思われる若い店員に注意されて鼻白む。


 自分の金で買ったものをどう扱おうが私の勝手なのではないのか。私の三分の一程度しか生きていない若造が、生意気に差し出口を叩く。嫌な時代になったものだ。


「これだから最近の若者は…」


 放出し損なった怒りをこねくり回しながら家路を歩く。


 ふと振り返ると、少しの距離を置いて先ほどの猫が付いてきていた。私は立ち止まった。


「うちに来るか?」


 声をかけると、返事をするように猫が鳴いた。猫に近付いて、しなやかな体を抱き上げる。途端に猫はすさまじい剣幕で威嚇音を発し、するりと私の手を逃れた。


 猫が姿を消した側溝を、私はしばし呆然と眺めやった。柔らかく温かな感触だけが腕の中に残った。


  *


 日が傾いて行くのを片目に確認しながら読書をする。最近の作家はつまらない。妻の遺影は変わらぬ笑顔を浮かべている。


 目は一向に文字列に定着しなかった。


 妻の死から、私は常に集中力を欠いている。まるで夢の中にいるようで、現実に実感が伴わない。あの後一年間会社で仕事をした。大過なく定年を迎えたことが信じがたい。


 本を諦めて、再びテレビの電源を付ける。リモコンを拾う前にテーブルの上に置いたスマートフォンの電源を入れ、何の表示もないことに落胆する。儀式のような決まりきった手順を終えると、テレビのチャンネルを操作した。


 大学の講義が終わったのだろうか。学生たちの集団が、家の前を通り過ぎていく。


 興味もないテレビの音声が阻害されることに無性に苛立った。


「最近の若者は……」


 呪文のようにそう呟く。


 リモコンを放り出して、スマートフォンの電源を入れる。短時間に何度も電源を入れ、ありもしない表示を探す。ただその繰り返しでスマートフォンの電池は消耗していた。


 気が付けば強烈な西日が部屋に注いでいた。テレビの画面が良く見えない。赤く輝く黄昏たそがれは、惨めな自分を嘲笑っているかのようだった。


 あとは沈むだけの夕焼け。私と同じだ。だが、私はあれほどの輝きを放ってはいない。


 がたつく窓を閉め、カーテンを閉ざして憎き黄昏を部屋から閉め出す。カーテン越しに尚も侵入してくる赤い光に辟易していると、スマートフォンが俄かに輝き始めた。


 娘の名が表示されていた。二呼吸ほど時間を置いてから、通話を選択する。平静な声を装って、開口一番用事を問うた。


「別に何にもないんだけどね。最近どう?」


 娘の問いかけに対して、ぼちぼちだと答えた。


「そっちに行ければいいんだけど、こっちも忙しいけん」


 娘の謝罪めいた言葉に気遣い不要と返答した。


「もっくんはどうね?」


 私は孫の様子を尋ねた。


「イヤイヤ期に入って、もう大変」


 さもうんざりしたように言う娘の声には、隠し切れない喜色が滲んでいた。娘の言葉の一つ一つが温かな欠片となって、胸の内側に積み重なる。


「また連絡するね」


 通話が切れた。十分にも満たない短い会話だった。通話の終了を告げる、決まりきった文言。以前にその言葉を聞いたのは、一月ひとつきも前のことだった。


 いつの間にか夕日も沈んでいる。暗転した部屋に、テレビの光が煌々と輝いている。立ち上がって電気を付けると、白々しい灯りが部屋を照らした。


 遺影の中で妻はとても楽しそうに笑っている。


 夕食に食べたコンビニ弁当は、やはり不味かった。妻の作った質素な食事が懐かしく思い返される。美味いと告げたことはあっただろうか。


 沈黙の部屋の中に、バラエティ番組のわざとらしい音声がかしましく響いていた。


 絶望は不意に襲ってきた。


 一瞬温められたぶん、元の温度がひどく冷たい。私は一人だ。誰にも省みられることなく、たった一人でここにいる。


 人生百年の時代だそうだ。私にはあと三十年と少し残されている。幸いにして金には困っていなかった。二人で過ごす老後のために、せっせと働いて金を溜めた。


 だが溜めた金を、どう使えばいい? 妻と共にいる時間を削り、二人の僅かな贅沢を惜しみ、一人取り残された今、私は、は、どうやって金を使えばいいのだ? この不味い弁当を食らって漫然と生き続けるために、四十余年働いたのか?


 遺影の妻を前に、己の内面へと問いかけ続ける。輝くような笑顔には、うっすらと埃が積もっている。


 外から酔った学生たちの楽しげな声が流れ込んで来た。就職活動の手ごたえのなさを嘆き、社会の不出来を責め、己の才の発見され難いことを語り合う。


 彼らは世界の中心に自分がいると思っているのだろう。若い。ああ、若い。いつの時代も、若さというものは!


 いつの間にか俺は世界の中心からこんなにも遠ざかってしまった。

 俺が無為の一日を積み重ねる間に、世界はどんどん変わってゆくのだ。


 正座した膝の上で拳を震わせ、俺は鼻息を荒くした。酒が過ぎたのに違いない。男が泣くのはみっともないことだ。めそめそする軟弱な男子を、俺は常に嘲って来たではないか。だが、実のところ、俺はこんなにも弱かったのだ……。


 妻を失い、退職し、生活の形が変わった途端、どう生きればよいのかも解らんのだ。俺はただ一人、延々と同じような一日を繰り返し続ける。三十年以上も、それが続くかもしれぬという。これほど恐ろしいことが、果たしてあるだろうか。


 家の外を若者たちが行き交って、楽しげに不幸を披露し合っている。俺は誰にも気づかれぬまま、一人きりの家の中で肩を震わせている。


 外から漏れ入る輝きは眩しすぎた。俺は体を引きずるように寝室へと逃げ込んだ。


 万年床と化して久しい布団に入ると、仄かにかび臭かった。


 一秒が経過するごとに、時計の針が動く音がする。あと何回この音を聞くことになるのだろう。憎しみを込めて時計を睨む。夜光塗料が施された時計が、寝るには早い時刻を突き付けて来た。


 また明日も俺は早いうちに目覚め、起こしてくれる手を求めて不快な微睡まどろみに縋るのだろう。


 それが解っていてなお、目覚めていることがいとわしい。


 瞼の裏の闇だけが、熱を宿して俺に寄り添うのだ。






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