愁いを知らぬ鳥のうた

野森ちえこ

ツグミ

 その澄んだ声はどこまでも、どこまでもまっすぐで、のびやかで、よろこびにあふれていた。悩みも、苦しみも、悲しみもない。ただ、ひたすらに、歌うよろこびだけがある。


 そう、聴こえていた。


 おれにはそう、聴こえていたんだ。



 ♭♭♭♭♭



 キュロキュロキュイキュイピィーロピィー……



 遠くから耳に届く、その美しく複雑な歌声に、意識がまるごともっていかれる。


 クロツグミ――


 それは四月ごろに日本へやってきて、秋も深まる十月ごろになると、越冬の地へと飛び立つ夏鳥の名前である。歌うオスは全身が黒く、くちばしと足、そして目のまわりが黄色い。二十センチほどのちいさな鳥で、見た目は少し地味だけれど、そのさえずりはとても美しく、とても複雑な歌声を聴かせてくれる。


 そう教えてくれたのは、そのちいさな渡り鳥とおなじ名をもつ少女――ツグミだった。




 一年まえの今日。


 町はずれにあるこの雑木林で、おれはツグミと出会った。


 彼女は歌っていた。


 さらりとした五月の木漏れ日の下で、とても気持ちよさそうに。その手の音楽にはまったく縁がないおれでも知っているくらい有名な、神の恵みをたたえた讃美歌を。

 歌うことがうれしくてたまらないというように、のびのびと、高らかに、透明な声を響かせていた。



 自分以外の人間がそこにいるなんて思ってもみなかったのだろう。おれの存在に気がついたときの彼女はちょっとした見ものだった。


 右に左に、まえにうしろに、グルグルまわってまさに右往左往。あたふた、おたおた。そんな表現がぴったりくるあわてぶりで、おれは思わず吹きだしてしまった。それがよかったのか、彼女も我にかえったように動きを止めて、照れくさそうにほほ笑んだ。



 彼女は『ツグミ』とだけ名のった。年はおれのひとつ下で十五歳。高校一年生だという。名字をいおうとしないのは、出会ったばかりのおれを警戒しているからだろうと、たいして気にしなかった。


 ツグミの黒く長い髪は、いかにも『邪魔だからひとつに結んだだけ』というように無造作にくくられていた。グレーのパーカーとすり切れたジーンズは、細い棒みたいな体型もあわさって男の子みたいだった。もしその歌声を聴いていなくて、髪も短ければ、女の子には見えなかったかもしれない。


 だが少し近づけば、肌は血管が透きとおって見えるくらい白く、唇は口紅でも塗っているみたいに赤くつやめいていた。その身にまとっている空気は妙になまめかしくて、なんとも形容しがたいチグハグさにクラクラした。


 どうにか自分の気をそらそうと歌声をほめたら、ツグミはまたひどくうろたえて、真っ赤になって、だけどとてもうれしそうな笑顔になった。そのくしゃっと笑った表情がめちゃくちゃかわいくて、うっかり見惚れてしまって、結局ドギマギするはめになってしまったのはとんだ誤算だった。



 それにしても、なぜこんなところで歌っていたのか。たずねてみれば、カラオケボックスはお金がかかるし、人に聴かれるのも恥ずかしい。その点、ここならふだん人はこないし、なにより自然の中で歌うのは気持ちがいいから――と、ツグミはもじもじと照れくさそうに話してくれた。


 住宅街からも商店街からもはずれた場所にあるせいだろう。おれは休日の朝とかたまに走りにきていたけれど、確かにこの雑木林に人どおりらしいものはほとんどない。かといって特別治安が悪いということもなかった。どこか明るい空気に包まれている場所だからだろうか。少なくともおれは、この雑木林でなにか事件があったという話は聞いたことがなかった。女の子がひとりでいても、ここならまぁ大丈夫だろうと思える。



「歌、好きなんだ」

「……うん。歌ってるときは、ほかのことぜんぶ忘れられるから」



 忘れられる。いいかたを変えれば、それは『忘れたいことがある』ということだ。



 だけどおれは、気づかなかった。

 聞き流してしまったんだ。


 とても、楽しそうに歌っていたから。

 ほんとうに、うれしそうに歌っていたから。



 そのときのおれは、自分がこの世でいちばん不幸だといじけていたから。



 悩みとか、苦しみとか、悲しみとか。そんなのとは無縁な。好きな歌を好きに歌える。しあわせな女の子だと、本気でそう思っていたんだ。



 ♯♯♯♯♯



 おれはプロの野球選手を目指していた。人の何倍も努力して。才能だって認められていた。夢じゃなくて『目標』だと堂々といえる場所にいた。だけど。ある日、長いこと酷使してきた肘がぶっ壊れた。努力も才能も、弱っちい身体のせいで、ぜんぶ――なにもかもが、むだになった。


 こんなにすぐ壊れる身体に生んだせいだと、母親を責めて泣かれて、父親には殴られた。まぁそりゃあ殴られるよな……と、頭のかたすみでは冷静に考えている自分もいて、母親のせいなんかじゃないということだって、ほんとうはちゃんとわかっていた。だけど、悔しくて腹が立って、どうしたらいいのかわからなかった。


 部活をやめて、放課後の時間を持てあますようになって、家にいるのもイヤで、人と会うのもイヤだった。フラフラとあてもなく、人のいないほういないほうへと歩いてきて――そうしたら、とてものびやかな、きれいな歌声が耳に届いた。足は自然とそちらに引き寄せられて、そして、ツグミと出会ったのだ。



 彼女は最初、おれのまえで歌うことを渋っていた。けれど、出会いが出会いだったせいか、それともおれがほめちぎったせいか。照れくさそうにしながらも、やがてその歌声を聴かせてくれるようになった。そうしておれは、雨が降らないかぎり、放課後になるとほとんど毎日、ツグミの歌を聴きに雑木林へかようようになった。



 歌を聴いて、たわいないおしゃべりを少しして、日が沈むころに別れる。そんな毎日が楽しかった。


 ある日、鳥の鳴き声がたまたま耳にはいって『きれいな声だな』といったら、嬉々としてクロツグミのことを教えてくれた。


 彼女が歌とおなじくらい、鳥のことも好きなのだと知った。


 そうして一か月ほどたって、おれはなんの気なしに――いや、なにげなさを装っていってみたのだ。


「おれたち、つきあってみないか?」と。



 ♭♭♭♭♭



 翌日から、ツグミは雑木林にこなくなった。


 うれしそうに頬をそめて、だけど『少しだけ考えさせて』といわれて、答えは保留になったのだが。


 やっぱりあんなこというんじゃなかった――と、おれは頭をかかえた。


 そして、そうなってはじめて気がついたのだ。おれは、ツグミのことをなにも知らない。メアドも電話番号も、名字すら、知らないのだと。


 雑木林にくれば会えた。送るといったことはあるけれど、すぐ近くだから――と、やんわり断られた。だから、家がどこにあるのかも知らない。


 歌が好きで。鳥が好きで。

 歌がうまくて。鳥にくわしくて。

 声がきれいで、髪が長い高校一年生。


 おれが知っているのはそれだけだった。


 思えばツグミは、家族の話題を避けていたような気がする。家のことになると、いつもそれとなく話をそらしていた。



 とりあえず、いつも彼女と別れる場所の近くでそれとなくたずねてみたけれど、なんの手がかりもつかめなかった。ていうか、これではストーカーみたいだ。もともと恋人でもなんでもなかった。つきあわないか――なんて、告白めいたことをした直後に姿を見せなくなったのだから、それはつまりフラれたということだ。それを追いかけまわせば、立派なストーカーである。


 だから、忘れようと思った。


 名前しか知らない、歌がうまい女の子。


 ケガをして野球をつづけられなくなって、不安定だった心に、ほんのひととき、その美しい歌声で寄りそってくれただけ。


 それだけのことだ。



 ♯♯♯♯♯



 忘れたいのに。忘れようと思っているのに。


 放課後になると足は勝手に雑木林に向かっていた。夏休みにはいれば今度は朝からかよってしまう。未練がましくて、女々しくて、ほんとうに、我ながらどうしようもない。


 けれど、そうしているあいだにも時間は流れた。


 雑木林の木々が葉を落としはじめたある日の夜。おれは寝るまえに、なぜかスマホで地元のニュース記事を読んでいた。ふだんニュースなんて見ないのに、あれも一種の『虫の知らせ』だったのだろうか。



 ♭♭♭♭♭



 その『現場』に花をたむけて、実感のないまま手をあわせた。だが、なにをどう祈ればいいのかわからなくて、おれはノロノロときびすを返した。



「妊娠してたんでしょう?」

「私は中絶したって聞いたわよ」

「どっちにしても、かわいそうにねぇ」

「なにも死ぬことないのに」


 中年女性たちが数人、マンションのまえでひそひそと話している。いわゆる井戸端会議ってやつか。




 ツグミが死んだ。


 あの日、なぜか読んでいたニュースサイトで、その記事をみつけてしまった。


 自宅マンションから落ちて、死んだ。事故か事件か自殺か。まだはっきりしていないけれど、状況などから自殺との見方が有力らしい。


 ツグミの本名はかなでつぐみ。


 確かな情報はそれだけだった。


 虐待されていたとかイジメられていたとか、妊娠していたとか中絶していたとか、売春していたとかクスリをやっていたとか。


 部外者のおれに届くのは、誰の話だよそれ――というような噂ばかりだ。



「なんでも、好きな人がいたらしいわよ」

「あら、そうなの?」

「うちの子、おなじ高校でしょ。つぐみちゃんの友だちから聞いたんですって」

「それなら、なんで死んじゃったのかしら」

「だから――なんじゃない?」

「ああ、それもそうねぇ」

「あの子、売春してたんでしょう?」

「ふつうの恋人なんてつくれないわよねぇ」



 笑いを含んだ意地の悪い声が耳を突き刺す。……自意識過剰だ。ツグミの『好きな人』がおれだなんて、誰もいっていない。だいたい、ぜんぶ噂だ。おもしろがっているだけじゃないか。無責任な噂に、耳を貸す必要なんてない。



 そうは思っても。


 今さら思い出してしまったのだ。



 ――歌ってるときは、ほかのことぜんぶ忘れられるから。



 そういったときの、ツグミの目がひどく暗かったことを。



 ♯♯♯♯♯



 ツグミと出会ったとき、おれは世界一不幸だと思っていた大バカ野郎だ。好きな歌を好きに歌えるツグミがうらやましくて、どこかで妬ましく思っていた。


 だから、気にもとめなかったのだ。


 忘れられる――という言葉の意味も。

 瞳に暗い影が落ちたことも。


 聞き流して、見逃した。


 おれは、最初から最後まで自分のことしか考えていなかった。だから、彼女のことをなにも知らないまま、つきあってみないか――なんて、軽々しく口にできた。


 ……真剣だった。おれなりに、真剣だったんだ。でも。おれはたぶん、ツグミをちゃんと見ていなかった。なんでも自分に都合よく考えて、彼女をなんの問題もない『しあわせな女の子』だと思いこんでいた。



 ツグミは、なにを思って歌っていたんだろう。神の恵みをたたえる讃美歌を。


 その歌詞には、過去のあやまちがゆるされ、天国へ導かれるというとらえかたもあるという。


 救われたかったのか。

 ゆるされたかったのか。

 なにを。誰に。


 どうして、なにも話してくれなかったんだ。


 おれが、つきあってみないか――なんていってしまったから。

 おれが、ツグミを追いつめてしまったのだろうか。



 ♭♭♭♭♭



 キュロキュロキュイキュイピィーロピィー……



 一年まえの今日、ツグミと出会った。


 五月のさらりとした木漏れ日に照らされて歌っていた。


 今、心地よく響いてくるのはクロツグミの美しく複雑な歌声。


 悩みも、苦しみも、悲しみもない。求愛のさえずり。


 ……ほんとうに、そうなのだろうか。


 人間同士だってわからないのに。鳥の本音なんてわかるわけがないじゃないか。


 そう……わからない。わからないんだ。


 ツグミが死んで数か月。彼女がなにを思っていたのか知りたくて、何度も、何度も、出会ったこの場所にきている。だけど、わからないんだ。


 事故か自殺かも結局わからないままだ。事件性はないとされたから、社会的にはそれでおわりなのだろう。



 ツグミ――


 なぁ、ツグミ――



 おれ、好きだったんだ。自分勝手な『好き』だったかもしれないけど。


 一緒に過ごせたのは、ほんの一か月程度で。ふざけんなって話かもしれないけど。


 ほんとうに、好きだったんだ。



 ツグミ――


 ツグミ――――






 キュロキュロキュイキュイピィーロピィー……



 のびやかで、よろこびにあふれていて。

 悩みも、苦しみも、悲しみもない。

 ただただ、歌うよろこびだけがある。



 美しく複雑なクロツグミの歌声が、今日も雑木林に響いている。



     (了)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愁いを知らぬ鳥のうた 野森ちえこ @nono_chie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ