第1話 盗品のない強盗事件

 一つダンボールを両手で抱えた青年が廊下を歩いていく。廊下は男の目的の場所に近づくにつれ人気が少なっていった。そして、他の部署から隔離されたかのように、資料室が並ぶ一角にその部署はあった。

「刑事部第一課匿名捜査対策室第5係……ここか……」

 ここが今日から青年が配属された部署だ。大学卒業後二年間の交番勤務を経て、今日から念願の警視庁勤務だと意気込んでいた。ひとつ深呼吸をし、ダンボールを片脇に抱え直して居住まいを正す。そして、気合を入れて扉を叩く。

小鳥遊たかなし、入ります」

 扉を開けると、目の前にはちょうど初老の男性が立っていた。男性はキョトンとした表情で小鳥遊を見つめる。

「失礼します。本日付けで刑事部第一課匿名捜査対策室第5係に配属されました。小鳥遊忍たかなししのぶであります」

「ああ。小鳥遊くん。待っていたよ。ようこそ、匿名第5係へ。私はここの係長の高原玄たかはらげん。よろしくね」

「はっ! して……係長だけ……でありますか?」

 とっくに出勤時間は過ぎている。小鳥遊はさっと部屋に目を走らせるが、7つ並んだ机のうち使われている形跡がある物が2つ。向かい合う形で6つ並べられた奥にひとつ異なる向きで置かれた物と、扉から奥側の真ん中のものだけだ。部屋には他に二口コンロとシンク、電子レンジと電子ポットが置かれた簡易キッチン、分厚いファイルが保管された棚、ソファとテーブルの簡素な応接セットが置かれており、床には書類やら物理学の本やら美術書やらが転がっている。だが、部屋には高原の他に人影は見当たらなかった。

「いやぁ、もう1人いるんだけどねぇ」

 高原が困ったように言葉を濁したその時。

「おっはよーございまーす」

 後ろから気だるげな女性の声が聞こえて、とっさに小鳥遊は扉の前から退く。女性はそれでも邪魔だったのか、小鳥遊を押しのけて部屋に入る。突然押された小鳥遊は少しバランスを崩し、ダンボールを落としかけるも、慌てて両手で抱え直し、扉の隣に立ち直した。

たらいくん。遅かったねぇ。今日はどこに寄ってきたのかな?」

「品川大学教授殺人事件の現場ですよー。昨日の夜から調べてたらそのまま寝ちゃいまして、叩き起されて追い出されましたー」

 ボサボサの髪をさらに掻き回しながら槃は自分の席につき、机に突っ伏す。ボサボサの髪によれたスーツはとても警察官には見えないが、れっきとした警視庁の刑事である。

「また君はそんな……次は何を持って謝りに行こうか……」

 自由気ままな槃と呼ばれた女性と、頭を抱える高原。小鳥遊は終えてけぼりである。

「あの……」

「へ? あぁ、そうだった。ごめんね。槃くん。こちら、今日から配属された小鳥遊くん。小鳥遊くん。匿名5係のもう1人にして、エース、槃くんだよ」

 高原がそれぞれを指しながら紹介する。

「本日付けで配属されました、小鳥遊忍であります」

「たかなしぃ? あー、この間表彰されてた葛飾の警察官がそんな名前だったっけなぁ」

「それ僕です! いやぁ、警視庁の方に興味を持っていただけてたなんて光栄だなぁ」

 照れくさそうだが、自信ありげに応える小鳥遊に、槃は少し身体を起こしてジト目で言い捨てる。

「興味とかないから」

「へ?」

「槃くんはね、頭がいいんだよ。きっとどこかで誰かが話してるのをたまたま聞いちゃったんだろうねぇ」

 小鳥遊をフォローしているのかしていないのか分からないようなことを高原が言う。

「頭がいい?」

「東大理科三類に在学中、アメリカに留学。2年次に東大中退、ハーバード入学、飛び級で2年で卒業、その後FBIで捜査官を6年勤めた後、CIAのスカウトを蹴って、今ここで捜査官をやってるんだよ」

「IQ200なめんな」

「IQ200!? そんな人実在するんだ……」

「君もなかなか……いや、それより、槃くんもちゃんと挨拶しなさい」

槃尊たらいみこと。天才でーす。よろしく、げぼ――」

 槃が机に身体を伏せたまま続けようとした言葉を遮るように、小鳥遊の後ろから扉を叩く音が3つ部屋に響いた後、扉が開けられる。

「失礼するよ」

「げっ、五十嵐いがらし

「い、五十嵐くん」

 現れたのは、仕立てのいいオーダーメイドのスーツをキリッと着こなした、正しくエリート然とした細身の男だ。

「槃尊。また勝手をしたそうだな」

「勝手ってなによ。あたしだって捜査一課の刑事よ。捜査権限はあるはずじゃない」

「大学教授殺人事件は殺人第3係の管轄だ。お前の仕事じゃない」

「はぁ? あんたらが無能だからあたしがさっさと解決してやってんでしょーが! 感謝こそされても文句言われる筋合いはないね!」

「勝手に深夜現場に潜り込んで荒らした挙句、眠りこけることが業務内だと? はっ、笑わせるな」

「うっ……」

 火花が見えるくらい熾烈な口論は、正論を言われた槃が言葉に詰まり、幕を閉じた。配属早々停職か、いや、もしかしたら退職なんてこともありうるかもしれない、と、小鳥遊が覚悟を決めた時、五十嵐と呼ばれた男は態度を一変させた。

「はぁ……まったくキミは……高原係長。これ、一課長の最近のお気に入り、殿上庵てんじょうあんの饅頭です。こっちは皆さんで食べてください」

「毎度毎度ごめんねぇ、五十嵐くん」

 男が高原に渡したのは、高原が先程頭を悩ませていた謝罪の手土産だった。いや、態度の急変はこれだけでは無い。槃を見るその目は、凶悪犯と対峙した時のような殺気立った目から一転し、心底愛おしいというような、そう、惚れてる女を見るような目に変わっていた。

「ごめんね、驚いただろう? 扉前まで部下がいたから形式だけね。君が今日からこの部署に配属された小鳥遊忍くんだね。立てこもり犯の件は上から聞いてるよ。私は総務課特別捜査係、五十嵐恭介いがらしきょうすけだ。よろしく」

 五十嵐は、扉の横に立ったままの小鳥遊にも朗らかに笑いかけ、手を差し出した。

「特別捜査係って……刑事部長直属の捜査部隊ですよね! お会いできて光栄です!」

「そんな、大げさだなぁ」

「そーよ。所詮能無しの一部なんだから」

「君はまたそう……ごめんねぇ五十嵐くん」

「いいんですよ。事実です。尊には敵いません」

 五十嵐は、小鳥遊の手を離し、槃に近づく。槃は自信ありげに笑いながら、五十嵐を見上げた。

「で、さすがに今回のは解決したわよね? 能無しさん」

「もちろん」

「「田中小太郎」」

「ビンゴ! さすがは私の尊!」

「ウザい! 近づくな!」

 さらに距離を詰めようとする五十嵐を槃は鬱陶しそうに遠ざける。

「照れない照れない」

「照れてない! ほんと鬱陶しい! どうせ凶器見つかってないんでしょ! 探しに行かなくていいわけ?」

「そうなんだよね。証拠は十分に揃ってるんだけど、凶器がないとどうしても格好つかないよね」

「棚」

 槃の声は湖にひと雫落ちたような静けさでありながら、広くはない室内にスっと響き渡った。

「棚? 扉の横のかい? そこはもう鑑識がひと通り……」

「底板に色が一部変わっているところがあった。どうも美しくないと思ってたけど……二重底になってる。それも下から外す形でね」

「二重底? どうしてそんな……」

「さぁ? 元々は研究のデータでも保管してたんじゃないの? 棚が作られた時からあるもので、右前の脚から左に3cm、奥に3cmの所にある。寸法はおそらく幅26.5cm、奥行き35cm。A4が入るサイズ。全体のバランスから想像するに、高さは3cmから5cm。十分に凶器は入るはず」

「……中は?」

「確認する前に追い出されちゃったから知らない。さっさと行って確認すれば?」

 そう言うと、槃はまた机に起こしていた身体を預けた。部屋が一瞬静まり返る。

「さっすが尊だ! これだから私はキミを愛さずにはいられない!! 今すぐに凶器の確認に行ってくるから、結果を楽しみにしててね。高原係長、ぜひお早めに行くことをおすすめしますよ。では、私はこれで失礼します」

 五十嵐は早口にそう告げると、綺麗な敬礼をし、慌ただしく部屋を出ていった。嵐が過ぎ去ったような状況に、小鳥遊はただただ立ち尽くすしかなかった。

「さすがだねぇ、槃くん」

「あの脳なしにも解けるような事件ですよ。まったく手応えがなかったです」

「そんなこと言わずにさ、彼も優秀じゃないか。君の婚約者なんだろう?」

「こ、婚約者!?」

 ドラマの中でしか聞いた事のないような肩書きに、小鳥遊は現実に引き戻された。

「うっさい! 違います。ただのストーカーです」

「またまた、そんなこと言っちゃって〜。さ、五十嵐くんがお膳立てしてくれたから、私は私の仕事をしようかねぇ」

 そう言うと、高原は五十嵐に渡された紙袋を右手に持ち、少し憂鬱そうに扉に手をかけた。

「あぁ、そうだ。また忘れるところだった。小鳥遊くんの席は槃くんの前だから、好きに使ってね」

 部屋には小鳥遊と槃だけが残された。

「あの……現場には何度行かれたんですか?」

 部屋の空気に耐えきれず、小鳥遊は槃に声をかけた。現場百遍は刑事の基本だ。きっと槃も何度も現場に足を運んだのだろう。

「昨夜一度きり。昨日捜査一課のパソコンをハッキングして一番面白そうだったから行ったけど、正直期待外れね」

 ハッキング。またしても小鳥遊には聞き馴染みの無い言葉だった。というよりも――

「…………それって犯罪じゃ……」

「無駄な時間と人員を使うよりよっぽど効率的でしょ。そもそもさっさとあたしの所に持ってこない脳なしが悪いのよ」

 むちゃくちゃだ。果たしてこの人の下で自分は働けるのだろうか。

 小鳥遊に不安が過ぎった。

「そうだ。次は3課にしよーっと。最近強盗が起きたって言ってたし、それにしよー」

 槃は突然がばりと身体を起こすと、鞄からパソコンを取り出して、カタカタと何やら操作を始めた。

「えっ、あの、だからそれって!」

「はっけーん! 国分寺豪邸強盗事件!」

 槃が勢いよくEnterキーを押すと同時に、部屋のどこかからガタガタと機械の音が聞こえた。槃は 床に無造作に置かれた物を掻き分け、棚の奥に消えると、右手に紙を持って戻ってきた。

「さてと、捜査に行きますか! 新入りくん」

「へ? じ、自分も……ですか?」

 


 その家は、高級住宅地国分寺の一角に似つかわしい門構えと敷地面積だった。

「あなたが被害者の古隅麻衣子ふるずみまいこさんですね」

 被害者は古隅麻衣子、29歳、美術館の学芸員だ。両親は既に他界しており、財産として与えられたこの豪邸に1人で暮らしていた。

「はい、そうですが……捜査は外部犯って方針が固まったって伺いましたけど……」

「……ちっ、もうちょっと待ってたらうちの案件になってたか……」

 槃が不服そうに小さく零す。

「あの、なにか……」

「いえ、少々気になる部分がありまして、現場を拝見させていただきたいのですが……」

「はぁ……わかりました。部屋はまだそのままにしてあります……どうも怖くて怖くて……」

 古隅麻衣子は、被害を受けた一階の1番奥、西の部屋に槃と小鳥遊を案内した。

「こちらです」

 古隅が扉を開けると、中は散々な状態だった。落ちて割れた花瓶に、無残に破れたカーテン。戸棚の引き出しは全て抜かれ、ひっくり返されて無造作に捨てられて、中に入っていただろうペンや絵の具が床に山を作っている。窓は外から割られたのだろう、一枚まるまる無くなっており、内側に破片が落ちていた。無事なのは一目で明らかなガラス扉の戸棚に並べられた食器だけだろう。

「幸い、金目の物はなかったので、何も取られていないのですが……」

「金目の物がない、ねぇ……ウィッジウッド、マイセン、ジノリにバカラ……あの無残に割られた花瓶は……いや、あれは…………か……」

 槃が突然なにかを呟き出したが、隣に並ぶ小鳥遊にも聞こえない。

「あの……槃さん?」

「ここにある物、ほとんどが高級食器だ。売れば数百万は下らないでしょう」

「数百万!?」

「よくお分かりになられましたね。でも、馴染みのない人にはただの食器でしょう?」

「まー、それもそうですね。いやぁ、それにしてもいいご趣味です。これ程集めるのは苦労なさったでしょう?」

「全て亡くなった母の物です。母の唯一とも言うべき趣味で、家にあんまりいなかった母を思い出せる数少ない物なんです」

「それはそれは……綺麗に残っててよかったですね」

「はい。そこだけは感謝しています」

「さてと、無駄話はこの辺にして、さっそくお部屋に失礼しますね」

 そう言うと、槃は部屋にズカズカと入り込み、一直線に扉と対面の壁を目指した。

「ここ、何か貼られてました?」

 ただの壁に白い手袋をはめた手をそっと当てた。

「えっ?」

「わずかですが、テープの跡が」

「は、はい。この紙が……」

 古隅はポケットから取り出したスマートフォンを操作し、一枚の紙の写真を見せた。

 その紙にはこう書いてある。

 『Purifierを許さない』

「プリファー?」

「Purifier。粛清者」

 槃の表情が一瞬強ばったように小鳥遊には見えたが、すぐに元に戻ったため、気のせいだろうと判断した。

「古隅さん。なにか心当たりは?」

「いいえ。ありません」

「そうですか。なんなんですかねー、粛清者って」

「さぁ? 私にはさっぱり」

「そーですよねー。うーん……ありがとうございました」

 槃はボサボサの髪をさらに掻き回した後、古隅に頭を下げると、さっさと部屋を出た。小鳥遊も慌てて礼を告げて、その後を追う。

「槃さん! どこ行くんですか?」

「帰る」

「もう何か分かったんですか!?」

 小鳥遊の言葉に槃は足を止め、ニヤリと笑った。

「天才なめんなよ」



「槃さーん。何が分かったのか教えてくださいよー」

「嫌だ。しつこい」

「だって、捜査らしい捜査もしてないじゃないですか。あれで何か分かったって言われたらそりゃあ気になりますよ」

 この質問ももう両手では足りないほどだ。槃にとっては鬱陶しくて仕方がない。

 根気強くまとわりつく小鳥遊を無視して、槃は自分の世界に入る。

「……どっかで見たんだよねー」

 あの現場。槃は顎に手を当て、考え込む。

「槃さん危ないですよ」

 小鳥遊が壁にぶつかりそうになった槃の腕をとっさに掴んで引き寄せる。力の抜けていた槃の身体は小鳥遊の胸にとんっと当たる。

「あ、ありがとう」

「いえいえ。もう聞きませんから、考え込むのは戻ってからにしてください。まぁ、もう目の前ですけど」

 槃が考え込んでいる間に2人は匿名第5係の部屋の前に着いていたらしい。小鳥遊は槃の身体を離して、扉を開けた。

「小鳥遊、戻りました」

「槃、戻りましたー」

「おかえり、小鳥遊くん、槃くん。で、どこに行ってたのかな?」

「いや、それは……その……」

「国分寺豪邸強盗事件の現場でーす」

 槃は気だるげに答えながら、資料が並べられた棚に向かう。

「強盗? それって……」

「3課の管轄ですね」

 部屋の一角に作られたソファと低いテーブルが置かれただけの簡素な応接セットのソファに座っていた五十嵐が答える。優雅に足を組んで座る姿は倉庫のような味気ないこの部屋の中でもそこだけ別の場所のように絵になる。

「あぁ、やっぱり……」

「なんでいんのよ、脳なし」

「もちろん、キミをディナーに誘いにね。今日はフレンチを予約してるんだ」

「あんたと食事に行くわけないでしょストーカー。1人で行ってろ」

 槃は棚に並べられた捜査資料を次々と開きながら顔も上げずに言葉を並べた。パラパラとめくられるページはとても読めているとは思えないが、槃にはそれで十分だった。

「そうか、残念だなぁ。キミが行きたがってた青山のフレンチの予約が取れたんだけどなぁ」

 槃の手の中の資料がパタンの音を立てて閉じられる。そして、その目がやっと五十嵐を捉えた。

「何時」

 五十嵐は満足げな笑みを浮かべる。

「6時だよ」

「もう5時半じゃない。さっさと行くわよ」

 資料を棚に広げたまま、槃は自分の荷物を持ち、五十嵐に投げつけた。五十嵐は危なげなく荷物を受け取り、自分の荷物とまとめて持つ。

「仰せのままに、プリンセス」

「気持ち悪い」

「えっ? ちょっと、槃さん?」

「お疲れ様でーす。お先に失礼しまーす」

「お疲れ様です。私も失礼します」

「はい。お疲れ様。また明日ね」

 足早に出ていく槃の後を追う形で、五十嵐が一度礼をして部屋を出た。

「……自由な人」

「それが槃くんだからねぇ。あっ、小鳥遊くん。悪いけど、槃くんが出した資料元に戻しといてくれる?」

「えっ……」

 スチールで出来た幅60cm程の一般的なオフィス用の五段の棚にびっしりと並んでいた資料は全て棚から出されて、棚周辺に散らばっている。数はおよそ50冊。元の順番も分からない。

「……わかりました」



「それで、何が分かったの?」

 メインディッシュが運ばれてきた後、五十嵐が口を開いた。

 メインディッシュは仔羊の脛肉のソテー。槃は一度皿に顔を近づけ、胸いっぱいに匂いを取り込んだ後、フォークとナイフを手に取る。子羊肉にフォークを突き立て、ゆっくりとナイフを入れて切り分けると、口いっぱいに頬張った。

「犯人。それと多分動機」

 頬張った肉を美味しそうに味わいながら槃は答える。

「多分?」

「そう、多分。情報がまだ足りない」

「キミが一度見ただけで分からないなんて珍しいね」

「うっさい。1つじゃないのよ」

「1つじゃないって?」

 槃はフォークとナイフを静かに置く。

「……明日には全て分かるんだからもういいでしょ」

 そして、席を立った。

「どこ行くの」

「トイレ」

 席を離れる槃の後ろ姿を見届け、五十嵐はその頬に楽しげな笑みを浮かべた。

「……キミには何が見えているのかな……槃尊」



「おはようございます」

「おはよう、小鳥遊くん」

 翌朝、出勤してきた小鳥遊は部屋に高原しかいないのを確認して、首を傾げた。槃の机の上に鞄は置いてあるからだ。

「槃さんは?」

「そこだよ」

 高原が指を指したのは資料が保管された棚の方だ。その先を目で追っていくと、昨日小鳥遊が日付順に綺麗に並べて片付けた資料がまた全て出されており、床に山を作っていた。

「ふぁああ。ん……まぶし……」

 資料の山がひとりでに崩れ、その資料の下から昨日と同じスーツ姿の槃がゾンビのように姿を現した。ボサボサの髪がまた一段と乱れている。

「槃さん!?」

「んー? あぁ、新入りくん。昨日片付けたのあんた?」

「そうですけど……」

「何あの並べ方」

「何って……日付順にちゃんと並べてましたよね?」

「日付順? ああ、だから美しくなかったんだ」

「はぁ!?」

「だーかーらー、美しくないのよ」

「美しくないってなんですか! そもそも槃さんが出したんでしょう! だいたい……」

 さらに言葉を続けようとする小鳥遊の肩に手を置いて窘め、高原は槃に言葉をかけた。

「まぁまぁ、その辺にして、ね? 槃くん何か調べたいことがあって泊まり込んでたんでしょ? 何かわかったの?」

「泊まり?」

「はい。これから話を聞いてきます」

「そっかー。3課の課長は何が好きなのかなぁ……」

「リア・ノワールのロールケーキですよ。高原係長」

「うわっ! い、五十嵐さん!?」

 小鳥遊は突然後ろから聞こえてきた声に飛び退く。デジャブだ。

「やぁ、おはよう小鳥遊くん。そして、今日も美しいね、尊」

 五十嵐は小鳥遊の退いた扉を通り、高原に紙袋を渡すと、資料を並べ直していた槃に近づく。

「来んなよストーカー」

「今日も冷たいね、そんな所も愛おしいよ」

「ドMかよ」

「槃くん。言い過ぎ」

「これでよし! うん。美しい」

 槃は高原の言葉を無視して、並べ終えた棚を見て満足そうにひとつ頷いた。

「ほう……事件の系統、事件性の高さ、関連性ごとに、か……なるほどね」

「見んな変態。お前の管轄じゃないだろ」

「いいだろう? 減るものでもないし」

「減る。なんかが減る」

「そんなキミらしくない曖昧な言い方で逃れられると思ってるのかい?」

 槃は五十嵐が腰に回そうとしてきた手を払い除けると、鞄を引っ掴んで扉に向かう。

「捜査行ってきまーす」

 それだけ告げると、さっさと部屋を出ていった。

「はぁ……小鳥遊くん。悪いけど、槃くんについて行ってくれるかな?」

「はっ!」

 小鳥遊は高原と五十嵐に敬礼し、慌てて槃を追いかける。

「さてと、私も謝りに行こうかなぁ……五十嵐くんは?」

「私はもう少しだけ」

「そうか」

 高原は五十嵐に渡された紙袋を持ち、資料棚を見つめる五十嵐を残して部屋を出た。



「そうですね。あの日のちょうど一週間前です」

 槃がまず訪れたのは、アトリエKODAKAという個人経営の小さなアトリエだった。経営者は小鷹美乃梨こだかみのり。艶やかな長い黒髪がよく似合う艶やかな色気のある美しい女性だ。古隅麻衣子の芸大時代の同級生で、現場に残った指紋から一度は容疑者の一人として3課も聞き込みを行ったが、アリバイがあり、容疑者から外されていた。

「私もあの部屋が好きでしたから、とても残念です」

 槃は部屋に飾られた作品を色々と見た後、小鷹に向き直った。

「この間行った日もあの部屋に?」

「えぇ。入りました。私にとってあの部屋は美術館のようなものですから、彼女の家に行った時は必ず入らせてもらっていました。先日他の刑事さんにも言いましたけれど、指紋はその時についた物だと思いますよ」

「そうですか……事件の後は入っていませんよね?」

 小鷹は驚いたように一瞬目を見開いた後、怪訝そうな顔をした。

「もちろんです。とても入れる状態じゃないでしょう?」

「そーですよねー。あっ、そうだ。あの花瓶って……」

「ドームの雪景色でしょう? あれ、とっても素敵ですよね。刑事さんにも良さがわかりますか」

 小鷹は興奮したように賞賛する言葉を並べたが、素人の小鳥遊にはまったく分からない。そして、槃は自ら聞いておきながら興味なさげにまた飾られた作品に目を向けた。

「やっぱりドームですかー……ありがとうございました」

 槃は小鷹の話を遮り、笑顔で礼を述べた。唖然としたのは小鷹だけではなかった。

「えっ? もういいんですか?」

「聞きたい話は聞けたから。次、行くわよ」

 槃はもう一度小鷹に礼を述べて、アトリエを後にした。小鳥遊も簡潔に小鷹に礼を述べ、慌てて槃を追いかけた。



 次に槃が訪れたのは、高橋美術館。資産家、高橋惇三朗たかはしじゅんざぶろうによって建てられたこの美術館は古隅麻衣子の職場である。だが、目的は古隅ではなかった。

「彼女の家に行ったのはもう随分前の話だよ。最後に行ったのは確か四年くらい前かな」

 柔らかな癖のある暗い茶髪が色白の肌によく似合う優男で、俳優と言われても通るくらいに顔のいい男。結城俊輔ゆうきしゅんすけ。古隅麻衣子の同僚であり、高校大学の同級生。そして、元カレである。

「事件のあった部屋に入ったことはありますか?」

「彼女の母親のコレクションルームでしょ? あるよ。あそこまで集めたなんてすごいよね」

 結城俊輔も容疑者の一人だった。彼の毛髪が現場に落ちていたのだ。

「あなたの毛髪が現場に落ちていましたが、心当たりは?」

「まったく。古隅さんの服にでもついてたのが落ちたんじゃない? 同じ職場なんだ。そんなこともあるでしょう」

「そうですね……あなたは麻衣子さんと昔付き合ってたって聞いたんですが、同じ職場で気まずくないんですかー?」

 結城の表情から笑みが消え、不審なものを見るような表情に変わる。

「……後腐れなく別れましたからね。今でも普通に話したりしますよ。それが何か?」

「いえいえ。ちょっと気になっただけです。元カレと髪の毛が付くほど接近して話すのかなーって。ま、そういう人もいますよね。あっ、これレプリカだ」

 槃は質問の答えには興味なさそうに1枚の絵に近づいた。槃がどこを見てレプリカだと判断したのか小鳥遊にはまったく分からなかった。芸術がまったく分からない素人には他の絵と同じにしか見えない。

「よく分かりましたね。本物はイタリアにあります」

「1870年代展なのにひとつだけ絵の具の質が違いますからね。この顔料が主流になったのは80年代後期ですよね。それに、裂傷具合も違う。けれど、他の作品から浮いてるわけじゃない。見事ですね」

「……あなた、何者なんですか」

 結城の質問に槃はゆっくりと振り返り、ひとつ瞬きをし、キョトンとした顔で答えた。

「ただの刑事、ですよ」



「ほんとビックリしましたよ。だって、前日に行ったところに強盗が入ったなんて言われて信じられます?」

 そう笑って言うのは、三人目の容疑者、木野原望きのはらのぞみだ。古隅麻衣子の従姉にあたる彼女は、事件の前日にあの部屋にいた。

「あの部屋から見える庭が好きで、よく絵を描かせてもらってるの。絵の具のストックとかも置かせてもらってるし。まぁ、まいちゃんと違ってあたしのはただの趣味なんだけどねー」

「古隅さんも絵を?」

 小鳥遊の言葉に木野原はまた笑った。

「ううん。芸術家ってことだけ。まいちゃんは陶芸だよ。陶器作って、今も仕事の合間に販売してるしね」

「離れに陶芸小屋をわざわざ建てるくらい本気ですもんね」

「槃さん知ってたんですか」

「うん。昨日見たし」

「えっ?」

「ほら、応接室。いくつか陶芸品が飾ってあったでしょ。花瓶とか陶器の人形とか」

「あー、そういえば……って、あれ、古隅さんが作ったんですか?」

 小鳥遊の驚きの声に槃が自慢げな笑みを浮かべる。

「よく分かりましたねー。まいちゃんすごいでしょ?」

「えぇ。あれは美しいですね。愛がこもってました。本当に芸術品が好きなんですね。有名な物の模倣もよく?」

「作ってましたねー。さすがにあの部屋の花瓶も作ってみたって見せてもらった時はレベルが違うなぁって実感しましたよ」

「花瓶、変えました?」

 木野原はまるで自分が褒められたかのようにぱあっと表情を明るくし、槃の手を両手で握りしめて、声高く言葉を発した。

「そーです! よく分かりましたねー。あの日、壊れるのが怖いから変えたいけど、一人じゃ変えられないからって、手伝いましたよ。その次の日に強盗に入られるんだから変えてよかったですよねー」

「すごい偶然ですね。あと一日遅かったらドームの花瓶が割れてたわけだ。200万くらいですかねー」

「200万!?」

「うーん……もうちょっとするかも。250万くらい」

「250万!?」

「そーですかー。やっぱり最高級品だ。すごいなぁ」

「よく呑気にそんなこと言えますね! それが割れ……てないのか。実際に割れたのは本物じゃなくて古隅さんの模倣作ですもんね……運いいなぁ」

「そーいうこと。じゃ、ありがとうございました」

「もういいんですか?」

 ソファから立ち上がり、扉に向かう槃に木野原が声をかけた。槃は振り返り、ニヤリと笑った。

「はい。もう全部わかったんで」



「あれ? 槃さん、警視庁に帰らないんですか?」

 木野原の家を出て、警視庁と反対方向に進み出した槃に小鳥遊は尋ねた。

「んー。ちょっと調べたいことがあるから今日は直帰で。おっさッサーしたー。係長によろしくー」

「えっ、ちょっ!」

 槃はそれだけ言うと、後ろ手に手を振りながら、反対方向にスタスタと歩き出した。

「ご自身でも係長に連絡入れてくださいね!!」

 槃の後ろ菅にそう声をかけることしかできなかった小鳥遊は肩を落として、警視庁に戻った。



「ただいま戻りました」

「おかえりー、小鳥遊くん。槃くんは?」

「はぁ……帰りました」

 小鳥遊は満身創痍と言うように、自らの机に突っ伏す。

「おや、そうなのかい? なら今日は私もお暇しようか」

「うわっ! い、五十嵐さん……いたんですか……」

 小鳥遊はガバッと身体を起こして、ソファに座る五十嵐を見ると、慌てて立ち上がる。

「うん。尊が返ってくるの待ってたんだけど、いないのなら仕方ないね。では、お疲れ様です、高原係長、小鳥遊くん」

「お疲れ様〜」

「お疲れさまです」

 出ていく五十嵐に高原は呑気にどら焼きを食べながら挨拶し、小鳥遊は綺麗な敬礼を送る。

「なんか、五十嵐さんいつもいません?」

「うん。いつもいるね」

「暇なんですかね?」

「暇なのかなー?」

 そんなわけないと思いつつ、そう思いたくなるほど気づいたらいつもいる。あの人たちの関係はなんなのか、といらぬ詮索を始めた自分の頭を振って、小鳥遊は意識を変える。

「そういえば、ここの資料って、うちの部署の物……なんですよね?」

 小鳥遊は昨日槃が資料を見返していたことを思い出して、資料棚を眺める。スチールの棚が二つ並んでおり、昨日槃が全て出したのは、左側の棚だった。

「うん。つまり、未解決事件ってことだね。匿名も5つあるから、警視庁の未解決事件の一部ってことだけどね」

「……そう考えると、すごい量ですね」

「右側は解決済みで、左側が未解決の物だよ。二年前に槃くんが来てからの分は全部右だけどね」

 確かに、左側に過去二年分の物はひとつもなかった。

「見てもいいですか?」

「もちろん。キミもここの捜査員だからね」

 小鳥遊は資料をじっくりと眺める。槃はこの中から何を見たかったのか。全ての事件の名前を見ても全く分からない。

「強盗……」

 とりあえず小鳥遊は強盗の資料らしき物から見るが、どれもピンと来ない。

「他に何か……」

 強盗以外に何か特徴は無いものか。

 小鳥遊は一度目をつむり、事件のことをもう一度考え直した。

「強盗……国分寺……高級住宅地……古隅麻衣子…………古隅?」

 小鳥遊は一つ思い出したことがあった。もう四年も前の話だ。古隅洋子という官僚が殺された事件。確か、犯人はまだ見つかっていない。

「官僚……官僚……あった。官僚殺人事件」

 小鳥遊はそこ事件の資料を開いた。

 被害者は古隅洋子。国分寺の自宅を強盗に入られ、その場に偶然帰宅し、逆上した強盗に殺害された。

 そう。国分寺。古隅洋子は古隅麻衣子の母親、つまり、あの部屋の元の主である。

 小鳥遊は次のページをめくった。そこには、現場の写真が載っていた。

「これって……」  



 翌日、槃と小鳥遊はもう一度、古隅麻衣子の屋敷を訪れた。そして、そこにはなぜか、五十嵐も同席していた。

「なんであんたがいるのよ脳なし。呼んでないんだけど」

「私もキミの推理を生で見たいんだよ。キミのその美しい声が最高傑作の頭脳で導き出した真相を暴く瞬間がもっとも美しいからね。それに、犯人が逆上した時に抑えられる男手が必要だろう?」

「気持ち悪いし、男手はそこの下僕がいるだろ」

「下僕!?」

 突然指を指されて下僕扱いされた小鳥遊は驚きで言い返す言葉も出てこない。さらに槃を賞賛する言葉を並べたてる五十嵐に声を荒らげて言い返す槃。下僕呼ばわりが余程ショックだったのか、呆然とする小鳥遊。まさにカオスだ。

「あの……犯人が分かったって、本当なんですか? 刑事さん」

 しびれを切らした古隅の言葉によって、なんとか場が静かになる。

「はい。犯人も動機も、ぜーんぶ分かっちゃいましたー」

「誰なんですか! 母のコレクションルームをこんなひどい姿にした人は!」

 一刻も早く真実を知りたいのだろう。古隅は音を立ててテーブルに手をつき、勢いよくソファから立ち上がる。

 槃はその反応に満足気に笑ったあと、もったいつけるように部屋をうろつく。

「ふっふっふー。犯人はですねー」

 自信満々の声が部屋に響く。

「あなたですよね。古隅麻衣子さん」

 槃の声が静かな応接室をゆっくりと広がっていく。その場の誰もが一瞬その言葉を理解できなかった。

「な、何言ってるんですか」

 犯人扱いされた古隅が小鳥遊たちより一瞬早く現実に立ち直り、震える声で尋ねた。その声は怯えているようにも、怒りを抑えているようにも聞こえた。

「だーかーらー、強盗に見せかけて部屋を荒らしたのはあなただって言ってるんですよー。す、べ、て、あなたの自作自演だって」

「私がなんのためにそんなことをする必要があるんですか?」

「聞きたい? 聞きたいですよねー」

 槃は古隅に詰め寄り、顔を近づける。古隅は迷惑そうに顔をしかめながらも答えた。

「どうすればそんな的はずれな推理ができるのかぜひとも気になりますね」

「的はずれ、ですかー。そーですかー。ま、そんなこと言ってられるのも今のうち、というか、そんなこという必要ももうすぐ無くなりますよ」

「どういう意味です?」

「そのままの意味ですよ。分かってますよね? まぁ、いいです。とりあえず、気になってるみたいなんで、推理を話しましょーか。まず、私が違和感を感じたのは現場の状況です。ウィッジウッド、マイセン、ジノリ、バカラ。これなーんだ」

 槃はとても楽しそうに話し出す。

「高級食器ブランドだね」

「僕も聞いた事があるくらい有名な物ですよね」

「そーです。まぁ、他にも色々あったんだけど、ぜーんぶ棚に飾ってあったやつですよ。傷一つなく」

「それがなんですか? 強盗が興味なかっただけでしょう?」

「そういう考えも出来ますね。引き出しの中に高そうなものや壊れ物が入ってなかったこともまぁ、見逃しましょう。じゃあ、花瓶とカーテンは?」

「花瓶とカーテン?」

「そう。金目の物を探すのに、花瓶を壊したり、カーテンを破る必要あります? あたしにはその理由がさっぱり思い浮かばないんですよねー。だって、証拠が残る危険性が増えるだけじゃないですか?」

「動けばその分ボロが出やすくなるからね」

「……確かに」

 五十嵐のフォローと小鳥遊の納得の声に槃は満足そうに頷き、また芝居くさいセリフを続けた。

「じゃあ、どうしてそんな無駄な行動をしたのか。答えは簡単です。強盗に見せかけたかったから。窓ガラスを1枚すべて割ったのも同様の理由ですね」

「強盗に見せかけて何がしたかったって言うんですか? 片付けが大変なだけで私には何もメリットがないでしょう」

 槃はその言葉を待っていたかのように動きをぴたりと止め、振り返った。

「そう。この事件だけならあなたにメリットがない」

「この事件だけなら?」

「あなたの目的は――警察」

 槃は古隅をびしりと指差す。五十嵐と小鳥遊には槃の言っていることがさっぱり分からない。だが、古隅の顔からは笑みが消えた。

「あなたがこの事件を起こした理由はある事件の犯人を捕まえて欲しいから」

「……どこまで知ってるんですか」

「だーかーらー、ぜーんぶ分かってるって言ってるじゃないですかー」

「じゃあ、アイツも!」

「もちろん。捕まえるに決まってるでしょ」

 槃のこんなに真剣な表情を小鳥遊は初めて見た。威圧感さえ感じるようなその表情に執念のようなものを感じた。

 その時、空気を変えるように呼び鈴の音が屋敷に響いた。

「こんな時に……」

「あぁ、やっと来ましたね。あたしが呼んだゲストです」

「ゲスト?」

「えぇ。あの人を」

 そう言うと、槃は部屋を出ていった。しばらくして、槃が部屋に戻ってくる。その後ろには、係長の高原と、古隅の同僚である結城俊輔がいた。

 結城俊輔は部屋に入った途端、驚いたように、一度立ち止まった。小鳥遊は、刑事が三人、いや、高原も合わせて四人いる状況に驚いたのだろうと判断した。

「ベストタイミングです。さすが係長」

「いやいや、いいんだけど、それより……」

「俺に何の用ですか?」

 槃はにこやかな笑顔を結城に向けた。

「この事件の全ての原因があなたにあるからですよ、結城俊輔さん」

 結城は心底意味が分からないとでも言うように眉間に皺を寄せる。

「俺はこの家に四年ぶりに来たんですよ……それなのに一週間前の強盗事件の犯人だって言うんですか? 俺が嘘をついてると?」

「いえいえ、あなたが四年ぶりにこの家に来たのは事実でしょう」

「なら、どうして」

 槃の顔からスっと表情が消える。

「犯人だからです。四年前この家で起こった、官僚、古隅洋子殺人事件。古隅麻衣子さんのお母様を殺した」

 部屋の温度が三度ほど下がったような気がした。静寂に包まれた部屋に、天井の大型サーキュレーターの機械音だけが響く。

「な、何言ってるんですか? 冗談にしてはタチが悪い」

「冗談なんかじゃないですよ。最初に現場を見た時、すごく違和感があったんです。そう。どこかで見たことがある、と」

「はぁ? なら、その時と同じ犯人なんじゃ……」

「そう。あたしもそう思って、過去の資料を見てたら、さっき言った事件を見つけた。現場の写真がそっくりでビックリしましたよー」

「なんだよ。はっきり言えよ」

「まぁまぁ、推理ぐらいゆっくり語らせてくださいよ。こんなThe・推理シーンなんて、なかなか出来ないじゃないですかー」

 結城が槃を睨みつける。槃は不服そうに頬を膨らませた。

「はいはい。わかりましたよー。ちょっと巻き目で続けまーす。で、そっくりなのはそっくりなんですよ。けど、一部が違った。それが食器をはじめ、部屋の物の価値を全て分かってるような壊し方です。わざわざ偽物に変えた花瓶を壊してるのが決め手ですよねー。で、あの部屋の物の価値をいっちばん分かってるのは、もちろん今のあの部屋の持ち主である、古隅麻衣子さん」

「つまり?」

 結城がバカにしたように鼻で笑ってそうけしかけた。

「今回の犯人は古隅麻衣子。彼女の自作自演です。まぁ、これは先ほど話しましたね」

「はっ、バカバカしい。周りに同情して欲しかったその女の自作自演で終わりだろ? 他に何がある」

「あれれー? もう忘れちゃいましたー? 鳥頭なんですかー?」

 結城が舌打ちをして、槃を再度睨みつける。

「あぁ?」

「だーかーらー、この事件の元を辿ると、四年前の事件に、ひいては、犯人を捕まえるために行われた自作自演なんですよ」

「……どっちにしたって俺は関係ないね」

「関係大アリですって! もー、ほんとこれがだから凡人はー。続けますよー。次に問題となるのは動機です。彼女はなぜこのような事件を起こしたのか、それと当時とのもう1つの相違点、『Purifierを許さない』の文字はなんなのか……」

「粛清者……?」

「簡潔に言うと、彼女の動機は四年前の事件の犯人を捕まえるため。そして、Purfierとは、あなただ――結城俊輔」

「……何を根拠にそんなことを」

 結城が少し動揺したのが、小鳥遊にも見て取れた。それは、槃が語っていることが真実だという証拠に等しかった。

「古隅さん。あたし、昨日の晩、現場に来ましたよね?」

 突然話に巻き込まれた古隅は一拍遅れて返事をした。

「は、はい」

「じーつーはー、こんなもの、見つけたんですよ」

 槃が右ポケットから出したのは――エアコンのリモコンだった。

「あっ、これじゃない。てか、なんでこんなのが入ってんのよ」

 槃はそのリモコンをほおり投げ、今度は左ポケットに手を入れた。

「これ、レコーダーなんですよ」

 槃が取り出したのは、ペン型のレコーダーだった。

「レコーダー?」

「あっ、やっぱり知りませんでした? 引き出しの中に入ってたみたいで、床に転がってました。まぁ、パッと見ただのボールペンですもんねー。けど、これ、四年前に仕掛けられたれっきとしたレコーダーなんです。仕掛けたのは、あなたのお母様である、古隅洋子さん」

「母が?」

「はい。とっくに電池も切れてて、データも消えかかってたんで、急いでデータを復元してもらったんですけど――」

 槃がレコーダーの再生ボタンを押すと、女性の声が流れ出した。

『結城俊輔。麻衣子を使ってわざわざ私に近づいて、何が目的なの』

 続いて、男の声が続いた。

『目的? 世界を綺麗にするための粛清だよ。政治家や官僚の私利私欲のための政府はぶっ潰さないと』

 間違いなく、結城俊輔の声だった。必死に声を堪えて涙を流す古隅の様子から察するに、女性の方は被害者の古隅洋子なのだろう。

『あんたは、あんたたちは何者なの』

 女性の声が震える。

『冥土の土産にそれぐらい教えてやってもいいか。俺たちはPurifier。この汚い世界を変えるための粛清者だ。世界のために死ね』

 女性の悲鳴を堪えるような声と、グチャリという音が何度か聞こえた後、槃はレコーダーの停止ボタンを押した。

 古隅は崩れ落ちるように床に座り込み、震える身体を両腕で抱え込んだ。

「このレコーダーからは古隅洋子さんの指紋が検出されてる。十分な証拠よ」

「あんのババア……んな姑息な真似してやがったのかよ」

 小鳥遊は怒りで目の前が真っ赤に染まった。人を殺した殺人鬼が何を。口を開きかけたその時、小鳥遊より早く声が上がった。

「姑息だぁ? ふざけるな! 人殺しが何言ってんだよ!!」

 槃だった。槃が感情を露わにして、今にも結城に飛びかかりそうになりながら声を荒らげていた。

「何が粛清だ! 何が汚れた世界だ! テメェの方がよっぽど汚れてんだろーがクズ野郎!!」

 結城に近づこうとする槃の腕を五十嵐引っ張った。

「やめろ」

「離せ! このクソ野郎を殴らないとあたしの気が済まない!」

「そんなことしたって仕方ないだろ」

「いいから離せよ! くっそ! 何が粛清だ! 人殺しが!」

「尊!」

 五十嵐が鋭い声を発すると、槃は正気に戻ったかのように、動きを止めた。

「そんなことしたって何も解決しない。尊も分かってるだろ。後は裁判官の仕事だ」

「だって……」

「分かってる。尊が正義感強いことも、結城への怒りも分かるよ。けど、それはダメだ。キミは警察官だろう」

 子どもに言い聞かせるような言葉に、槃の身体から力が抜けていき、床に膝を付く直前で、五十嵐が抱えあげ、ソファに運んだ。

「15時35分。殺人罪の容疑で逮捕する」

 五十嵐が結城の手首に手錠をかける。結城はひどく怯えた表情で、素直に五十嵐に連れられて部屋を出ていった。

「……槃さん」

「くっそ……なんで……こんな……」

 槃はひどく憔悴しているようだった。

「…………槃さん」

 古隅麻衣子の声が部屋に広がった。

「ありがとう……ございました……」

「……」

「警察なんて頼りにならないと思ってた……けど、アイツを捕まえてくれて、ほんと感謝しています……ありがとうございました」

 槃は一度呼吸を整え、立ち上がると、古隅に近づいた。そして、自らも泣きそうになりながら、必死で笑顔を浮かべた。

「よく、頑張りましたね。あなたがこの事件を起こさなければ、きっとアイツは捕まらなかった」

 その言葉に、古隅も泣きそうになりながら笑みを浮かべた。

「あの……私、何か罪に問われますか?」

 槃は一瞬驚いたように目を見開いたあと、笑ってこう言った。

「自分の家の部屋を壊すことの何が悪いんですか?」

 あの日、部屋に差し込んだ夕陽は、小鳥遊が見た中で最も美しい夕陽だった。



 一週間後、匿名第5係にはつかの間の平穏が訪れていた。先日の事件で満足したのか、槃の捜査癖も少しなりを潜めている。小鳥遊にはそれが嵐の前の静けさに思えてならないが、変に刺激しないよう今は他の課の雑用のような仕事を日々こなしていた。

「古隅さんの話したいことってなんだと思います?」

 とはいえ、古隅から槃に話したいことがあるとの連絡があり、槃と小鳥遊は午後に古隅の家を訪れる予定である。

「彼女の動機はあくまであたしの予想でしかないからね。その話でもしてくれるんじゃない?」

「えっ、僕ずっと、どうして古隅さんが犯人を知ってたのか気になってたんです」

「ふーん……ま、なんとなく想像つくでしょ」

「いや、まったくですけど……そういえば、

結局あの、結城って男、取り調べ中壊れたように俺は粛清者だとしか言わなくて、精神鑑定受けるらしいですよ」

「はぁ? まだ言い逃れする気? さいっあくだな。クズ中のクズ。ベスト・オブ・クズ」

「まさか、新規の事件と一緒に過去の未解決事件も解決しちゃうなんてねー。さすが槃くん!」

「ま、天才ですからね!」

「うんうん。尊は本当に天才だね」

 突然部屋に響いた第5係以外の第三者の声。三人の視線が声の主に集まる。そこには、いつも通り応接室セットのソファでくつろぐ五十嵐がいた。

「なんでまたいんだストーカー」

「尊がいる所に私ありってね。ああ、そうだ。ついでにその事件についてもう二つほど新しい情報を」

「新しい情報?」

 槃が興味を持ったのが嬉しいのか、五十嵐はもったいぶるようにゆっくりとソファから立ち上がって、三人の方を向き直った。

「一つ目は」

 声とともに、右の人差し指を立てる。

「先ほど、精神病院の屋上から結城俊輔が飛び降りた。即死だったらしい。普段は鍵がかかってるはずなんだけど、“偶然”開いてたらしくてね」

「…………はぁ……?」

 槃の不審がる声にも反応せず、五十嵐はさらに続けた。

「もう1つは――」

 その言葉を遮るように、部屋に電話の呼び出し音が鳴り響く。槃の携帯だ。

「はい、もしもし……」

『刑事さん! まいちゃんが……まいちゃんが、首吊って自殺した……』

 それは、木野原望からの電話だった。

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Purifiers 紫垂 @syoran

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